それなりタイムス

高橋家の日常を、ファミリーがそれぞれの視点で綴った家族新聞。

長男と二人旅

2006年03月20日 20時08分43秒 | 親子共育ちの時間
 3月20日からの春高バレーに出場する米沢中央高校女子バレーの応援と観戦のために19日、長男と二人で上京しました。

 長男は16日から3日間、青春18きっぷを使っての東京旅行をしたばかりでかなり疲れて帰ってきたばかりだったのですが、今度は新幹線なので大丈夫でしょう。

 新幹線と言えば、米沢と東京の距離は山形新幹線で片道1万円するのですが、JTBのエースのプランを利用すると格安に宿泊も往復もできるのがあるのです。

 20日に仮に山形新幹線を使って二人で日帰りの応援をしたとすると往復の交通費だけで4万円かかるわけですが、その同じ4万円で私たちが使ったプランは

 ①山形新幹線の指定席での往復
 ②新宿の京王プラザホテル、本来ならツインで30230円の部屋への宿泊
 ③東京BayRex,エースJTBお江戸号、六本木夜景バス、お台場夜景バス、トワイライト横浜号が4日間乗り放題の乗車券
 ④朝食全額またはディナー1800円分(二人分で3600円)の食事券
 ⑤京王プラザホテルの45階スカイラウンジなどでのソフトドリンク無料券
 ⑥ディナーを利用すればグラスワインかソフトドリンクサービス

 といった特典がたんまりとついたもの。

 午後4時にチャックインしてさっそくホテルの目の前にそびえる東京都庁の45階の展望室に行ってみました。

 お天気はとても良かったのですが、よほど空気が汚れているのか、地上数十メートルの空気の層は汚れで霞んでいます。

 360度の都心のパノラマを楽しめはしますが、感動はありませんでした。

 そう言えば、青春18きっぷでの3人旅から帰ってきた長男を18日の夜に車で迎えに行ったとき、車が米沢市内を走り出してまもなく長男がつぶやいたことばが印象的でした。

 「このぐらいがちょうどいいなあ」

 よほど都会の喧騒に疲れたみたいでした。

 私も同感です。

 ま、いずれにせよ、今回はせっかく上京したのですからエースのプランを活用して最大限楽しむしかありません。

 偶然、妹とその次男(17日に県立高校の合格を決めたばかり)とその友人が上京しているとのことでさっそく連絡をとってみました。

 滅多にないことなので夕食でも一緒にどうかと誘ってみたのですが、合流できるのは6時半から7時の間ぐらいというので断念しました。
 なぜなら京王プラザホテル出発の六本木夜景バスの出発時刻が午後7時30分だったからです。

 結局、ホテル2階のラウンジ「樹林」では私たち親子二人だけのディナーとなりました。

 フルコースと言っても、先述した⑥のドリンクにはじまり、スープ、メインディッシュ、ライス、デザート、コーヒー(紅茶)という簡単なものでしたが、とても高級感のある夕食だったものだから、長男は
「こんなホテルに一生のうちにあと何回これるのかなぁ」とつぶやきます。

思わず
「な~に言ってんだ~。何回だってこれっこで~」と米沢弁丸出しで応えてしまいました。

 六本木夜景ツアーは、イマイチでした。
 
 全額サービスなのでしょうがないといえばしょうがないのですが、例えば六本木ヒルズというポイントのところではビルの停車場に止まったままで15分間、バスから降ろしもせず、時間調整なのです。

 もちろん、ヒルズの夜景なんて見えないし、内部も見学できないという変な状況に乗客からも不満の声が。
 
 7時30分から約2時間、こんな調子でヒルズから東京タワー近くのプリンスホテル、国会議事堂前(ライトアップはなし)神宮外苑周辺、ふたたび六本木ヒルズ、で、京王プラザホテルへ、というツアーでした。

 夜景といっても大してきれいでもないし、面白いスポットを見学できたわけでもないし、なにこれ、というツアー企画でした。

 かくして、長男の高校卒業記念旅行ともいうべき、親子二人旅の一日目は終了したのでした。

 旅とは無関係なのですが。
 野球にはほとんど関心のない私たちですが、韓国戦のことがあったからでしょうか、妙にこの日の結果が気になっていました。
 山形新幹線での移動中に試合が進行していて、何度もWEBでチェック、その動向を見守りました。
 長い雨の中断のあとの試合終了を聞いて大して野球好きでもない親子二人で喜んでいたのはなんか不思議な感じでしたが、夜景ツアーの後、ホテルの部屋に戻ってからのWBCの結果を報ずる番組を見ながらのお酒は、ちょっと美味しかったです。
 ここまできたのだからぜひキューバ戦に勝利してWBC優勝を勝ち取ってほしいですよね。

