書くことなら山ほどある。
本を読み止める事が出来ない。
完全に1つの世界に入っていってしまうのだ。
私の拙い想像力でもって完璧な創造をする。心の中に世界を描き出すともう、
そこでは現実の時間の概念も、私自身の睡眠欲求も排泄欲求もあまり影響を与える事が出来ない。
無論細胞は脈打ち生命は息づいているのだから、眠くもなるしトイレにも行く。
ただ空気の欠片までも一つ一つ作り上げた素晴らしい世界を、そんな事をするために一度畳んでしまうのが惜しいのである。
私には大きな欠陥があると、身近な人は言う。
しかし私にはそれは、大きな欠陥などではなく、ちょっとした、人間個々の差異だと思うだけである。
私は人によく説を垂れる。
『貴方が喩え白だと思っていても、100人に聞いて100人が黒だと言うならば、
貴方がそれを聞いた瞬間からそれは貴方にとって黒でも在り得る。』
と。
知識と云う、1つの選択肢が広まったわけである。
良いだろう、認めよう。
私は悪だと思っていない。ではそれは善なのか?と聞かれれば勿論答えはNOである。
白では無いからといって黒では無いし、悪では無いからといって善でも無いのだ。
それ故悪では無いものは、いつも善であるとは限らない。
身近の人間の言う、私の大きな欠陥とは悪であり罪深いもので、それを改善して欲しいとの要望が出た。
しかし私は悪だとも、ましてや罪深いものだとも思っていない。
ここからが大変である。
意見の相違だ。
他人はあるものを悪と言い、それを改善するよう要求する。
しかしそのあるもの自身である何かやあるものの要素を持った誰かはそれを悪だとは思っていなかったりする。
寧ろそのあるものを案外気に入っていたり、善ではないにしても悪くないと思っていたりすると、事は予想以上に複雑化する。
先ず自分を柔軟に曲げられるかどうかも重要になってくる。
弱者や人格者や周囲の人間の要求を呑む傾向にあるか、喩え自分のモラルに反していようとも他人の意見を重要視するか。
自分がこれで良いと信じている何かに対し、他人の批評により見直そうとする姿勢があるか。
私には全く無い。
どの要素も無いのだ。
しかし人間とは社会的動物であり、社会や世間や他の社会的動物である人間と深く関わりあいながら生きている。
これは自分が社会的生活を望むのであれば避けられない事実であり、
このルールを無視するということは自分の、人間的権利や義務までも放棄することとなり得る。
これは、社会的生活を望む人間にとって恐ろしいことである。
与えるから与えられるのであり、与えられるから与えるのだ。
こういったルールに則った社会で生きていく上で、人間は誰しも妥協策を打ち出さなければならない。
自分が完全に満足することは不可能だし、いや時たまそんな幸運にも巡り合わせるかもしれないが、
そんな好機とはあくまで不確実なものであるし、いつもいつも幸運が巡ってくると考えてはならない。
世の中は偶然と必然によって成り立っているとするならば、その幸運は必然でもあり偶然でもあったのだ。
だからいつも良いことばかりが続くということは在り得ない。いつ災難に見舞われるか、いつ幸運に恵まれるかは、
それこそ神のみぞ知る。
神を信じている訳ではない。ただ人生とは、偶然と必然とによって成り立っていると思っているだけだ。
そんな風にして人は、損をしたり得をしたりしながら生活していると言えよう。
与えられたいのであれば与える必要があり、100%与えるだけでも与えられるだけでもダメだ。
眠くてここまでで一度止めておいたせいで、何が言いたいのか分からなくなってきた。
とにかく、何かを要求するのであれば、それと同時に要求される訳であり、その法則を忘れてはならないと思う。
まぁぃぃや。
そういえば携帯の未送信メールの本文に、よく謎な事が書かれている。
『退廃 アオイアサガオ みちのくの旅 証明写真 ゴミ袋』
とかである。
退廃 は書きたい内容であり、
アオイアサガオ は欲しい曲であり、
みちのくの旅 は正直本当に謎であり、
証明写真 は恐らく撮れということであり、
ゴミ袋 は買うつもりのものだと思う。
だいたい、何ヶ月も前のそんなのが出てくると分かるわけもない。
彼氏も居ず、勿論セックスフレンドなんかも居る訳もない頃、携帯の未送信メールの内容に
『ラブホ』
と書いてあった。
