社会の中にいると、慣例のような事柄に触れる事がある。
言わばそれが「常識」という事なんだろうけど、元来僕はそういったものを疑う癖があって、ついつい熟考してしまいドツボにハマっていく。
まあ、こうして文章化してネット上にリリースする事も、その考察活動の一環という事で、当文章を読んだ方々はそれに巻き込まれたと思ってお付き合い頂けたら幸いというもの。
今回やり玉に挙げるのは「返礼」
よく言われる返礼というのは「半返し」という。
もらった金額の半分をお礼として返す、という慣例だね。良く聞く事だ。
しかし己の感覚に鑑みると「贈りたい人」は「お礼」を求めない。「贈る」という行動は求められるから行われるのではなく、飽くまで主観的能動性をもって行われる。場合によっては裏にある意図が無いとは言い切れないが、基本的に贈与という行為は見返りとは切り離されていると定義して話を続ける。
「半返し」について考えよう。
なぜ頂戴したものや金額に対して半分を返すのが礼儀となっているのか。
それは、そもそも物を頂くという事に対して「感謝」よりも「後ろめたさ」が優先されているからなのではないだろうか。
してもらう事に後ろめたさがあるから、お金を払っている方が気楽という話も聞いたことある。
お店を営んでいる人が、普段あまり行かないお店の人が買い物に来ると、「いかなきゃいけない」という思いを抱くというのも同様の感覚だと思われる。
まとめると、日本人は「借り」を作る事を是としない慣例がいつのまにか出来てしまった、という事だ。
だから半分返して「行って来い」にしてしまう。
当事者間で貸し借りを清算する事が慣例化しているのだ。
なぜなら贈り物をされた時点で借金を背負う感覚があるからだろう。
「ありがとう」の代わりに使う「すみません」にもその片鱗を感じさせる。
でも、考えてみようよ。それって本当に必要な作法なのかな?
大事な事は、してもらった事に対してちゃんと「感謝」を表明する事であって、それは物や金額で返還する事ではない。
頂いたものを大事に使う事が最大の謝辞であり、それを言葉として伝える事がその表明となる。
それで十分だ。
それならもらった事によって得た喜びや利益はどうすればいいか?
他の人にしてあげればいいじゃないか。
嬉しかった事はしてもらった人に戻すんじゃなくて、別の人に贈ってあげる。
「ペイフォワード」という映画はそういうテーマだったと思うが、「寄付文化がある」という事は欧米では割と普通の感覚なのだろう。
何かをしてもらう事に恐れないで、そのまま受け取ればいい。
ちゃんと感謝の意を、「ありがとう」を表明すればいい。
嬉しかった事は次の人に贈ってあげよう。
その連鎖が社会を良くしていく。嬉しい思いを当事者間で慣例的に精算しあうのではなく、次の喜びを生産する方に気を向けてみる。
僕は結局そういう事をやりたいんだ。
言わばそれが「常識」という事なんだろうけど、元来僕はそういったものを疑う癖があって、ついつい熟考してしまいドツボにハマっていく。
まあ、こうして文章化してネット上にリリースする事も、その考察活動の一環という事で、当文章を読んだ方々はそれに巻き込まれたと思ってお付き合い頂けたら幸いというもの。
今回やり玉に挙げるのは「返礼」
よく言われる返礼というのは「半返し」という。
もらった金額の半分をお礼として返す、という慣例だね。良く聞く事だ。
しかし己の感覚に鑑みると「贈りたい人」は「お礼」を求めない。「贈る」という行動は求められるから行われるのではなく、飽くまで主観的能動性をもって行われる。場合によっては裏にある意図が無いとは言い切れないが、基本的に贈与という行為は見返りとは切り離されていると定義して話を続ける。
「半返し」について考えよう。
なぜ頂戴したものや金額に対して半分を返すのが礼儀となっているのか。
それは、そもそも物を頂くという事に対して「感謝」よりも「後ろめたさ」が優先されているからなのではないだろうか。
してもらう事に後ろめたさがあるから、お金を払っている方が気楽という話も聞いたことある。
お店を営んでいる人が、普段あまり行かないお店の人が買い物に来ると、「いかなきゃいけない」という思いを抱くというのも同様の感覚だと思われる。
まとめると、日本人は「借り」を作る事を是としない慣例がいつのまにか出来てしまった、という事だ。
だから半分返して「行って来い」にしてしまう。
当事者間で貸し借りを清算する事が慣例化しているのだ。
なぜなら贈り物をされた時点で借金を背負う感覚があるからだろう。
「ありがとう」の代わりに使う「すみません」にもその片鱗を感じさせる。
でも、考えてみようよ。それって本当に必要な作法なのかな?
大事な事は、してもらった事に対してちゃんと「感謝」を表明する事であって、それは物や金額で返還する事ではない。
頂いたものを大事に使う事が最大の謝辞であり、それを言葉として伝える事がその表明となる。
それで十分だ。
それならもらった事によって得た喜びや利益はどうすればいいか?
他の人にしてあげればいいじゃないか。
嬉しかった事はしてもらった人に戻すんじゃなくて、別の人に贈ってあげる。
「ペイフォワード」という映画はそういうテーマだったと思うが、「寄付文化がある」という事は欧米では割と普通の感覚なのだろう。
何かをしてもらう事に恐れないで、そのまま受け取ればいい。
ちゃんと感謝の意を、「ありがとう」を表明すればいい。
嬉しかった事は次の人に贈ってあげよう。
その連鎖が社会を良くしていく。嬉しい思いを当事者間で慣例的に精算しあうのではなく、次の喜びを生産する方に気を向けてみる。
僕は結局そういう事をやりたいんだ。