 というか、私たちにとって大切なことはWBCよりも春高バレーでの米沢中央高校女子バレーの戦いのほうでした。そのために上京したのですから。

 20日の春高バレーの結果はいかに。(次回へ)

ガン告知の日のこと

2006年03月15日 19時16分12秒 | 亡き妻(母)陽子さんとのこと
 3月11日は私にとっては一生忘れられない日となるでしょう。

 2004年3月11日。

 甲状腺機能亢進症の疑いで数日前まで米沢市立病院に入院していた妻は、退院を許可され帰宅しようとするのですが、腹痛があることを訴え「ブスコバン」という薬を処方してもらい帰宅していたのです。

 3月11日の早朝、妻は激しい腹痛と気持ち悪さに襲われて病院の緊急外来へ連れて行ってほしいと訴えるのでした。

 すぐに病院に出向き甲状腺の担当医本間りこドクターに診察してもらうと、どうもこれは甲状腺ではなく消化器のほうみたいなのでそちらの担当医に診てもらいましょう、ということになり消化器の担当医師木田ドクターに診察してもらったのでした。

 触診や聴診では異常がわからず、CTスキャンで診ることになりました。

 CTスキャン室から出てきた妻は疲れたのか診察室のベッドで眠り始めました。

 木田ドクターに呼ばれ診断結果を聞くことに。

「がん性腹膜炎ですね」

(よもや、がんという病名を聞くとは思いもよりませんでした)

「末期状態ですね」

(ことばがありません)

「余命は一月か二月でしょう」
「ご本人への告知はどうされますか?」

 一月か二月ではあまりにも時間がなさ過ぎます。

「告知はしない」ことを決断し木田ドクターに伝えました。

「一度告知をしないと決めたら最後までこれで通していかなければいけませんよ」

 迷いがなかったといえば嘘になりますが、告知はしない方針でいくことにしました。

「あえて積極療法を言えば、いまのままだといずれは腸閉塞になりますので、それを回避する手術をするという方法があります。しかし、この手術はガンを治すものではありませんし、手術によって負担が増えて状態を早く悪くしてしまうことも考えられます。(あれこれ)」

「手術はしなくていいです。なるべく自宅で普通に生活できる時間を長くもちたいので」

 陽子さんはとりあえずこのまま入院。

 私は自宅に戻り両親に診断の結果を話しました。
「困ったことになったなぁ」と両親も落胆しました。

「こどもたちへはどうしようか」

迷った末、長男と長女には話しておくことにしました。
告知しなかったら逆に私が責められることになるでしょう。
当時3年生だった次男にだけは話さないことにしました。
お母さんが帰宅した際に病気の内容を言ってしまうかもしれないと思ったからです。

長男には市立病院の駐車場で車内で話しました。
ひとしきり泣いたあと、
「『ブラックジャックによろしく』で読んだんだけど、ガンで余命がなくなった患者さんに病室に縛り付けるんじゃなくてその人が残る時間をやりたいことをやってもらう過ごしかたのほうがその人にとっては幸せだ、っていう話があったっけ。だから手術はしないほうがいいと思う。」

長女には夜話しました。
泣きながら
「話してくれてありがとう」と返します。

やはり、この二人には話しておくべきだったのだなと思いました。

「わが家のメンバーなら奇跡がおこせるんじゃないかな」
長男が言います。

奇跡を起こしたい。
ドクターをびっくりさせてやりたいと、本当に思いました。

2004年3月11日。

人生が大きく変わってしまった運命の日。 
 


 

次男との一日(PART3)

2006年03月12日 17時18分27秒 | 親子共育ちの時間
 私自身、中学校、高校と6年間バレーボール部に入っていて、中学校、高校とも県大会3位のチームでしたから、次男にバレーボールの基本を教えることには自信もあるし、バレーボールでなら次男にいろいろとかかわり続けることができると思いました。
 
 天国に逝った陽子さんも、陽子さんのお母さん(あっちばあちゃん)もバレーは大好きだし、長男要も中学、高校のバレー部でいろんなドラマを見せてくれましたから、次男がその気になったことは、正直、かなりうれしいことがらです。

 MIZUNOのシューズは決して安くはありませんでしたが、2年ぐらいは使えるし、他の種目に比べるとバレーは個人で備えるべき用具はシューズとプロテクターぐらいですから、ま、何とかなるだろうと一念発起しまして、わが家としては大きな買い物をしてしまいましたが、きっと陽子さんも喜んでくれていることでしょう。

 体育館には3チームが集合していてお互いに
「こんにちはー!よろしくおねがいしまーす!」と大きな声であいさつを交し合っているところでした。

 チームの佐藤コーチという方にあいさつをし、見学したい旨お願いしました。

 さっそくボールを一個借りての個人レッスン開始!

