びわ湖・勝手気ままな日々!

温故知新!大切ですね、次代に生きる方々の知恵と活力となります。令和時代を健康で楽しみましょう。

リクエストに応えて!私に鞭打ってくれた人々-9・10

2019年05月06日 | 1歩前へ踏み出す!

=よみがえる青春=
先ず1から順番かリクエストの項目か?全18テーマある為、気長にお付き合い下さい。
==通算4校目の職場での学び==

8 莵道3年目就職クラス担任
 附属高校での経験は府立莵道高校では値千金となった。3年目で府立高校の新記録を打ち立てたことがその証である。
 附属から転勤の初年度、上林校長から学年部長、保健体育科教科主任、教職員親睦会会長、と、とにかく持てる力量を全て出し切れ!の指示命令が下ったのである。このプレッシャーを感じつつ過ごした年月が、今から思い返せば最も教師冥利につきた経験を積まして頂いたと感謝している。開校5年目と言う時に転勤してきたのです。個性強い校長の毒気に、多くの教職員が当てられ萎縮されていたのが良くわかった。校長の顔色を見ながらの教師稼業はろくな事は無い。私は、何かにつけ反論や疑問を呈したので、そんな校長でも祭り上げている体たらくの中堅教師からは勿論バッシングがかなりあったが、校長から次の段階のリーダーとして嘱望されていたこともあり、いちいち気にしなかった。言うより私のチームの先生方とのチームワークを一番考えていたから気に留めなかった。ひ弱な大人ばかり集めては、やんちゃな高校生をコントロール出来るわけが無く、やんちゃ軍団は次第に元気付いて、窓枠のサッシを外す破壊行為や!大きく白い壁の落書きや非常ベルは鳴らして面白がるなどエスカレートし始めに、丁度、私が投入させられたのである。上級生がひ弱で理屈で押さえつけようとする大人達に抵抗している最中に、新一年生の学年の責任者として貼り付けられたのだからたまったものじゃない。入学式校長式辞の際に平気で私語をする新入生!校長は当然頭に来る!!何とかせーお前ら!!と担任団に注文を、そんな注文を出す校長も校長!!・・・そこまで、中学生上がりの新入りに見くびられていると言うことである。 悪仲間の情報網は早く、伝達早く、入学式つぶしから始まったのである。さて、そんな生徒の誰もが万感の思いで涙ながらの感激の卒業式を迎えることが出来たのは関係者全ての協力の賜物であった。私の3年目は悪の集まりのクラスと、これまで、大人達が見て見ぬ振りをしてきたクラスの担任で、何と生徒達は万歳をしながらの巣立ちであった。私はひとりひとりの生徒に細かな対応を可能な限り成し、生徒と親しく、厳しく、苦楽を共にしてきた甲斐あって成就感大きく、10クラスと大所帯の学年としてもそれぞれ夢のような進路先の成果を出したのであった。学年の代表として、退職を迎える上林ワンマン校長に取っては、何を置いても、当時の府立高校ナンバーワンの成果を餞として捧げた事は大きな美談となり、内情は一々校長に迎合する事成しに成してきたことの結果が、何よりも校長退職のお祝いに添える大輪の花束となったことは、私としては感激の気持ち一杯であった。ただ、取り巻き連中にとっては苦虫を噛む思いが錯綜したであろう。就職クラスでの私の奮闘ぶりを少し紹介します。中だるみの2年生を経過し、いよいよ3年生、生徒間では私がクラス担任に着くと言う噂が広まり、これまでのやんちゃも続けられないあきらめの空気もあった様です。まず、掃除の徹底と、提出物の躾、騒がしい中での連絡法工夫、教室前後の黒板活用、各個に対して連絡メモ渡し、等を実践し、何とことごとく、砂漠に水をまく様に彼等の中に染み渡って行ったのです。そして、次第に彼等は担任が次には何を実行するのか注目するようになってきたのでした。荒んでいた心が徐々に平穏さが増して、ふと気がつけば、静粛に話す内容を聞き取る様になったのである。これまでを知る多くの大人達は、その異変と変貌ぶりに驚きを隠せない程になったのでした。生徒達は私の本気を感じ、その証が次々と目に見える変化へと実現したのです。当初の苦闘の具体策とは、提出物の躾として、提出完了者を黒板に書き出したのです。普通は提出してない氏名を言ったり、黒板に書き出したりするのだが、敢えて逆をしたのです。彼等のいい加減で中心的な生徒は「青菜に塩」如く振る舞い出し、また、個人連絡方法として、小さく折り畳んだ紙切れを、該当生徒の机上に置いて回ったのです。これも私の思惑をはるかに越える効果に、私自身が驚くほどの答えが出たのでした。該当生徒の私からのメモにこっそりと見るさまに、クラス中の生徒の注目が集まるのをしり目に、読み終えた紙切れを片付けるしぐさまで注目を浴びる事となったのでした。一度のメモ渡しは数名とした。次の日は誰に極秘メモを渡すのか一大注目事となって行ったのでした。

