ぴーすは、たくさんの人々の助けをいただく事ができた幸せ者です。
まず、アメ村のスタッフには 当時近くのアパレルショップで働いていた「大町くん」が転職して来てくれました。 一緒にスキムの世界に入ってきてくれたのです。 店番はもちろん、良きパートナーであり良きライバルでした。 また、イソコ出張店の番人は ピースの車友達「LOVE STEP」の「奥田氏」が担当です。 後バイトで「ケロちゃん」が、がん . . . 本文を読む
当時スキムボードと言っても誰もピンとこない時代、ボディーボードと間違えられながらも毎日店に立っていました。 下まで降りて道行く人を勧誘(決してナンパではありません)したりもしました。 そして雑誌にも紹介されたりして・・・ どんどんスキマーが増え、とうとう和歌山 磯ノ浦に「出張店」を出す事にしました。 海の家をされている方と親しくなり実現しました。 主にスクールとレンタルボードを扱っいましたが、ほと . . . 本文を読む
「SKIM WEST」のメンバーと、あ~でもない こ~でもないと試行錯誤しながら我流でスキムにはまっていたぴーすは・・・ 「SAND PEOPLE」の店長としてオーナーと四国行ったり和歌山・三重行ったりしました。 この経験が、ぴーすの行動範囲を広げローカルさん達との交流を深める事となりました。 そんなお世話になった店の店長として約半年、まだまだ10分の1人前店長なのに・・・
舞い降りてしまいま . . . 本文を読む
スキムボードメーカー「MAZAR / マザー」福士さんとの出会い。
「SAND PEOPL」の店長になったぴーすは、ラグナの映像に魅了され即座にフォーム系のボードを仕入れました。 1995年の初夏の事です。 . . . 本文を読む
卒業する2年程前から学連の動き上、学生企業に足を運ぶ様になりました。 学生運動の起こってた時代の人々が集まって様々な起業をしている所です。 そこで気に入られて、ぴーすも起業する事になったのです。
ジェットスキーが流行っていて船舶免許が必要となり、需要が多いのに怖いオジサンのいる船の免許教室なイメージの所がほとんどな状況。殆どがジェットの為の取得で、まだジェット専用免許のない時代。そこでジェット . . . 本文を読む
スクーターやオフロード エンデューロのレースで腕を磨いた青年は猛烈なアルバイトの末、やっとジェットスキーを買いました。 プロショップの車に乗っけてもらい淀川や琵琶湖に練習に行く週末がつづきました。 青年は就職したらスポーツは趣味として仕事に打ち込む社会人になる予定だったので(そんな時期もありました。)学生の間に集中して、わき目も振らずジェットの世界に入り込みました。
結果、休学期間が2年と . . . 本文を読む
ロスに渡った少年は、オリンピック使用ボード以外にもスラロームやウエーブといった、新しい分野にも挑戦しました。 国からは飛行機代くらいしか援助が出ていなかったと思います。 少年は自分で滞在費を稼ぎアイルランド人とタイ人のセイラーと仲良くなり、一軒家を3人でシェアーして住みはじめました。
現地で車の免許も取得し辞書片手の生活です。
今思えば、かなりの無謀君でした。(笑)
でもその経験がのちの . . . 本文を読む
ウインドサーフィンにはまった少年は正式名が「ボードセイリング」だと知りました。 ヨット競技ボードセイリング部門! なんと「セイラー」になってしまいました。 しかもオリンピックと言う途方もない夢が用意されてしまいました。
それからは毎週姫路から甲子園浜に練習というか特訓に通い続け朝早くから夜遅くまでがんばりました! 電車のなかではバランストレーニングしたり戦術の本を読んだり、、、 もちろん平 . . . 本文を読む
横乗りに憧れた少年は、丘サーファーとなり毎朝スケボーでイメージ
トレーニング! と言っても教本も持たず自己流で近くの小高い山を
ゆっくり滑ってただけですがね・・・
「Fine」片手に気分はサーファー!
マジで本人は、瀬戸内海で波乗りサーフィンができると信じていまし
た。 なんせ確かにウインド「サーフィン」をみたのですから・・・
数ヶ月後、
瀬戸内海では、波がない事を知り大ショックを受 . . . 本文を読む
前から整理したいと思ってた昔箱に着手しました。ぴーすの嫁になるはずの「の○ぴー」が自叙伝を出した事やし、ここは「のりぴーす」としては黙ってられません。impactの発表に関して、そのいきさつをぴーすの自叙伝を絡めて語りたいと思います。
インパクト トリックマスター スキムボード IMPACT TRICKmaster skimboard [ japan ]
【序章】
「impact誕生に至る . . . 本文を読む