 キャッチボール、アンダーハンドサーブ、オーバーハンドパス、フローターのインパクトなどなどを、チームのみんなの邪魔にならない場所を借りてやり続けました。

 後半は、3チームの練習試合の見学。

 小学生ながら、サーブとサーブレシーブについては
「なかなかやるね~」という子がけっこういました。

 次男との個人練習でも、体重の移動をうまく使ってのボールへのインパクトの大切さを話してきていたので試合中に繰り出される上手なサーブには次男も
「ほんとだ、すごいじょうず!」と刺激を受けていたようです。

 ひさびさに気持ちよく流した汗が観戦中に体を冷やし始めたのできょうのところはここまでと、体育館を後にしました。

 
 「健全な精神は健全な肉体に宿る」ということを次男にはとことん教えていきたいし、スポーツの科学や哲学も学んでいってほしいと思います。
 もちろん、スポーツの楽しさを味わうことが一番ですが。

 わが家ではずっと赤ちゃん的存在だった次男(失礼!)の今後の成長が楽しみです。

次男との一日(PART2)

2006年03月12日 16時41分10秒 | 親子共育ちの時間
 次男春(なごみ)がゲームにばかり浸っているのでゲーム脳になるのではないかと心配して対策を講じたお話を書きました。

 その時の策の一つとして、本人が「中学に行ったらバレーボールやりたい」と言っているので、それだったら、今のうちからバレーボール少年団にでも入って基本をきちんとやっておいたらよいのではないか、と考えたのでした。

 本人にも提案してみたのですが、
「うーん・・少し考えてみる。今はいい」
といまひとつの反応で、気乗りはしていないようです。

 本人がその気にならない以上、親の都合を押し付けては長続きしませんからしばし「待つ」ことにしていたのでした。

 それが、11日の北部小の町別こども会でいっしょだった同じ学年のほなみちゃんを交えた話し合いの中でたまたま午後からほなみちゃんもレギュラーやっている米沢市バレーボール少年団と他のチームとの練習試合があることが判り、
「きょう行って見るか」の誘い文句に
「別にいいけど」という前向きな返事がようやく出たというわけです。

 とにかくゲーム以外のもので熱中できること、とくに体を使って汗を流して取り組めるものに向かってほしかったのですぐにゼビオスポーツに行き、MIZUNOのバレーボールシューズを購入し、帰宅してからはちょうど良いスポーツウェアはないか、とたんすの引き出しを開けて探してみたりしました。

 こういうのを「親ばか」というのかも知れませんが、こどもにとっては親に愛され関わってもらえた体験は重要だと思うのです。

 その際に、これまでも書いてきましたが親の都合の押し付けや、心が育っていないのに過剰な期待をかけてしまう、というのはよろしくないというのが持論です。

 今回の場合はとにもかくにも本人が「別にいいよ」という消極的同意ではありますが「やってみる」ということを意味する言葉を口にしたわけですから、この機会を捉えて体を使うこと、ボールを扱うことの楽しさを教えていくことはゲーム漬けの生活から脱却させる上で大切な節目の日になると思いました。

 それと副産物みたいなことですが、スポーツウェアはないかと衣装ケースやたんすを開けてみたことで、天国に逝った陽子さんがずいぶんと次男用のウェアを用意していたことが判明しました。
 というか、「こんなには着られないだろう」と言いたくなるぐらい、トレーナー、ウィンドブレーカー、パーカーの類が出てきたのでした。
 こういう厚手のものって、1シーズンにせいぜい2~3着もあれば十分と私は思いますが、陽子さんが用意していたそれらの衣類の数は30着ぐらいあるのです。
 リサイクルショップやバザーが大好きな人だったので新品ではなくリサイクル品を格安で買っておいたのだろうけれど、買いすぎです。

 今回探していたのは、トレーニングパンツや半そでのウェア、ハーフパンツみたいなものなのですが、皮肉にもそれらは一組しか見つかりませんでした。

 いずれにしても、次男用の衣類の数やありかについてこれまでいかに無関心であったのかがわかりました。
 
 18歳の長男、16歳の長女とは違って、まだまだ着るもののこと一つでも手をかけないといけない存在だったのですね。反省!