5期生として莵道高校の歴史に何が残せるのかと、題して 
 冊子の《 巻頭言 》をここに披露して参考に供したいと考えます。
第5期生のあしあと  発刊に寄せて         初代校長 上林 泰夫
 今回、第5期生担当学年部長吉田荘治先生の肝煎りで、担任団総意による「第5期生として莵道高校の歴史に何が残せるか」の記録集が発刊されることになった。私とともに巣立っていった5期生、愛着一際深い生徒達だけに、一言発刊に寄せて言葉を贈り、担任団の諸君に感謝の意を表します。莵道高校7年の歴史のなかで、それぞれの1年がその人にとって貴重な歴史であり、伝統を築くことになった年であることには変わりはない。そして、それを体験した先生たちがその思いを胸に秘め、次の新しい歴史に生かしていくことは大切であり、誰でもがしなければならないことは言うまでもない。しかし、それは、体験した自分だけが生かすことができるのであり、己の自負と自信にはなっても、体験したものでなければ、それを語り継ぐことをしない限り、苦労も、失敗も成功も誰もわかりはしない。だからこそ、苦労した年月、みんなとともに歩いた年月、生徒がどう変わり、先生がどうそれに対応したか、その結果、生徒はどう変化し、脱皮し、成長したかの記録を次の人たちに残すことは必要であり、極めて大切なことである。それはまた、今のように日々多様化する生徒達への対応の仕方は、数年前の己の対応の経験だけで、己1人のマニュアルだけでは制御しきれない程に変化してきているからである。同時に生徒という生きた教材は、同じ学期に、同じ方法で教育しても、それに当たる教師集団の姿勢と心の持ち方とその思いによって、その態様を大きく変化させるからである。この学年の一番大きな特色は、一際個性豊かな担任団(いえ、一くせも二くせもある教師たち)が己の特性を生かして、その分を守り、常に全体討議の場を持ち、組織として動いたことである。そもそも教師という職業の悪癖は、己の失敗を1人で閉じ込め、クラスの出来事は自分で処理して、公開の場へ出すことを嫌がる風潮であり、親の要求も、充分な分析をせずして無条件に呑むか、冷たく拒否しがちであり、己の成果を己の組で誇り、自分に被害が及ぶのを極度におそれ、自分の立場が守れたらよいとの利己的な姿を見せることである。私が常に言ってきた?組織で動く?ということは、これらを打破することであり、一蓮托生、みんなで事に当たり、責任の分担を明確にし、分を守り、問題を公開の場に出し、討議を経て、最後の決断と責任はその長がとるということである。それが見事に、如実に示された模範的な学年組織体であった。それにしても、あの学年をここまで成長させ、喜びの涙で卒業させるとは想像だにできないことであった。入学式の日、式辞を述べる途中で校長を絶句させた場面と、入学早々の一泊研修でのポール事件は、担任団に極度の緊張を強いる劇的なインパクトであった。それが、担任団とは組織で当たるものだという重要性をまだ認識していない教師にも、自ら認識させる引き金になったことは事実だろう。