goo blog サービス終了のお知らせ 

竹田克也 オフィシャルブログ 「王子活動中」

ミュージシャン&総菜屋「やきとり王子」こと竹田克也は、毎日東長崎で活動中!

僕がすぐに手を挙げてしまう理由。

2015-03-10 23:06:38 | コラム

僕は昔から、何かと打診があると真っ先に手を挙げてしまう。

中学校三年生の時、先生が「合唱コンクールの音源をカセットでダビングして欲しい」とクラス全体に打診があった時も、僕は最初に手を挙げた。

当時から音楽好きで自分のベストテープとか編集していた身としては、カセットからカセットへのダビングなんて大した作業じゃないのが分かっていたため、簡単な気持ちで手を挙げたんだけど、僕以外が誰も手を挙げなかった事に先生が怒り出すというアクシデントに見舞われた。

そこで怒っちゃうと、おいらの立場が…とか思ったんだけど、結局僕以外の数名がその仕事を担う事になっちゃった。

僕が先に手を挙げる理由なんだけど、押し付けられるくらいなら自分から動いちゃった方がいいや、という判断なんだよね。

人にこれやれ、あれやって、と言われる方が苦手で、自分が「やる」と宣言した事なら自分に責任がある分、やりやすいというのが僕の姿勢なんだ。

でも基本的には出来ない事はやっていないつもり。

というのも、「誰かが出来る事とは、所詮人間のやる事なんだから出来る」という思いがあるからだ。

フリーペーパーの編集作業も、そんな感じではじめて、Microsoft Wordの環境しかないのにIllustrator使ったみたいな紙面づくりをしちゃったりもしたんだよね。

それらの技術はみんな、とりあえず自分の出来る事からスタートさせたもの。

出来ない事ならやらない、じゃなくて出来るようになるためにやらないと。

そういう意味では手を挙げる事で一番得しているのが、僕自身だったりするんだ。

ちなみに金にはなりませんがね…。金にする才能が余りにも無いのだ…。

これからも何かにつけて手を挙げる事になりそう。

どんな手の挙げ方をするか。こうご期待。


ある給仕のつぶやき

2015-03-03 23:20:47 | コラム

物の整理をしていたら、あるものに目が留まった。

ホチキス止めされた数ページにわたる小冊子。

タイトルは「ある給仕のつぶやき」

これはかれこれ10年以上前、都庁議事堂一回にあった「百兆」というレストランで働いている時に書いたものである。

都庁の職員ならびに周囲の企業の社員のランチと居酒屋的な役割を担っていたお店。そのお店では都とお店の契約終了で閉店するまで、特に任命された訳ではないのだが、立場上バイトリーダー的な仕事を任されていて、時には朝開けて夜閉めるまでをやっていた。

バイトの動きの改善や、グランドメニューの作成まで、このお店時代にはかなり色々な体験をさせていただいた。それらの体験談は結構参考になる事が多いので折に触れてここで書いていきたいと思うのだが、今回はこの謎の冊子についてだ。

百兆では、日替・週替のランチメニューを提供し、メニュー予定表を作成して配っていた。

それらの作成をやるようになってしばらくした時に、裏面が空いている事に気づいた。「このスペースに日替わりランチにちなんだエッセイを書いたら面白いのではないか」と思った私は早速店長に提案。

その時の店長というのが、今思うとかなり変わり者なんだけど、そういう提案に対しては90%以上OKを出してくれる人だった。

なので即この企画は通り、翌週より連載がスタートした。

最初こそメニューにちなんだネタを、当時のインターネットや図書館を駆使して調べて薀蓄を書き綴っていたが、だんだんネタとしては面白味が失われていく。次第により個人的な気持ちを書いたエッセイに変質していく。勿論日替わりメニューや食にまつわる時事ネタには触れているのだが、個人的な思い出話も盛り込みつつ、文体も文学的な表現を使うようになっていた。