 そんなこんなでシューズにウェアにドリンクまで揃えて、次男と私は市内の南部小学校の体育館に「いざ出発!」したのでした。


次男との一日(PART1)

2006年03月11日 20時35分54秒 | 親子共育ちの時間
 ソーラン節物語ともリンクしている話題になります。

 これまであまり書かなかった次男春(なごみ)の話題です。

 きょうの午前は北部小学校で、育成委員と、町別こども会の児童長、副児童長の集まりがありました。

 学校教育に無縁な方のためにざっと説明すると、北部小学校の場合、PTAの中に教研部、保体部、広報部、育成部といった専門部がありますが、育成部は独特で、学校内(あるいは級内)で選ばれた役員ではありません。
 児童が居住する町内ごとに選出された役員による部で部長も部内の選挙ではなく輪番制です。
 きょうは土曜日ですから、この会合に出席した学校職員の勤務が時間外勤務だったのかどうなのか、微妙です。

 どうあれ、用事があって10時の開会には間に合わず、かなりあせって次男春をバイクに乗せ出向きました。

 ですが、学校教育とは別の範疇ですので遅刻もあまり気にせず(会を軽んじたわけでは決してありません)安全運転で。

 そう自分で言いながら、そこでの出来事には腹が立ちましたね。

 米沢子ども会育成連合会会長さんが会に出席されて講演をしているというのに、ある女性の保護者が会場の一番奥ではありますが、受付の二人の先生のところにきてあれこれ私語を始めたのです。

 ここでどうしても話さなくてはならない用件なのか。

 どうもそうではないみたいです。
 
 大きな会場ではありませんから、彼女らの私語は講師の話の伴奏みたいに会場中に聞こえているのです。
  
 そのあまりにも無神経な行動に、さすがに我慢ができなくなって、
「私語は講師に失礼では?」という最小限の内容を記したメモを彼女達に手渡しました。

 それを読んで二人の女性教師と主犯の女性はその時点からきっぱりと私語は慎みましたが、あまりにも鈍感すぎませんか。

 何なんでしょうね。

 こどもたちに集中して話を聞いて欲しいとふだんから思っている教師なら、自分達のいまの行為がとってもまずいこと、って感じると思うのですが、

 「思いやり」がないんだね。みんなへの。

 アンチテーゼとしてのお話を当ブログ内、「はじけるということ」(2006年2月26日)に書いておりますのでぜひ、お読みください。

特に何かあったという訳ではないのですが

2006年03月11日 15時05分15秒 | 長女(もとい)
久しぶりに書き込んでみようと思う長女もといであります。

このブログを読んだこと自体が久しぶりで、父が私についての記事を載せていたのはついさっき初めて知りましたが、ここで訂正をさせて頂きたく思います。

まず、全国大会での成績ですが、銅ではなく銀です。まあそんなに違いは無いのですが、銅は「金と同じ」で銀は「金より良い」ということなので。ここはこだわらせて下さい(笑)。


父が吹奏楽の話題を出したことと少し関係するのですが、一昨日の夜のことを書きたいと思います。

一昨日、つまり九日の夜のことです。この日は前々から友人二人と近所のもんじゃ焼き屋さん『じゅう兵衛』で飲もう(勿論実際には飲んでいませんが)ということを計画していた日でした。
友人二人というのは、米沢四中時代、三年間ずっと部活で毎日ほぼ毎日顔を合わせていた、打楽器の同期のことです。
Rという子は、卒業後九里学園に入学し、今も吹奏楽部に入って打楽器を続けていて、将来も調理師という職業に定め、色々と悩みながらも新しい環境の中、日々それなりに楽しく過ごしているようです。
もう一人のTという子は、中学卒業後は高校へは入らず、打楽器職人となる為にドイツへ留学するんだ!と、単身千葉にある親戚の家に移り、そこから東京のドイツ語教室へ電車で通う日々を送っています。

どこか対照的な性格の二人と、行動的でも消極的でもない極平凡な私を含めた三人なのですが、この三年間で関係は、随分円熟(?)したものになりまして。
卒業後も、Tが米沢へ帰ってくる度にじゅう兵衛に三人で集まり、昔の話(笑)やそれぞれの今の生活のこと、将来のことなどの話に花を咲かせていました。

今回は、Tがドイツから帰国して(ちなみにまだ留学はしていません。とりあえずホームステイだそうです)、さらに千葉から米沢に帰ってきたので、やっぱりじゅう兵衛でしょう、ということで、夕方、集まったわけです。
本当はお昼食べた方が、年頃の娘らとしては良かったのですが、私は公立入試で学校が休みでも、Rは普通に学校があったので、まあ仕方が無い、という訳でありまして。


このブログを読んで下さっている方々は、今日びの16歳の女の子三人が集まってもんじゃ焼き・お好み焼きに勤しんでいる図を想像できますでしょうか?
いえ、はたから見るだけでは、特に特異なことはないのですが・・・
食べている姿、というより、会話を聞いてみると、
まずおやじくさい。
そして私たちは東北人で方言バリバリなので、他の県の方が聞いたりすると、
これが女の子の会話なのか?と疑問に思われるだろう表現でありまして。
でも本人たちはただ楽しいんですよね。
特にTはやたらめったらここのもんじゃ焼きが好きで、米沢も三人で集まるのも毎回久しぶりでテンションが高いので、その声は店の外からでも分かるくらいで。
私たちもそのテンションについていこうとするわけでもないのに乗せられていってすごい方向に行ってしまって。
とにかく騒がしい訳です。周りのお客さんや店員さんには迷惑をかけてしまったかなあ。
まあ10回以上確実に通っているので、店側としては常連さんと認知されていても良いはず!なんて三人で言ったりしてました。

