広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより23年1月用(22日開催予定)

「読む会」だより(23年1月用)文責IZ

(12月の議論など)
12月の「読む会」は18日に開催されました。参考資料や(11月の議論)の部分では、とくに意見や質問は出ませんでした。チューターからは、1ページの3段落目の終わりのところで、「剰余労働の問題は……剰余労働を《人々の社会的能力の発展のためや》労働不能者などへの社会的控除のために……」と《》部分を書き落としていたと報告がありました。
説明(1)の部分では、「剰余価値自身はどこから来るのか、それは生産能力の高い機械の導入と関係あるのか」という質問が出ました。
チューターは、第5章以下とくに第7章でふれられたように、剰余価値の取得は基本的に、労働者の生活手段の生産に必要な必要労働時間(労働力の価値)を越える労働力の使用、すなわち剰余労働時間の取得から生まれる。だから、資本にとっては労働日(1日の労働時間)の増加による絶対的剰余価値の取得が基本的な傾向となる。これがいわゆる「搾取」であり、それは生産物の全面的な流通によって媒介されているという点で、従来の直接的生産者からの収奪等とは異なる。(労働力商品も含めて、剰余価値取得の前提である商品の流通は、物々交換と違って、それらがあらかじめ価格を持つものとして、あるいは共通な価値をもつものであることを前提として、流通に入っているという理解が重要と思われます。)生産的能力の高い機械の導入による必要労働時間の短縮は、相対的剰余価値の取得にかかわることなので、次章第10章「相対的剰余価値の概念」で詳しく触れられる、等と説明しました。
また、説明(2)の第3篇の要点については時間切れで次回に持ち越しとなりました。


(説明)第10章「相対的剰余価値の概念」

(1.相対的剰余価値の取得は、一定の労働日のなかでの必要労働部分の短縮、すなわち剰余労働部分の比率の増大から生ずる)

前篇で触れられたように、資本は労働日(労働者の1日の労働時間)を延長させることによって、剰余労働時間を“絶対的に”延長することで──不変資本(原材料や労働手段などに投じられる資本部分)は増加させても、可変資本(労働力の購入に投じられる資本部分)を増加させることなく──剰余価値の取得し、増加させることができます。他方、資本は労働者の生活手段の生産のための必要労働時間(労働力の価値)を減少させることで、同じ労働日であっても剰余労働部分を拡張し、より多くの剰余価値を取得することができます。この点について、マルクスは第10章の冒頭で線分を用いて分かりやすく示しています。

・「労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件の下では、その時の社会の経済的発展段階では、不変量なのである。労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができた。この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとが定まった。必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。@
今度は、一つの労働日の大きさが与えられており、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しよう。線分ac、すなわち@
a──────────b──c@
は一つの12時間労働日を表わしており、部分abは10時間の必要労働を、部分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしよう。そこで、どうすれば、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にかかわりなしに、剰余価値の生産を増やすことができるだろうか? 言い換えれば、剰余労働を延長することができるだろうか? 
労働日acの限界<12時間>は与えられているにもかかわらず、bcは、その終点c、すなわち同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されることによらなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見える。仮に、@
a────────b’─b──c @
のなかのb’─bはbcの半分すなわち1労働時間に等しいとしよう。いま12労働時間労働日acの中で点bがb’にずらされれば、この労働日は相変わらず12時間でしかないのに、bcは延長されてb’─cになり、剰余労働は半分だけ増えて2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がa─bからa─b’に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能である。<労働日が一定ならば>剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応することになる。すなわち、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになる。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割<割合>であろう。
……
労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要時間の短縮から生ずるほかはなく、逆に必要労働の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。われわれの例でいえば、必要労働時間が1/10だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に1/10だけ下がるよりほかはないのである。」(全集版、P411~413)

分かりやすいのでとくに説明はいらないと思われます。


(2.資本主義的生産の特徴の一つは、生産力の増大のために絶え間のない労働過程の技術的および社会的諸条件の変革が、つまり生産様式そのものの変革が行われることにある。それは必要労働時間の短縮と商品価格の低下を招くとともに、個別の資本が相対的剰余価値を特別剰余価値として取得するための手段となる)