久しぶりに読み返してみたが、まったくもって嫌な20代だよ。

でもその企画に対する想いは強く感じるそんな文章だな、と私事ながら思うのだ。

文章は全34編。

よくまあ書いたなと思うよ。

何篇かはお客さんからも反響をもらって、感想を書いた手紙をもらった事もあった。発信した内容を補完してくれる意見をもらった事もあった。

お客さんとのコミュニケーションツールとして、ちゃんと機能していたんだ。

この経験のお蔭で「常に情報を探す癖」がついたのと、「発表のメディアは自分で作っていけばいい」という気づきがあった。

それは今現在にも役に立っている。

それにしても、このお店の店長は懐の深い人間だった。

僕が提案した事や改善点についてとにかくやらせてくれた。事前にストップをかけられた記憶は無い。

それでいて、失敗してもしっかりフォローしてくれた。

こういう人間になりたい、と思っているし、人生の中の師匠の一人でもある。

感謝してもし尽せないのが、百兆時代のH店長だ。

 

それにしても、「ある給仕のつぶやき」はなかなか読みごたえがある内容なので、余裕のある時に改めて書き起こして発表するのもありかもしれない。

それにしてもTwitterが始まるずっと前から「つぶやき」を発表していたのは、私の先見の明か?

 

そんな訳ないわ!


本当に殴らなきゃいけないの?

2015-02-17 22:10:19 | コラム

お店には多くの親子連れが訪れるんだけど、親と買い物しているのが嬉しいのか、少しハメを外しがちな子供も時にはいる。

それによって事故に遭遇する可能性もあるのだから、親は気が気ではないと思うのね。

まあ、そう言った話題なんだけど、今日来たお母さんがね支払いの時に年長さん位の子供がちょっかいだしてきたのね。

そうしたら不機嫌な表情になったんだ。

と、思った次の瞬間。

 

バシッ。

 

母親はその子の頭を平手ではたいたんだよ。

子供は悲しそうな表情をしながら頭抑えていた。

 

体罰と教育というのが論争になる事がある。

言ってわからない子供には痛みを与えて覚えさせる。

体罰容認派はそのように言うよね。

でも僕はそれは違うんじゃないかなと思うんだ。

「殴る」というのは、まあ暴力だよ。これは紛う事無く暴力。

「いう事を聞かない奴には暴力を振るってもいい」という事を、子供を殴る事で伝えてしまっている、と僕は解釈しているんだ。

しかもね、さっきの母親はさ、ちょっかいだされて不機嫌になったから殴った。だって特に言い聞かせるような行動をしていなかったんだから。

本当にその暴力、必要だった?

世の親になった人たちに問いたい。

 

そう言うとね「育ててみなきゃわからないよ。大変なんだから」て言うかもしれない。

うん、確かにそうかもね。それはわからないよ。

育てたかったよ、本当に。苦労したかった。でも叶わなかった僕から見るとね、何で無事に産めた子供を感情に任せて殴るんだよ、て思うんだ。

僕は子供が無事に産まれたら、絶対に体罰だけはしない、て決めていた。

そうやって育てて行きたいと本当に思っていた。

叶わなかったけど。

 

話とぶけど、例えばね、みんなさ、戦争嫌でしょ?

戦争ってさ「意見合わない。じゃあさ殺し合いで決めようぜ」て事でしょ?

「言う事聞かない。じゃあ殴るよ」

て似てない?

戦争とか喧嘩は許さないけど、親が子供を殴るのは治外法権なの?誰が決めたの?

 

確かにわからないよ。その立場になった訳ではないから。

でも世の中には殴らずに育てている親だっている。

 

本当に殴らなきゃ、伝える事出来ないのか、考えてみてもいいんじゃないかな。

 

「教育」という論理的な作業に、「暴力」は本来入り込む余地はないはずだ。「暴力」がもたらすものは「抑圧」による「服従」である。

あと、みんな子供が無事に産まれて育っている事が奇跡である事を忘れているように思う。

 

その辺考えてもらえると、ありがたいかな。

 