でも、はっきり言って物凄く行儀の悪い三人、ではないと思います。自分で言うのもなんですけど。
皆、最低限の常識を心得ているつもりですし、何よりもう16歳ですし。確かに、私たちくらいの年代の女の子が店で何か食べてたりすると、あまり印象は宜しくないかもしれません。しかも夜。
そりゃあ、「嫌だなこういう人たち」と思うマナーの方々は年齢問わず沢山いますがね、
私たちはそんな方々と比べると、いくらか健全だったように思います。
お酒をこっそり飲むようなこともしなかったし、えげつない会話を平気で大声で話したりしなかったし、注文の品を持ってきてくれる店員さんには「有難うございます」ときちんと応対(?)しましたし、自分たちが食べた鉄板の処理もかなり細かくやりましたし。

こんな三人で過ごす時間が、時々あるのが好きです私は。「10年後どうしてんだろうね」とか「加藤先生(顧問)はあの時こんなこと言ってたっけな」とか「○○○(元同級生)にこの前会ったんだけど、すっげえ変わってだった!」とか、そんな、他愛も無い話題だったり時々真剣な語りだったりするあの雰囲気が、一年に何回か味わえる今が好きです。
まだ子供でいられるからできること、話せることが沢山あると思うんです。約束された未来は無いけれど、自由に語れることは、これから少なくなっていくような気がするので。
毎回、大人になっても絶対に一年以上空かずに集まろう、と、約束して解散します。
旧米四吹奏楽部の他のパートの人達で、こういう関係を続けているパートは少ないと思います。三人、という人数だからこそ、かもしれません。

まあ、そんな感じです。こんなに長くなるとは思ってませんでした(汗)。すいません。結局、自分でも何が言いたいのかよく分からないでいるまま終わります。

夫婦で感激!(第1回)

2006年03月09日 13時40分31秒 | 亡き妻(母)陽子さんとのこと
 ここのところ、長男要の話題ばかりが続きましたので長女もといの話題も入れます。

 中身的にはソーラン節物語と連動していて、中学時代の成功体験のこと。

 もといは幼児期から祖母にピアノを押し付けられてきていて、それをとても嫌がっていました。(押し付けはだめ、っていうことはソーラン節物語第8回でも書いておりますが)

 北部小学校のマーチングクラブへは自らの意志で入ったので楽しかったようです。

 読書好きのもといは人と交わるよりは自分の世界に没頭するタイプでしたからマーチングは新しい境地を開くものだったのでしょう。

 その流れで四中では吹奏楽クラブに入部。
 パーカッションパートに入りました。

 四中の吹奏楽クラブはとてもレベルが高くて全国大会にも出場していましたから練習もハードです。

 1年生の11月、吹奏楽クラブのある保護者と雑談していたら
「もといちゃん、よかったですねー アンコンに出られることになって」
と彼女が言うのですが、一体何のことやらチンプンカンプン。

 よく伺ってみると、アンコンとはアンサンブルコンテストのことで、地区の予選会に出場するにはまず校内予選というのがあり、同じクラブの中のいくつかのアンサンブルのグループが取り組んできた曲を発表しあい、引退した3年生も含めて投票して校内の順位を決め上位3位までが地区の予選会に出場できるらしいのです。

 その校内予選で1位となり、3日後の地区予選会に出られるようになってすごいですね、という話だったというわけです。

 もといは家ではそんな話をしてくれていなかったので、彼女に出会わなかったら地区の予選会にも行けなかったことでしょう。

 予選会へは妻とともに出向きましたがパーカッションはいつも順番が早いらしく急いで会場入りする必要がありました。

 やっとのことで「まほらホール」に入場すると、なんとちょうどもといたちの発表の順番でした。
 
 6人でのアンサンブル「バリ島の音楽」が始まりました。

 演奏中、私と妻はステージに釘付け状態です。
 演奏が終わる頃には二人して感激して涙ボロボロです。

 ソーラン節物語で書いた長男のバレーボールの試合は同じ年の出来事で、私たち夫婦はバレーボールにはかかわっていましたが吹奏楽の方の話題にはとても疎かったもので、まさか入部してわずか数ヶ月のもといが、こんなにすごい演奏をするとは思ってもいなかったのです。
 
 知らなかったがゆえに驚きも感激もとても大きかったのでした。

 このとき以来、もといが出場する大会には夫婦で出かけ、素晴らしい四中サウンドを楽しませてもらいました。

 指導者に恵まれて四中吹奏楽クラブは、県大会で金、東北大会で金、全国大会で銅という素晴らしい成績を上げましたし、もといはこれらの大会に1年生時代から3年生時代までかかわり、特にパーカッションはレベルが高かったので出場回数的には一番多かったのではないでしょうか。