とはいえ、この学年の最も大きな長所は、常に組織として動きながら、個々の特性を生かしてそれぞれの教師が、この3年間の過程のなかで、生徒達を自覚させ、自立させ、一つずつ基礎を積み上げながらたとえその歩みは遅くとも、最終的にはその持てる力をそれ以上に伸び切らせたことであった。それはいつも全体を見つめ、全体としての刺激を与えながら、その個1人ひとりに常に温かいまなざしを送り温かく包み込んだ結果だろう。口で言えば簡単だが、10人の担任団がそれぞれに、自分のクラスだけでなく、全体の個に温かい目を注ぐことは至難のことである。1人だけに光をあてれば不満の種を作るし、全体だけを締めれば個からは不平は出るだろう。生徒個々の心奥に迫り、その子の成長度合いに応じて言葉・当たりを考え、いつでもその願いを汲み上げる姿勢を担任みんなが示して全体の底上げを図ることは並大抵ではない。だけど、これだけ特異な集団はそれをやりきらない限り死んでしまう。担任だって、経験の多い少ないはある。キャラクターも違う。得意分野も異なる。資質も違う。それだけの違いがありながらそれをまとめ切れたのは、そのお互いの違いをお互いが認め合ってきたからである。進学については彼、生徒指導は誰、人生相談は彼女、悩みの分析はだれそれと、それぞれにまかせながらみんながそのフォロアーとしてうしろで支えたからでである。どんなエキスパートがいても、それについてきてくれる、或いは理解してくれるフォロアーがいなければ真価は発揮できない。その上にその学年をまとめる統率者がいないと、全体としては力が上がらない。山下清ばりに兵隊のクライで言うなら、大佐クラスの連隊長がいる。少佐クラスの参謀もいる。鬼軍曹もいる。古参の上等兵もいる。ピカピカの二等兵もいる。衛生士官もいる。軍医もいる。看護兵もいる。すべてがそろった見事な組織体(学年)であった。そのほかに、みんなが前線で汗を流しているのに、テントの中にはひまそうに軍帽で頭の毛も薄くなった師団長があぐらをかいていねむりしている。たとえは悪いが山下清ならこう言うだろう。極めて綿密な時宜を得た作戦要領が作られ、深夜に及ぶ会議を何日も続け、偵察隊を出し、激励し、足でかせいで実戦に移す。それらの誠意が生徒に通じぬ筈はない。それらの資料がこの冊子にはつけてある。読み返してつくづくと思うーーようやったな、とーー。それが歓喜と涙の卒業式となり、栄冠の京都府一位をつかんでくれた。一将功成って万骨枯る、といわれる。たしかに私はしあわせ者であった。しかし、君達もやるだけのことはやった、やればできるんだという満足感味わってくれたと思う。今、他校に転勤した5人の先生、分掌もそれぞれに分かれた11名の担任団、成功の思いを胸に、枯れることなく万兵功成った思いをかみしめてほしい。この子等が成長したとき、この想いを語るために同期会が盛大に開かれることを夢見て楽しみに待っています。君たちの残してくれた歴史は偉大であり、莵道の伝統の上に燦然と輝いている。すべての生徒諸君、担任の諸君、ありがとう。