誰と行くんだ誰と。
本を読み止める事が出来ない。
完全に1つの世界に入っていってしまうのだ。
私の拙い想像力でもって完璧な創造をする。心の中に世界を描き出すともう、
そこでは現実の時間の概念も、私自身の睡眠欲求も排泄欲求もあまり影響を与える事が出来ない。
無論細胞は脈打ち生命は息づいているのだから、眠くもなるしトイレにも行く。
ただ空気の欠片までも一つ一つ作り上げた素晴らしい世界を、そんな事をするために一度畳んでしまうのが惜しいのである。
私には大きな欠陥があると、身近な人は言う。
しかし私にはそれは、大きな欠陥などではなく、ちょっとした、人間個々の差異だと思うだけである。
私は人によく説を垂れる。
『貴方が喩え白だと思っていても、100人に聞いて100人が黒だと言うならば、
貴方がそれを聞いた瞬間からそれは貴方にとって黒でも在り得る。』
と。
知識と云う、1つの選択肢が広まったわけである。
良いだろう、認めよう。
私は悪だと思っていない。ではそれは善なのか?と聞かれれば勿論答えはNOである。
白では無いからといって黒では無いし、悪では無いからといって善でも無いのだ。
それ故悪では無いものは、いつも善であるとは限らない。
身近の人間の言う、私の大きな欠陥とは悪であり罪深いもので、それを改善して欲しいとの要望が出た。
しかし私は悪だとも、ましてや罪深いものだとも思っていない。
ここからが大変である。
意見の相違だ。
他人はあるものを悪と言い、それを改善するよう要求する。
しかしそのあるもの自身である何かやあるものの要素を持った誰かはそれを悪だとは思っていなかったりする。
寧ろそのあるものを案外気に入っていたり、善ではないにしても悪くないと思っていたりすると、事は予想以上に複雑化する。
先ず自分を柔軟に曲げられるかどうかも重要になってくる。
弱者や人格者や周囲の人間の要求を呑む傾向にあるか、喩え自分のモラルに反していようとも他人の意見を重要視するか。
自分がこれで良いと信じている何かに対し、他人の批評により見直そうとする姿勢があるか。
私には全く無い。
どの要素も無いのだ。
しかし人間とは社会的動物であり、社会や世間や他の社会的動物である人間と深く関わりあいながら生きている。
これは自分が社会的生活を望むのであれば避けられない事実であり、
このルールを無視するということは自分の、人間的権利や義務までも放棄することとなり得る。
これは、社会的生活を望む人間にとって恐ろしいことである。
与えるから与えられるのであり、与えられるから与えるのだ。
こういったルールに則った社会で生きていく上で、人間は誰しも妥協策を打ち出さなければならない。
自分が完全に満足することは不可能だし、いや時たまそんな幸運にも巡り合わせるかもしれないが、
そんな好機とはあくまで不確実なものであるし、いつもいつも幸運が巡ってくると考えてはならない。
世の中は偶然と必然によって成り立っているとするならば、その幸運は必然でもあり偶然でもあったのだ。
だからいつも良いことばかりが続くということは在り得ない。いつ災難に見舞われるか、いつ幸運に恵まれるかは、
それこそ神のみぞ知る。
神を信じている訳ではない。ただ人生とは、偶然と必然とによって成り立っていると思っているだけだ。
そんな風にして人は、損をしたり得をしたりしながら生活していると言えよう。
与えられたいのであれば与える必要があり、100%与えるだけでも与えられるだけでもダメだ。
眠くてここまでで一度止めておいたせいで、何が言いたいのか分からなくなってきた。
とにかく、何かを要求するのであれば、それと同時に要求される訳であり、その法則を忘れてはならないと思う。
まぁぃぃや。
そういえば携帯の未送信メールの本文に、よく謎な事が書かれている。
『退廃 アオイアサガオ みちのくの旅 証明写真 ゴミ袋』
とかである。
退廃 は書きたい内容であり、
アオイアサガオ は欲しい曲であり、
みちのくの旅 は正直本当に謎であり、
証明写真 は恐らく撮れということであり、
ゴミ袋 は買うつもりのものだと思う。
だいたい、何ヶ月も前のそんなのが出てくると分かるわけもない。
彼氏も居ず、勿論セックスフレンドなんかも居る訳もない頃、携帯の未送信メールの内容に
『ラブホ』
と書いてあった。
誰と行くんだ誰と。