 陽子さんのガンがわかったのは(本人には告知しませんでした)長男要が高校1年、長女もといが中学2年、次男春が小学3年の3学期、3月11日のことでした。

 本人に告知しなかったのはドクターの私への告知内容が余命一ヶ月か二ヶ月でしょう、というたいへん厳しい内容だったからです。

 結果的には告知から7ヶ月余り生きてくれたのでこどもたちもこの間、母親と相応にふれあい語り合うことができました。

 長男が高校2年生、長女が中学3年生、次男が小学4年生の10月17日に陽子さんは天国へと旅立ちました。

 7ヶ月という時間があったことで私もこどもたちも悔いを残すことなく看取ることができたのだと思います。
  
 と同時にいろいろ振り返ってみると、こどもたちの成功体験と、それらの現場を観に行って夫婦でいっぱい感激してこれた、その分、陽子さんは短かったけれども幸せな時間をこどもたちからいただいてこれたなぁと思えるのです。



 2004年の夏、闘病中の陽子さんにこどもたちの学校での様子などを見せたくて、ジャパネットタカタからソニーのDVDカムを購入しました。

 9月の四中の体育祭でもといが黄組の副団長となり、長男のガクランを着て応援の先頭に立ち大活躍しました。

 この様子をDVDに収めて病室に着くやいなや、陽子さんは早く見せてと私をせかします。

 DVDカムのディスプレイに映し出されたもといの活躍ぶりを見た陽子さんはとても満足そうに笑みを浮かべ
「もといがこんなことやったのぉ」と感激していました。

 このときのもといの映像が陽子さんがDVDカムで見た最初で最後の映像になってしまいました。

 たったの一回のDVDカムの活躍でしたが、もといの活躍ぶりを見せることができただけでも本当によかったと私は思いました。

 母の死という悲しい出来事を乗り越え、母の分も生きようとがんばっているこどもたちの成長を、陽子さんはきっと天国から見守ってくれていることでしょう。

 
 

ソーラン節物語 第9回

2006年03月09日 11時06分24秒 | ソーラン節物語
 長男要が中学校2年の時に生徒会長でバレーボール部のキャプテンだったことは、一見華やかな活躍ぶりを想像しますが、ことバレーボール部については可哀想な中身でした。

 市内には二中、三中、四中(長男の学校)の三校しか男子バレーボール部がなく、大会はいつも三校のリーグ戦でしたが、長男のチームは三中を破ることが出来ない状態でした。

 結果が出せないだけではなく、えこひいきや暴力行為、生徒を傷つける物言いをする顧問の先生との関係で生徒たちは日々ストレスを抱えていたのです。

 2年生の3学期に入ったある日、2年生5人は結託して部活をボイコットし、顧問の先生が体育館に向かったのを確認の後、校長室になだれこみ校長先生に部活の現状を直訴したのでした。

 帰宅してからこのことを聞いた私たち夫婦は
「おまえのやったことは間違っていない。応援するよ」
と話しました。

 ボイコットはしばらく続きましたが、事態はちっとも改善しませんでした。

 顧問の先生は開き直って、1年生主体のチーム作りをはじめようとしていました。
 直訴を受けた校長先生はこの時期、妻が末期ガンで終末期にあったために全く動けなかったようです。

 この膠着状態は打開しなければ、と私は教頭先生に電話を入れ全容を話しました。
 内容を知った教頭先生はびっくりして
「直接学校に来てお話してくださいませんか」
というので、さっそく翌日学校に出向き詳細をお伝えしたのでした。

 教頭先生にしてみれば、生徒に暴力行為をはたらく教師がいて、生徒達が抗議の意思を示すために何日間もボイコットをしている現状は、なんとしても早急に解決しないと大変なことになる、と思ったことでしょう。

 教頭先生の対応は早く、最終的には顧問の先生が生徒達に謝罪するという形となり、とりあえずは部活は再開しました。

 そして、3月末の異動で顧問の先生は別の学校に換わり、バレーボール部の新しい顧問にはバレーボールを知らない先生が配置されました。

 それまでのチームづくりがうまくいっていなかったこと、新しい先生も指導ができないことなどが重なり、5月に開催された大会では、三中との対戦でさんざんな結果となり、セッターのH君のお父さんがキレてしまって選手たちを叱責してしまうという事態にまでなってしまいました。

 この大会のあと、私は「このままでは終わらせない」ことを心に決め、時間の許す限り部活に顔を出し、直接の指導も行ってチームの強化をすることにしました。

 新しい顧問の先生がバレーボールを知らない人で、経験者である私が顔を出すとそれなりに指導の時間を作ってくれたりしましたのでその意味ではやりやすかったといえます。

 県大会の出場のかかる最後の市内大会まであと1ヶ月という短期決戦でしたが、こどもたちのテンションは、練習内容が楽しくなって行くのと同時にあがって行きましたし、技術も急速に高まっていきました。