9 莵道陸上 杉本との出会い 
 京都府立莵道(とどう)高校「莵道・古典では(うじ)と読む」先に府立東宇治高校 に10年間勤めていた、その時、宇治地区にもう一つ新設府立高校を設置と聞いていた。私は、教育大学附属高校へ転勤した後、今一度府立高校に戻りたい気持ちが大きくなりその旨、希望を出していた。3月20日前後だったと思い出すが、突然、莵道の校長先生から電話があり、27日に莵道高校に来てください。あなたには選ぶ権利はありません!と上から目線で言われた事を覚えている。ここから4年間が始まったのであります。同じ府立高校なのに随分と堅苦しい雰囲気だなーと思った。そんなことより、私は期待感の方が大きく、附属高校での充実感を引っさげて、やる気満々であった。何と言っても生徒が素直で、良い指導を展開すれば幾らでも力を付け伸びて行くと、手応えを感じたのである。専門の保健体育の授業や放課後の部活動が大いに楽しみとあって、勤務時間は言うに及ばず、無我夢中で頑張りはじめた。特に、課外活動の陸上競技部の成績は、一気にその成果を出したのである。京都府の高校選手権の100㍍決勝に何と8人中3人(松尾、児島、青山)が莵道の選手となり京都高校の陸上関係者は、ただ驚くばかりであった。女子100㍍においても決勝進出を果たし、ますます、莵道旋風が吹き荒れたのである。丁度私が転勤したその年でもあり、私自身も目を丸くしたほどでした。当然、学校対抗の花リレーでも男子では、4×100リレーと4×400リレーの両種目に強豪私学と最後まで競りって惜しくも両種目共に準優勝であった。新設5年目の快挙であった。鮮烈なデビューとなったのである。前任校の附属高校においても、わずか2年目に男子4×400㍍リレーで新人戦に、誰も予想もしてしていない附属高校が決勝において、これも惜しくも優勝は阻まれたが第2位準優勝していた事もあり、それは、周囲の学校の驚きは普通では無かったであろう。自慢話の様になるが、これは私がやったことではなく生徒達が自分達で実現したものであって、私は偶然そんな場面に遭遇しただけなのである。それにしても、生徒達は驚くべき集中力を発揮するもので私自身も驚いているのであります。この話の、もう一つ前の府立東宇治高校においては、女子4×100㍍リレーは京都府高校大会で私学の強豪2校、光華、家政(現在は文教)を押さえて2年連続優勝して内1度は近畿高校を突破して横浜の全国大会に出場したり、男子でも4×400㍍リレーで、並み居る強豪に競り勝って岡山での全国高校大会に出場を果たしている。こんな経験があるため、京都府の高等学校では、驚異の的として目(もく)されたのでは無いかと、今になって振り返っております。私は潜在力を一杯に秘めた高校生にこんなにもたくさんに恵まれたのだと、今更ながら感謝しています。そして、今でも彼らの可能性にめぐり会うことができたらと、いつも期待感にあふれています。莵道の旋風も一段落した、次の年である私の受け持つ学年に、杉本泰平と言う、ぱっとしない練習嫌いの生徒が居た。身体的素質に惚れ込み有名私学からの誘いもあったと、後から聞いたのだが素行が悪いと言って実現せずに、莵道高校でのらりくらり遊びに呆けていたと言うのだ、その杉本泰平が2年生の終わり頃のある日私のところへやって来て、印象的な言葉!「吉田先生!俺を男にして欲しい、どんな苦しい事でもやりますので」「お願いします!・・これまでアホばかりしていたので信じてもらえないかも知りませんが、」何としても京都ナンバーワンはおろか全国大会へも駒を進めたいのでよろしく!と・・ 私は、わかった半信半疑で、練習メニューを与えるだけ与えて、様子を見ていました。私は、その頃、学年の雑事に追われほとんど彼の練習ぶりを見られておりません。あのちゃらんぽらんでいい加減な杉本を、彼の言葉を私は信用出来なくて、こちらの真剣味も無く過ごしていました。練習メニューは極端で普通の生徒なら消化出来ない様な内容だった。準備運動・ウォーミングアップで90ジョグ(単調で嫌になる程のゆっくりペース)本練習100㍍3本8割スピード、300㍍2本同じく8割スピード、以上 クーリングダウン60ジョグアップと同じペース、こんな調子を続けて実施、彼はもっとスピード持続走を希望しているようだったが、頑として応じなかった。それより、単調なスローペースのジョッグに飽きて、投げ出すのを待っていたと言っても言い過ぎでなかった。時季は駅伝シーズン、一度記録会に出てみたらと仕向た。彼が顔色を変えて私に「僕を男にしてください」と言ってから約二ヶ月程経過でしていた。結果は、何と大幅2分の自己新記録!5千㍍、17分15分とみんなが驚く、彼自身も驚く始末!走り終わって、先生まだ走れます。と、そりゃー毎日、90、60分スピードを上げたい、身体が温まり軽くなって、自然とスピードアップするところを敢えて、スピードダウン意図的にしていた。それが、たったの十数分で終わるレース、ぶっ飛ばせ!・・私は、まさか彼が、ど真剣に取り組んでいたとは知らず、記録会に出てみたら、これまでと180度違う彼になりつつあることが判り、私も考えを改めることになり、両者の真剣さが現れ始めたのであります。次の年、最終学年は800㍍は近畿ナンバーワンになり全国大会にも出て、1500㍍は大学社会人と混じる近畿選手大会で優勝もして、幾つもの大学や企業のスカウトも来てまるで浦島太郎の様な話となった。彼は自分のなまくらな生き方で回りから馬鹿にされ相手にされなかった過去から逃れたい一心で高校二年の後半から全勢力を上げて、人生を変えてしまったのである。
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 もう一つの莵道          1993.3.28 林 宏真
二年間で変わった陸上の面白さ  

