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仏教:欲を捨てる方法とは何か。【どうして、欲は捨てるべきなのか。2/3】

2013年11月04日 | 仏教
著者:それで、次にお聞きしたいことなのですが、おそらくですが、悪しき事をしてはならないことも、その根本原因が欲望であり、それを止めるべきだということも重々分かっている、という人も多々いると思います。分かっているけれど、それでも欲望を抑止又は無くすことは、とてつもなく難しいと感じているのだと思います。欲望を捨てることについて、いかがお考えでしょうか。

シャーリプトラ:前回の復習だが、悪しき所へ生まれたくないなら⇒悪しき事をしてはならない⇒欲望を捨てるべき。という図式だった。欲望は、悪しきことをしてしまう原因だと言った。それで、欲望を捨てるにはどうしたらよいのかであるが、自分自身を捨てることだ。

著者:それは、またとても難しいことですね。でも、難しいことは承知の上でのお話でしょうから、話を進めるとして。ああ、それができれば、欲望は無くなりますね。

シャーリプトラ:少し言い換えてみると、自分へ依存しない、自信を持たない、好き嫌いを作らない、痛みを感じない、自分の体をただの機能としてのみ見なす、楽しまない、などなどだ。

著者:う、確かに自分を捨てるとは、まるで自分自身を粗末に扱うことのようですが、何やらこれでは、非人間的なロボットのような人間像になってしまうですが、少々同意しかねるような感じがします。

シャーリプトラ:一見すると、そのように感じると思うが、それは、今まであまりにも自分自身への執着心を持っていたからだと思う。自分自身に対する執着、依存心をゼロにする。その上で、生命に対する慈愛等を得ていけば、というよりこの状態まで行けば自然に得られるものだが、とても素晴らしい人間になることになる。だって、自己を顧みず、他者の為に最大限の恩恵を与えようとするのだからね。

著者:分かりました。でも、自己を捨てている人が近くにいないので、事実を確かめようはないし、自己を捨てると言うと、外見からしか判断できませんが、滝に打たれたり、自殺したり、私財をなげうったり、無償で障害者等の弱者を救済したり、ということが思い浮かびますが、このような事をしている人が、自己を捨てている人なのでしょうか。

シャーリプトラ:うむ、それは違うと思うぞ。自己を捨てる人とは、何も自殺したり、献身的な社会貢献をしたりしている人が必ずしも、該当はしない。自殺は自己を捨てているようだが、自己に対する愛着があり、自分の希望通りに事が進まなかったから絶望し、自殺する。また、献身的に社会貢献をしている人も、周りからは自己を顧みず他者を助けているということで、自己を捨てていると映るだろう。確かに、素晴らしい人もいるだろうが、必ずしもそうではない。社会貢献をしていること自体が、その人にとっては自己の満足感や社会貢献をしているという優越感や充実感を感じている。これは、欲望、自己執着等からはっきりと離れているかと言えば、否である。厳しい見方であるが、社会に貢献していることは良いが、自己を捨てているかどうかについては、不十分な意識であると思う。

著者:滝行をすることなども、一生懸命に自己を捨てようとしたり、自己を超越しようとしていることから考えて、その想いがあまりに強いことで、逆に自己への思い、自己へのこだわり、愛着が生じているように思えますね。こう見てくると、どのような状況においても、自己を捨てることは、とても難しいことのようですね。

シャーリプトラ:そうだ。

著者:では、自己を捨てることによって、悪しき所へ生まれ出る根本原因である欲望を無くすことは人間には不可能なのでしょうか。欲望を捨てるためには、自己を捨てる必要がある。でも、人間は何かしようとすると必ずと言って良いほど、自己意識してしまいます。自分の為に行動します。つまり、自己を捨てることなんて、出来ないものだと思います。