では、こうした必要労働時間の短縮はどうしたら可能になるのでしょうか。マルクスはこう続けます。
・「しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、それ自身また、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とする。といっても、これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができる。彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならない。そして、それは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできない。したがって、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに革命が起きなければならない。われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働によりより大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。@
そこで、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないのである。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。
労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これに対して、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。」(同、P414~415)

資本主義的生産の特徴の一つは、私たちも目の当たりにしているように、まさにこの絶え間のない労働過程の技術的および社会的諸条件の、つまり生産様式そのものの変革にあるといってよいでしょう。労働の生産力の上昇による相対的剰余価値の取得は、資本家にとっては価格の引き下げによる特別剰余価値の取得として現れますが、それは同時に他の同業資本家にとっては同じ新たな生産様式を用いる外的強制として働きます。

・「1労働時間が<対象化されたものが>6ペンスすなわち半シリングという金量で表わされるとすれば、12時間の1労働日には6シリングという価値が生産される。与えられた労働の生産力ではこの12時間労働に12の商品が作られる<したがって1個の商品は6/12=1/2シリング=6ペンス>と仮定しよう。各1個に消費される原料その他の生産手段の価値は<同じく1労働時間に等しい>6ペンス<半シリング>だとしよう。このような事情の下では1個の商品は1シリング<1/2+1/2>になる。すなわち、生産手段の価値が6ペンス、それを加工するときに新しく付け加えられる価値が6ペンスである。@
今、ある資本家が、労働の生産力を2倍にすることに成功し、したがって12時間の1労働日にこの種の商品を12個ではなく24個生産することができるようになった<したがって1個の商品に加わる価値は6/2=3ペンス>としよう。生産手段の価値が変わらなければ<つまり移転分が6ペンスのままだと>、1個の商品の価値は今度は9ペンスに下がる。すなわち、生産手段の価値が6ペンスで、最後の労働によって付け加えられる価値が<半分になって>3ペンスである。生産力が2倍になっても、1労働日は相変わらずただ6シリングという新価値を作り出すだけであるが、この新価値は今度は2倍の生産物に割り当てられる。したがって、各1個の生産物には、この<24個の>総価値の1/12ではなく1/24しか、<つまり>6ペンスではなく3ペンスしか割り当たらない。または、同じことだが、生産手段が生産物に転化するときに、生産物1個につき、今度は以前のようにまる1労働時間ではなくたった半労働時間<の新価値>が生産手段に付け加えられるだけである。@
この商品の個別的価値は、今ではその社会的価値よりも低い。すなわち、この商品には、社会的平均条件の下で生産される同種商品の大群に比べて、より少ない労働時間しかかからない。1個は平均して1シリング<1/2+1/2シリング>であり、言い換えれば、2時間の社会的労働を表わしている。変化した生産様式では、1個は9ペンス<1/2+1/4シリング>にしかならない。言い換えれば、<社会的労働を>1労働時間半しか含んでいない。@
しかし、商品の現実の価値は、その個別的価値ではなく、その社会的価値である。すなわち、この現実の価値は、個々の場合にその商品に生産者が実際に費やす労働時間によって計られるのではなく、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって計られるのである。だから、新しい方法を用いる資本家が自分の商品を1シリングというその社会的価値で売れば、彼はそれをその個別的価値よりも3ペンス高く売ることになり、したがって3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。@
しかし、他方、12時間の1労働日は、今では彼にとって以前のように12個ではなく24個の商品に表わされている。だから、1労働日の生産物を売るためには、彼は2倍の売れ行きまたは2倍の大きさの市場を必要とする。他の事情に変わりがなければ、彼の商品が市場のより広い範囲を占めるには、その価格を引き下げるよりほかはない。そこで、彼は自分の商品を、その個別的価値よりも高く、しかしその社会的価値よりも安く、例えば1個10ペンスで売るであろう。それでもまだ彼は各1個から1ペンスずつの特別剰余価値を取り出す。@
彼にとってこのような剰余価値の増大が生ずるのは、彼の商品が必要生活手段の範囲に入るかどうかには、したがってまた労働力の一般的な価値に規定的に入るかどうかには、かかわりがない。だから、この<彼の商品が必要生活手段の範囲に入るか否かという>後のほうの事情は別として、どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとする動機はあるのである。
とはいえ、この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働時間の延長とから生ずるのである。……@
こうして、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする。彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行うことを、個別的に行うのである。しかし、他方、新たな生産様式が一般化され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、あの特別剰余価値もなくなる。@
労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるを得ないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである。
こうして、この全過程を経て最後に一般的剰余価値率<労働力の搾取度の一般的度合い>が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、つまり、必要生活手段の範囲に属していて労働力の価値の要素をなしている諸商品を安くしたときに、はじめて起きることである。」(同、P416~419)

