Uの頭の中

フッ!と思いついたこと、浮かんだことを綴るブログ

水晶 形状による分類

2013-09-29 13:15:53 | 日記
ファントムクォーツ

別名ゴーストクリスタルと呼ばれ、幻影水晶、幽霊水晶
水晶が成長していく中で、一度成長を止めてから、また成長する際に他の物質が
含まれることで外側と中では違う物質で形成され、
中に見える異なる物質でできた塊が
山のように見える石

この中の模様には山が一つであったり、
山が重なったようにできているものもあり、
色彩は無色透明の水晶に液体や小さな結晶(インクルージョン)がある。


困難からの克服、目標達成、停滞からの脱却など、
人生においてのあらゆる障害を乗り越えるパワーを持っている。



レムリアンシード

レムリアンレッジと呼ばれるバーコードのような条線や、レコードキーパーと呼ばれる三角形の食像などをもつ。
レムリアンレッジに触れながら瞑想すると、古代レムリア人の叡智に触れることができる。

古代レムリア人は、この線にメッセージを込めたとされ、また、この水晶はレムリア人の転生した姿とも考えられる
心を静かにして線を指先で辿ると、次元を越え、古代レムリア人の叡智に触れることができる。
また、レムリアンシード同士を軽くぶつけると高く澄んだ音がすることから、別名をシンギングクリスタルと言う。


レコードキーパー
クォーツの先端部分に見られる三角形の傷跡のようなレコードキーパー。
古代アトランティスの叡智、情報などを記憶しているとされ、
三角形のレコードキーパー自体は、その記憶への入り口といわれている。
自分にとって大切な知識やメッセージを受け取り、自己意識をより高い次元へと導くことができる。


イシス

ポイントの正面に、二辺の左右対称な五角形をもつものをいう。

古代エジプトの女神『イシス』
「女神のクリスタル」

その由来のとおり非常に穏やかなエネルギーをもち、過去に受けた傷を癒すパワーがある。
その過去から本当の自分自身を見つけ出し、豊かな人間性をはぐくむサポートをしてくれる。
イシスは、左右の対称度が高いほど、そのエネルギーは高度でバランスが良い。


エレスチャル

まず、色としては、無色、煙、紫の全部、またはいずれかであること。
成長する過程で取り込んできたいろいろな物質(インクルージョン)はレピドクロサイト、ゲーサイト、ヘマタイト、カコクセナイトの全部、
またはいずれかが入っていること。
現在、この条件に該当するものがエレスチャルと呼ばれている
「エレスチャル」という名前はあくまでもパワーストーン名

「骸骨水晶(がいこつすいしょう)」または「骸晶(がいしょう)」は鉱物用語

水晶グループの中でも特に長い期間をかけて生み出される石で、その期間は数億年といわれている。
地球そのものを癒している石。天使のギフトと称される石

自分に許可を与える♪

2013-09-29 12:38:38 | 日記
プラセボ効果

プラシーボ(Placebo)の語源はラテン語の「I shallplease」(私は喜ばせるでしょう。)に由来しているそうです。そこから患者さんを喜ばせることを目的とした、薬理作用のない薬のことを指すようになったのです。通常、医学の世界では乳糖や澱粉、生理食塩水が使われます。従って、プラシーボ効果(反応)は、このような薬理作用のないものによりもたらされる症状や効果のことをいいます。それはいい場合と(治療効果)、悪い場合(副作用)の両面があります。「これは痛みによく効くよ。」といわれて、乳糖を飲んで、痛みがなくなったり、逆に吐き気がでたりすることがあります。この場合、プラシーボにあたるのが乳糖であり、プラシーボ効果にあたるのが、鎮痛効果であり(治療効果)、吐き気(副作用)であるわけです。
プラシーボ効果がどうして起こるかについては、次のようなことが考えられています。
1)暗示効果、2)条件付け、3)自然治癒力、4)その他

参考文献
中野重行 臨床薬功評価:Placeboをめぐる諸問題のポイント 臨床薬理 Vol.2,611-615 1995


これも自然治癒力の一種だと思う。
○○の薬を飲んだから・・・・
〇〇円払って○○のヒーリングを受けたから・・・・
これら、全てがエネルギーの動き。
自分に許可を与えるため(エネルギーを動かすため)には、何かの媒体が必要である

修行をしたから、悟りが開ける
瞑想をしたから、心が平安になる
パワースポットに行ったから、パワーが得られる
エクササイズしたから、痩せる

自分に許可を与える・・・・何もしなくてもそれが出来たら、もっといろいろな自分の可能性が開くのかも。


(ただ、プラセボ効果を利用している商品は問題
本来の効果がなくプラセボ効果だけなのに、効果のあるよう謳っているサプリ、代替医療がある。)


人生に意味なんてない♪

2013-09-20 10:46:12 | 日記
生きることに絶望している人は、「人生に意味を見いだせない」から苦しいのではない。
「人生には意味が必要である」と思い込んでいるから苦しいのである。

