シニアつれづれ学び草

一生涯、世を知る学徒であり続けたい。書物、映画、旅行、生涯学習経験、一期一会、海外体験などから学んだことを書き記す。

フィンランド異聞⑥意外とアナログな教育

2010-04-29 17:15:38 | 海外批評
 ムーミンとサンタクローズとノキアとITと学力世界一がフィンランドで名高いものと並べていわれる。ノキアはいわずと知れた携帯電話の商品名で世界シェア第1位である。ノキアとともにフィンランドはリナックス(無償で使えるOSソフト、ウインドウズのシェアを奪いつつあるもの)開発者のリーナスを生み出したことが象徴するようにIT国家として知られている。

 学校訪問したときにさぞやITを駆使した授業なり、教育なりが行われているだろうと予想して行ったが、予想が外れた。意外とアナログな教育が行われていたのである。

 教室には、OHPとプロジェクターが各教室に常設されていた。多くの教師はこれを黒板代わりに使っていた。これはデジタルでもなんでもない。教科書や資料、メモ、つまり手許のペーパー上にある文字や絵をスクリーンに拡大して映して、子ども達に見せる機能の一昔前の視聴覚機器である。動きは一つもない静止画像を映すだけである。ある授業で自作のムービーを放映した英語の教師がいたが、DVDやビデオを映写するレコーダーも常設してあるようだ。コンピューターは20台ぐらい設置してある教室やラウンジ状のオープンな場所があって、主として、授業の途中で、子どもが新聞を作る、作文を書くなどの書き込みをさせるために教室から移動して使わせていた。つまりワープロ機能として子ども達に使わせていただけだ。それがインターネットにつながっていたかどうかは、インターネットを使う授業を参観できなかったので、不明である。

 教室で昔風の視聴覚機器が、授業時間内のほんの一部で、教科書・教材や資料の提示に使われただけという印象を持って帰ってきた。オープンスペースにあるコンピューターを休み時間などに使っている生徒も見かけなかった。休み時間が15分というようにかなり長く設定されている。みんな外へ出て遊ぶ。きまりだと子ども達に聞いた。だから長い休み時間なんだと思った。北欧は日照時間が少ない。ビタミンD摂取の関係から成長期の子どもには十分陽に当たらせるのを習慣としていると見た。だから、休み時間にはコンピューターを使っている時間はないのだ。

 ある中高一貫校で、廊下にダンボール側面「スマートボード」という74インチくらいのICT機器2台の梱包を見た。購入したばかりのように見えた。「スマートボード」は、コンピューターと連動させて、ムービーでもインタラクトなシステム作成もでき、子どもとインタラクトな授業もでき、画像に書き込みもできるというIT教育(ICT)機器である。IT国家のフィンランドは、ICTはこれからの話なんだと思ってびっくりしてしまった。

 フィンランドでは、子どもたちが自分で物語を創作して、自分で絵本作りをしていたことを前に記入した。分厚い教科書を使わせ、ノートもびっしり書かせる。カルタ(マインドマップ)もノートにしっかり書かせる。クロスワードのときは、教師がプリントを用意していた。後の時間は全部、問答やり取りの授業だった。問答やり取りつまり学習におけるコミュニケーションに一番時間を割いていた、それがフィンランドの授業という風に私は総括した。アナログなのである。今回は冬場だし、時間も限られていたから、外出しての、たとえば、観察授業のようなものは観られなかった。しかし、以前NHKのクローズアップ現代でフィンランドとイギリスの教育比較で映像が流され、森の中に入って何時間も自然観察を行い、記録する授業が放映されていたのを視た。アナログ100パーセントの教育である。

 3・4日前、ソフトバンクの孫社長がテレビで「教科書をすべてデジタル化」せよという提案をしているのを視てギョッとしてしまった。3800億円だけですむ、件(くだん)のダム一つ4500億円やめればできると述べていた。経済再生に焦点化して提案しているだけだった。子ども達が使う教科書を全部デジタル化した場合、子ども達の成長発達はどうなるか一顧だにしていなかった。日本再生の道といいながら、あわよくば、その「電子化」の仕事をソフトバンクが落札する魂胆かと思ってしまった。

 子どもたちはまず世の中のリアルな姿の基本をすべて学ばなければならない。この時代だから、デジタルの世界についてもいずれ学ぶ必要があろう。教科書・教材の類もいずれデジタルのものを与えられてよい。しかし、子どもには一定期間、現実の世界も手にとって、触って感じて、そのボリューム感や質感などをイメージとして持ち、それをことばと結びつけ、概念化し且つ表現できるような能力を身につける時期がなければならないのである。

 外国語教育としての日本語教育のあり方を学んで特に思う。最初、ことばと現実的なものや現象の結びつきを教える。そして練習させ、使わせる。その後やっと日本語で概念化され、日本語の枠組みへとアクセスでき、運用力が育つことになる。英語を習っていて、いまだに非常にシンプルなセンテンスを与えられてもその意味が具体的な姿をとってイメージできないときは、本当に何のことだか分からなくて苦しむときがある。日本語に訳せるかどうかではない。具体的な姿のイメージが湧かないと意味が腑に落ちないのである。読解力で世界一をとるフィンランドの教育は、そのプロセスがしっかり踏まえられて、デジタルに向かわせるタイミングとバランスが絶妙なのではないかと考えている。

 子どもには、育つ過程で、直に生の現実に触れて学ぶプロセスつまりアナログ時代を経る必要がある。そういう過程を経ないでデジタルに染まると、デジタルの奴隷になる。アナログ→デジタルをバランスよく経験させると、デジタルを道具として使いこなせる人材になる。実際の子どもを育て、教育の実態に若干触れたことのある身としても強く思う。教科書は、中核の教材であることを考えるとき、相当の時期までアナログで与える方がよいと考える。