 一ヵ月後、チームは技術面でも戦術面でもやる気の面でも見違えるようなチームになっていました。

 大会の当日、宿敵三中チームは四中の変化ぶりを知りませんでしたから
「四中には負けるわけがない」という気持ちで試合に臨んでいたでしょう。

 四中は私の作戦で前回までのスターティングポジションから大きく入れ替えて臨みましたので、このことだけでも相手は面食らったことでしょう。

 試合が始まると四中は怒涛の勢いで得点を重ね、一気に7対0まで突き進みました。

 度肝を抜かれた相手チームはこのあと反撃にでますが最初の7点差が影響して追いつかずまず1セット目は四中の勝ち。

 続く第二セットも勢いの止まらない四中がリードを広げ、ついに奪取して念願の県大会出場を決めたのでした。

 このときの試合は選手達も応援の親達も相当テンションが上がっていて声もいっぱい出ていたものだから、会場だった米沢一中の剣道部の親達がその盛り上がりにびっくりしてわざわざ観戦にやってくるという一幕も生まれました。

 勝利を決めた瞬間、選手達も親達も歓喜に沸いたことは言うまでもありませんが、この成功体験、歓喜の気持ちがソーラン節の最後の振りに繋がるのです。

 長男要自身はどう思っているのかですが、中学の部活の経験の中で、この試合に勝って県大会出場を果たしたということの意味はとても重要だったと私は考えています。

 勇気を振り絞ってストレスの元凶だった先生の問題を学校につきつけたこと、結果的には目標にむかって強くなるための練習環境を切り開いたこと、楽しくて力のつく練習を行ってチームが伸びて行くのを実感できたこと、最後には宿敵を打ち破り市内では1位の座につくことができたこと。

 こどもたち自身の判断で行ったボイコットからはじまりもたらされた大きな「変化」で彼らは一生心に残る宝物を得たのです。

 レギュラーだった4人の3年生のうち、家庭環境に恵まれなかった二人の生徒は卒業後はバレーボールにはかかわってはいませんが、その彼らにとってもこの宝物はいろんな場面で自信の礎となって彼らを支える力になることでしょう。

 中学時代には何か一つでもいいからこども自身が「自信」をつけることができる成功体験をさせるべきで、学校の中にその力量がない場合は親自身がとことんかかわってその場面を作ってやる必要がある、というのが私の持論です。
(なぜ中学時代なのかについてはソーラン節物語第7回に書いております)

ソーラン節物語 第8回

2006年03月08日 20時41分59秒 | ソーラン節物語
 成功体験。
 
 大事なことだと思ってはいるのですが、親の押し付けによるものでは本物ではないと思います。

 小学生の早い時期からよく、スポーツ少年団に子どもを入れて活躍を期待し応援を楽しむ親がいます。

 私は小さい時期は幅広くいろんなスポーツに親しむことのほうが良いと考えていましたので長男が小学3年の春に学校からもらってきたスポーツ少年団の一覧表を見て
「とうちゃん、サッカー少年団に入ってもいいか」
という彼に
「いいけど、今入ったら土日とか忙しくなって、家族でキャンプに行こうなんて思っても行けなかったりするかもよ」
と諭すといともあっさりと
「じゃ入いんない」
というのでした。

 わが家はその通りで、何度も何度もクラスメイトを巻き込んでのキャンプを行いました。

 当時は私が「やまびこ園」の園長でしたから、送迎用のマイクロバスをそのたびに活用できたので、大人数でのダイナミックな活動がいっぱいできたのです。

 おそらく、こども時代のこういった家族と友達との体験はこどもたちの心に潜在的ではあってもどっしりと残っているのではないでしょうか。

 長男は小学5年の冬に、
「クロカンの練習に参加してもいい?」
と言い出しました。

 もちろん存分にやらせました。
 
 それは6年でも続き、練習のたびごとに記録が伸びるのでとてもやりがいがあったようです。

 担任の教師は
「今は学年で8位の成績ですが日々伸びていますので、3位以内に入って大会のレギュラーになれるかもしれませんよ」
との情報を伝えてくれました。

 そうこうしているうちに、本当にレギュラーになり、大会にも出場しました。

 市内の大会では強豪が多いですから上位には食い込めませんでしたが、校内の大会では活躍しました。

 その当日は吹雪でしたので私は内心、彼はやってくれるのではないかと想像していました。

 小学1年から5年連続、校内スキー大会で優勝しているのは「やまびこ園」の卒園児の中山和志くんでしたが、吹雪なのでたぶん、彼のテンションが下がり、逆にうちの子はそういうコンディションでこそ頑張ろうとするのでは、と思えたからです。