人の役に立つ仕事をする。愛する人につくす。子供を立派に育てる……。「意味のある人生」は、たしかにすばらしい。その意味をたもち続けているかぎりにおいては。
だが、手に入れたものは、いつかは失うと心得なければならない。
いや、失うも何も、意味があると思っていたこと自体が幻想にすぎなかったと気づくこともあるのだ。

意味があれば幸せ、意味がなければ不幸せ。そのような二分法による「条件つきの幸せ」の裏には、「いつかこの幸せが壊れるかもしれない」という不安の影がつきまとう。それでは、いつまでたっても幸せにはなれない。
生きる意味が見いだせないときは、意味を見いだそうとあがき苦しむよりも、とことん突き抜けて、「意味などなくてもよい」と、無の中に身を投げ出してみることある。
「人生の意味」にしがみついて生きるのではなく、「意味のない人生をどう生きるか」を考えるべきなのである。

「人生に意味はない」という観念は、人を苦しめもするが、救いもするのである。
正しい生き方などない。立派に生きなくてもよい。(「私は正しい」「私は立派だ」と思っている奴にロクな奴はいないのだから)
成功も失敗も大差はない。何にでも挑戦して、失敗して、またやり直せばいい。

意味にしばられる人生もまた苦しみである。
人生に意味などなくてもよい。
「こうあるべきだ」という凝り固まった考えを一度リセットして、ゼロから再出発してみよう。失うものはないのだから、好きなように生きればいい。
そこから、「ともかく精一杯やってみよう」という新しい希望や意欲が生まれるのである。



http://www.bestwish.jp/archives/201206-1.html

愛を受け入れられなかった時♪

2013-09-20 08:23:05 | 日記
愛は叶えられなくて当然、叶ったときには心から感謝しなくてはなりません。
愛が叶わなかったときにどういう態度をとるかで、その人の人間性が判ります。

望み通りの愛が叶うことは、奇跡に近いほどまれなことでしょう。ほとんどの人は、叶わぬ愛に苦しみ、悩んでいます。
しかし、その感情が「利己的なものである」ということを認識するだけで、苦しみはずいぶん和らげられるはずです。
愛されたいという欲求は抑えられなくても、それが利己的であるということを知っているのといないのとでは、大きな違いがあります。

すべてが自分の思い通りになれば幸せなのかというと、そんなことはありません。
人間は横着ですから、苦しみや悲しみがなければ、流されるままに生きて、自分を真剣に見つめ直すことはしないでしょう。
愛が受け入れられなかったときこそ、自分の人間としての本性が試されるときです。
苦難は、神が人間に「本当に大切なもの」を気づかせるために与えたものなのです。



http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/07/9.html

中道

2013-09-13 10:08:50 | 日記
中道の精神
 お釈迦さまは二十九歳のとき、釈迦国の太子の地位を捨てて出家されました。そして出家をした直後は、断食を中心とした激しい苦行を修されます。だが、苦行によっては真理に到達できないことを悟ったお釈迦さまは、そこで、
 −中道−
 を歩むことにされました。その結果、お釈迦さまは悟りを開いて仏になられたのです。
 それゆえ、仏教の根本精神は中道だと思います。
 それでは、中道とは何でしょうか…?
 それは、お互いに矛盾対立する二つの極端から離れて、ゆったりとした道を歩むことです。苦行は一つの極端であれば、快楽に溺れることももう一つの極端です。そうした極端を離れて、ゆったりと道を歩むのが中道です。
 そうですね、たとえば憎しみの炎を燃やすのは一つの極端です。けれども、だからといって憎んではならないと誡(いまし)めるのも、またもう一つの極端です。その二つの極端から離れることが中道です。
 ある仏教学者が、隣家からの貰い火で、大事な蔵書や研究論文を全部失ってしまいました。それで彼は、隣家の主人を怨みます。なんとかして仕返しをしてやろうと、そればかりを考えていました。
 だが、しばらくして彼は気がつきました。
 〈自分は仏教を学んでいる人間ではないか。その自分が仕返しばかりを考えている。これじゃあ、何のために仏教を学んでいるのかわからぬではないか〉
 そこで、彼は考え方を変えようとします。それまでは、隣の人に大事な蔵書を「焼かれてしまった」と考えていたのを、あれは自分で「焼いたのだ」と思うようにしようとしたのです。「焼かれた」から「焼いた」への転換を図ったわけです。
 でも、それは失敗に終わります。あたりまえです。自分が焼いたわけがないのに、それを自分で焼いたのだと思えるはずがありません。
 ところが、そのうちに仏教学者は気がついたのです。あれは「焼かれた」のではない、「焼いた」のでもない、ただ「焼けた」と見るべきだということに。
 そうすると、しばらくして彼は心の平安を得ることができたのです。
 わたしはこれが中道だと思います。すなわち、「焼かれた」と見るのは一つの極端です。それは被害者意識であって、それだと憎しみが募(つの)ります。しかし、「焼いた」と見ることによって憎しみを捨てようとするのも、もう一つの極端です。そんな極端によっては、問題を解決することはできません。
 「焼かれた」と「焼いた」の両極端を離れて、ただ「焼けた」と見るのが中道です。中道によってこそ、わたしたちは問題を解決することができるのです。


http://www.tendai.or.jp/journal/kiji.php?nid=25