シャーリプトラ:うむ、難しいだろうが、必ずしも、自己を捨てることは不可能ではないと思う。

著者:そうですか、次へ行く前に少し整理しますと、欲望を捨てることは、自己を捨てることである。普通の人は、必ず自分の為の行動を取ってしまい、中々自己を捨てられません。しかし、それを改善することは、難しいけれども可能であるということですね。

シャーリプトラ:そうだ。では次に、自己を捨てるためには、どうしたら良いのかを見てみよう。簡単に言えば、淡々と行動することだ。淡々の逆の意味である、過剰を考えてみると、過剰になるという裏には、強い力が生じているのは確かであり、それは広い意味での欲望が必ず関わっている。欲望という力はとても強い。君も実感していると思うが、強いが故に、強い推進力を人間に与えるのだ。しかし、それは本質的には悪行をなさしめる危ういものでもあり、仏教における究極的苦の消滅から言えば、決して良いものではないのだよ。だから、過剰ではない、淡々とした行動を取るべきなのだよ。

著者:自己を捨てるために、淡々と行動をするということですが、1日2日くらいはできそうですが、長い期間常にそのような状態を維持したり、自己の利害が目の前で発生したりの場合などに、はたして淡々といられるのか自信がありません。

シャーリプトラ:常に淡々でいるということは、自己を捨てて、欲望が存在しないようになるだろう。自己の利益が、不当に他者に奪われたりしても、決して怒らず、淡々としていられる。その状態は、無私の状態であり、自己を捨てることになると思う。究極的には、不当に腕を切られて淡々としていられることが要求されるが、普通はとてつもなく難しい。だから、修行、努力をすることになるのだ。簡単ではないということは良く分かっているよ。

著者:欲望を捨てるためには、自己を捨てることであり、それにはどんな事態に遭遇しても、淡々でいられる無私になる必要があるのですね。欲望を捨てることは、やはり、そんなに簡単なことではないのですね。修行と仰いましたが、具体的な方法があるのでしょうか。

シャーリプトラ:うむ、それを次に言おうと思っていた。自己を捨て、常に淡々とした行動が取れるようになるには、具体的にいうと、自らの心を静めて瞑想したり、自己が透明になったかのように想像したり、自己の身体や存在が虚ろであり執着する虚しさを感じ取るようにすることだ。また、白骨観という瞑想法があり、これは自己が死に、腐敗し白骨化し、その骨さえも風化し、完全に消滅していく様を瞑想によって心に染み込ませるというものだ。これなどを習熟するならば、自己を捨て、常に淡々とした行動を取ることが可能となるのだ。

著者:私も、十分ではありませんが、自己へのこだわりを捨て、自己を捨てたことの端緒を感じたことがあります。それは、悩みが吹き飛び、静かで、精神的心地よさ、等でした。欲望を捨てる、自己を捨てることは、とても難しいですが、それらを完全に消滅させたならば、欲望から得ていた心地よさに比べて、境界のまったく違う、高度な心地よさが得られると思います。そして、さらに悪しき所にも生まれない、と良い事ばかりですね。

シャーリプトラ:まあ、私から見て、君はまだ素人同然であるが、少なくとも、欲望を消滅させる意義と欲望が消滅したときの心地よさをほんの少しではあるが、感じ取ったようだから、そのまま頑張り給え。そう、君が今言ったように、欲望を消滅させることはとても難しいし辛い事だ。しかし、その状態になったならば、とても心地よいし、悪行をしないことから悪しきところへ生まれでないし、永遠なる静寂の世界へ行くことが出来る。見返りと言うと、欲望的であるが、欲望を捨てることはとても価値のあることなのだ。

著者:はい、分かりました。最後に今回のまとめをお願いします。

シャーリプトラ:そうだな。少々、分かりにくかったかな。図式風にいうと、欲を捨てること⇒自己を捨てること⇒常に淡々であること⇒その方法としては白骨観等の瞑想を習熟すること、だ。もう一度いう、欲を捨てること⇒悪行をしなくなる⇒悪しき所へ生まれ出ない、又は幸せになる、だ。

著者:分かりました。
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