脳内暇人は誰よりも考える。

2015-02-16 22:57:39 | コラム

公言している事だが、僕は脳内をいつも暇にしている。

それは新しい情報に対する備えと、思考をこねくり回す作業台を整理して置く意味がある。

よって僕は「忙しい」という言葉を、その事を論述する以外は、抹殺している。不要だからだ。

そんな言葉で大切な作業台を散らかすなんてもったいない事はしないのだ。

僕は焼鳥を刺している間も、その視界にはiPadを置くようにしている。メモと検索がすぐに出来るように、だ。

「ネット中毒」と揶揄されそうな状況だが、アイデアとか情報というのは突然やってきてあっという間に去っていく。

知識というのはそれを如何にキャッチ出来るかにかかってくる。知恵というのはキャッチしたものをどのように使ってみるか、という事だ。

僕はやってきたアイデアを脳裏に思い留めておける程頭は良くない。

だからメモを取る。

傍らにはiPad以外にもメモ用紙を配置している。

音楽のメディが浮かんだら、すかさず録音機能に記録。

Facebookタイムラインはなるべく見られるだけ見ている。良質な情報というのは時間と共に流れて行ってしまうから。

僕には人と戦える技術がほとんど無い。歌が人より少し上手いかもしれないが、もっと上手い奴なんてゴロゴロいる。

大工仕事も事務仕事も、まして営業みたいな事もやった事殆ど無し。

そういう人間はただ一つ、人より考えまくるしか無い。

そして幸いな事に僕は考える事が好きだ。

間違いなく周囲の誰よりも考えている。

誰よりも考えて考え抜くから、それで得た結論に間違いは無い、という自負がある。

「考える」と「悩む」は違う。

殆どの人は悩んでいるが考えていないのではないか?

死ぬほど考えると、結論は必ず導ける。そういう体験をずっとしてきたから間違いない。

だからもっと考えて。自分が何をすべきかを。

今の世界は、昔よりも色々な事を発信しやすくなったし受信もしやすくなった。

クリエイティビティは特殊な人のものではなくなり、誰でも何かの瞬間に世界を揺るがす価値を提供できるようになった。

その代わり、有象無象の中から選ぶ力が必要になった。

それが「考える」力だ。

決して「悩む」事ではない。

考えるに値する素晴らしい時代を生きるんだから、もっと考えまくって、社会に責任を持とうではないか。

という事を、とりあえずは言いたい。

 


ファーストタッチ

2015-02-03 22:13:59 | コラム

初心に返る。

その「初心」ていつかなーって考えると良く分からなくなる。

音楽ふれたのは多分3歳とかその位だと思うし(レコードで幼少からクラシックを中心に聞かされてたらしい)、ギターに初めて触れたのは中学時代。でもそれを自分のライフワークにしようと思ったのは高校時代にシンセ(ちなみにYAMAHAのSY77)で打ち込みをし始めた時。そうなると音楽の「初心」はどこに設定すべきかがわからない。

ただ思い出せるそれらのタイミングに共通しているのは「感動した」という事。

何だかわからないけど突き動かされる体験がそこにはあったんだね。

という事はだな、初心というのは常に更新されるという事なのかもしれない。

一つの目標を立てたその時が初心である。

 

そうなると今やっている活動、とりわけまちづくりに関しては、実はこう言えるんだ。

 

「駅前広場でライブやりたい」

 

これをとある人に話したところ「子供じみている」と批判的に言われたが、僕にとっての「まち」との再会を語る時に、その最初の感覚は外せない。

ライブやりたい、から派生して、僕は自分がそれまで関わってきた音楽の素晴らしさを伝承していくようなイベントをやりたいに変化してきたし、その為に必要な事としてみんなが使えないと思っていた駅前広場を使えるようにする必要があったんだ。

だからその為の仕事をした。

それだけなんだ。

じゃあ僕の思いを達成するには?

やはり駅前広場で僕が出演するイベントをやる。それに尽きる。

子供じみているかもしれないけど、それの何が悪いと言いたい。

そもそもこの世界が閉塞感に満ち溢れているのは、夢を描くのが許可制になっているかのような息苦しさだ。

大人とか子供とか関係なく、イメージの世界で自由になれなくて、どうやって良い世の中に出来るだろうか。

「子供じみた」といわれるような自由な発想を臆することなく話せる場所が、今の世の中もっと必要だ。

誰かの熱い思いを挫かず応援出来る事。それが大人の振る舞いだ。

大人になるとやってはいけない事が増えるわけではない。お金も行動力も子供の時分より明らかにある。

増えるのは自主規制だ。

空気という訳の分からない物に支配された自主規制だ。

だから思い出してほしい。

あの日、思わず瞬きする事を忘れてしまった衝撃を。

あの日、余りの素晴らしさにその場に立ち尽くしてしまった場所を。

そういう点がきっと誰にでもあるんだ。

それが、「初心」だと、今は思う。

 

飲みながら書いている故、、明朝の僕がどのように思うかが見ものだ。