 最後のレポートを書きます。吉田先生の指導を受けて二年がたちました。一番の実感としては、陸上競技に対する考え方、とらえ方が変わりました。最大の原因として、先生の指導法にあったと今思っています。その指導法は、選手の自主性を養い、何事も進んで行い、決して押しつけでないというものだった思います。今から思っても、自由に伸び伸びと走らせて頂いたと思います。私学の高校では、とうてい指導者に取り入れてもらえない意見も尊重して頂いた事もあり、凄く自信につながったところがありました。先生は僕がよく他校との比較とまで行かなくとも、他校はこうしているとか、ああしていると口にするのを良いように思われませんでしたが僕はいつも他校のことが気になっていました。 理由は二つありました。一つは、先生から陸上競技の”走る”ということについて直接の御指導を受けていなかったからです。二つ目は、杉本先輩や他の様々な名選手を育てた、先生の練習メニューを与えて頂けなかったからです。だから僕は凄く不安でした。僕は、大会後のレポートを、先生から与えて頂いた唯一の練習メニューとして、大会を終えた夜に真剣に書き、そして誰よりも早く提出する事を心がけてきました。二年生の時は、保健の担当が吉田先生だったので、これも練習としてとらえてきました。ノートに書かれてある先生の言葉が、励みとなり、僕を奮起させ、僕を強くするという毎日でした。最初の方は、こういう先生の指導法に- 不安・不満- を感じて来ましたが、いつの間にか。?有り難み ?を感じる様になりました。こういう指導法だから僕は速く、強くなるために考えました。工夫しました。先生が僕に、”考える・工夫 する”という事を導いてくれました。走りに幅が出て、自信がつきました。自信がついたのは、先生の徹底したメンタル面での御指導があったからです。走ることそのものと、メンタル面との指導割合では、1:9ぐらいだったと思います。それほど先生は、高校生に、陸上競技に精神力が重要だと考えておられました。僕は今、こういう御指導があったから目標を高い位置において練習に取り組めていると思っております。そして、レースで勝っていると思っています。練習の質と量で言うなら、宇治・洛南・西城陽に 勝てるはずがありません。レース後、走るだけが陸上の練習じゃないんだといつも思います。こう思えるのも先生の指導法を理解出来たからだと思っています。僕は、指導者の立てた練習のみを行い、全てのことについていわれたままに行い、イヤイヤ走っている選手が多く存在する、表面的な強さ、のみがある私学の高校生には感じ取れないものを得ることができた実感があります。そして、先生が最初に言われた「わしは跳び箱の踏切台だから、わしを跳び越えなあかん。」という言葉の踏切台を踏み切り、そして跳び箱の上を今跳べていると思います。陸上だけでなく、あらゆる面で御指導して頂きました。はっきり言って二年間の高校生活、吉田先生の影響は大きかったです。そして、進路にも影響しました。僕の将来の夢は、吉田先生の様な選手の心を引きつける魅力的な指導者になることです。二年間、本当にありがとうございました。これからの活躍を期待していて下さい。(府教委へ転勤が決まって、生徒達と離れるに当たり)

 

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