昭和30年代には、千葉県の列車は当たり前のように蒸気機関車が牽引していた。
小学生の夏休みは、親が管理人をしている保田の海の家で過ごしていたから、
千葉発房総西線館山行きに乗った。
まず窓を全開にした。冷房なんてあるわけない。
途中トンネルがあると、煙とすすで顔が真っ黒になる。
トイレは垂れ流しだから、絶対に顔は出すなといわれた。でも子供だからぜんぜん平気。
ところが浜金谷を過ぎて鋸山の下のトンネルに入るときだけは、強制的に窓を閉めさせられた。
今の特急ならあっという間だが、当時の鈍行は5分近くかかる。
そのかん窓が開いていたら、乗客が窒息する。それくらい煤煙はひどかった。
最後に定期運行のSLに乗ったのは昭和39年だと思う。東海道新幹線が開通した年。
中学校の修学旅行の帰り、両国から1日1本だけの列車に。
もうすぐ廃止になるとわかっていたから名残惜しかった。
昭和40年代になっても、まだ単線のディーゼルカーが走るローカル線だったが、
昭和44(1969)年、木更津の先まで複線電化され、快速が走るようになった。
内房線の誕生とともに、田園風景は一変し、東京への通勤圏として住宅が立ち並んだ。
かつて「長浦干拓絶対反対」との看板が立ち並んだ海沿いの崖の下を走っていた列車だが、もう海は遠く見えない。
代わりにコンビナートの高い煙突に炎が吹き上がっている。潮干狩りなど夢のまた夢。
転居して久しいが、たまに通ると愕然とする。
丘の上から眺めた東京湾の穏やかな表情は二度と見ることができないのだ。
野原に咲き乱れるフリージアはどこに行ったのか。今でもふとした時に枯草のにおいを思い出す。
(2010.12.20記)
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