 案の定、彼は吹雪の中を踏ん張って優勝を勝ち取りました。

 このクロカンの頑張りは、親は全くと言って良いほどノータッチの、長男だけの選択であり、判断に基づくものでした。

 同様に、夏の水泳大会の練習会でもなかなかの頑張りを見せて学年の男子の中の4位だったのですが、上位3位まではスイミングスクールに通っている子たちでしたから、そこまで伸びたのはたいしたものだなぁ、と感心させられたものでした。

 こんな調子で、わが家ではあくまでも本人の自発性というか自らの発意や意欲にもとづくがんばりを基本とし、親があれこれ口出しをしたり過剰な期待をしたりはしませんでしたのできわめてマイペースではありますが、その中で「できた」とか「伸びた」というのは間違いなく本人の自信になったと思います。

 長男の要は中学校に進学してバレーボール部に入部、2年生になり、キャプテン、生徒会長にまでなってしまったのですが、3学期には大変な事態が起きてしまいました。

ソーラン節物語 第7回

2006年03月08日 20時11分58秒 | ソーラン節物語
 2月27日、28日と長男の学校、米沢中央高校で3年4組保護者の有志によるソーラン節の練習会がありました。
 3月3日の卒業式の後の謝恩祝賀会の席上、学級ごとの出し物のプログラムがあり、それに向けての練習会です。

 担任で演劇部顧問の渡部圭子先生も含めて9人で発表することになりました。
 わがクラスは打ち合わせ会の際のくじ引きで6クラス中6番、つまり大トリになってしまったのでした。
 
 この発表の結果については3月3日以降に書くことにし、今回は前回の続きを書きましょう。

 南中ソーラン=3年B組金八先生で踊っているソーラン では、後奏のところで両手でXの字をなぞるようにする面白い振りがあります。
 上肢だけで踊っている印象で私としては迫力不足に感じていましたので足元からエネルギーが飛び出すような勢いのあるXの字を描く振りに変更して踊ってきました。

 山形四中の丸山先生から質問があったのはこの振りについてです。

 「この部分はいったいどういう意味なんですか?」

 そこで私なりの解釈を伝えました。

 ソーラン節のストーリーで言えば、ニシン漁の船が大漁旗をなびかせて港に近づいているという部分です。

 何日間かの漁でひさびさに会う家族が浜で待っています。

 漁が大成功だったことをいち早く伝える意味で大漁旗が揚がっていますが、漁師さん(踊る人自身)が体全体を使って、例えば手旗信号みたいなイメージでしょうか、懸命に大漁の喜びを表現しています。

 サッカーでいえばシュートを決めた選手が踊ったり前宙したりバック宙したりしてよろこびを爆発させて表現しますが、あの感じです。

 「成功」することは自信につながりますから、そのまま「生きる力」にもつながります。

 私の持論ですが、中学生の時期には成功体験は絶対的に必要です。

 小学生の時期にも校内の競技会やスポーツ少年団などの活動がありますが、この時期は「もって生まれたもの」や「体格・体力」などの違いで簡単に優劣が分かれてしまうケースが多いのではないでしょうか。

 こども自身が競うことの意味もわからないし、努力すること、練習することの意味もまだまだわからない時期だと思います。

 仮にこの時期に学年の中で1位の成績を収めたとして、このことを中学校に移行しても維持することは容易ではないでしょう。

 なぜなら部活動という小学校時代とは違う活動の場面に多くの子ども達が遭遇し、先輩の影響も受けつつ「競うこと」「努力すること」「練習すること」の意味も考え目標を設定し頑張るライバルが急速に増えるわけですから。

 小学校で成績が優位だった子に対するケアも必要で新たな価値観を創造させるための親の取り組みが大切だろうと考えますが、同時に、何らかの部活動に参加したのに、ちっとも結果が出ないという子(というかその部活動)も問題かと思います。

 ソーラン節なら、競争相手がいるわけではなく、自分達が納得のいく踊りの表現ができればそのまま観客に伝わり大きな共感の拍手を浴びることになりますから、これはこれでとても素晴らしい活動の手段になります。

 高校に上がってからの部活動となると、偏差値ごとの選別や、私立高校の優秀な選手集めなどの要因が絡んできますから、好きな運動部に入ったからと言って結果を出せるかどうかはかなり困難になるでしょう。

 その意味で中学校時代に何らかの結果を出して自信をつけておくというのはその後に大きな意味をもたらすと考えるわけです。

 何を隠そう、ここまでの話はわが家の実体験にもとづく「子育て論」でもあります。

(本当は2月28日に投稿しようとして書いていた文章なのですが、いろいろとあって11日も経過してしまいました。長くなると読みにくくなるのでいったん投稿します)