なお、最後の部分にある「労働時間による価値規定の法則」とは、たとえば第1章第2節で、「一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働<人間労働>の量だけを表わしているのだから、諸商品は、ある一定の割合をなしていれば常に等しい大きさの価値でなければならないのである」(同、P61)といったことです。


(3.労働の生産力の発展による労働の節約は、資本の下では労働日を短縮させ労働者の精神的肉体的能力とともにその社会的能力の発展に資するために行われるのではない。それは労働力の価値を低減させ労働日のうちの剰余労働部分を拡張することで、資本がより大きな剰余価値を取得するための手段に用いられる)

この点について、マルクスは引き続き次のように指摘しています。
・「商品の価値は労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されているので、同様である。これ反して、<必要労働の縮小にともなう剰余労働の大きさの比率の増大からもたらされる>相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。それは、生産力が上がれば上がり、下がれば下がる。@
12時間の社会的平均労働日の1日は、貨幣価値を不変と前提すれば、常に6シリングという同じ価値生産物を生産する<生産手段の価値にそれだけの新価値を付け加える>のであって、この<加えられた>価値総額が労働力の価値の等価と剰余価値とにどのように分割されるかにはかかわりなくそうである。しかし、生産力が上がったために1日の生活手段の価値、したがってまた労働力の日価値が5シリングから3シリング<10労働時間相当から6労働時間相当>に下がれば、剰余価値は1シリングから3シリング<2労働時間相当から6労働時間相当>に上がる。労働力の価値を再生産するためには、<以前は>10労働時間が必要だったが、今では6労働時間しか必要でない。4労働時間が解放されていて、それは剰余労働の領分に併合されることができる。@
それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。
商品の絶対的価値<それに含まれる総価値>は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよいのである。彼が関心を持つのは、ただ商品に含まれていて販売で実現される剰余価値だけである。剰余価値の実現は、おのずから、前貸された<不変資本と可変資本との>価値の補填を含んでいる。@
ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのだから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心を持っている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎<それは相対的剰余価値を取得するためである>が解けるのである。……
こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいないのである。それは、ただ、<労働日のうちの剰余労働時間の割合を延長するために>ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけである。労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産するようになり、したがって各1個の商品には1/10の労働時間しか必要としないということは、決して、相変わらず彼を12時間働かせてこの12時間には以前のように120個ではなく1200個生産させることを妨げないのである。……@
労働の生産力の発展は、<本質的に剰余価値の生産である>資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することができる残りの部分を延長することを目的としているのである。@
<労働日のうちの必要労働部分を短縮することで剰余労働部分を相対的に延長させる>このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。次にこの方法の考察に移ろう。」(同、P420~422)

現代の労働者もまた、どんなに高性能な労働手段が現れようとも、いやむしろそれが高性能であればあるほどいっそう長時間の労働に追いやられています。この点からも、今も昔もより多くの剰余価値をひたすら追い求めるという資本の本性は変わるものではない、ということが分かるのではないでしょうか。


最後に、前回の「内在的諸法則」の理解の参考に、この章からも一部分を引用しておきます。
・「資本主義的生産の内在的諸法則が諸資本の外的な運動のうちに現われ競争の強制法則として実現されしたがって推進的な動機として個別資本家の意識にのぼる仕方は、まだここで考察するべきことではないが、しかし次のことだけははじめから明らかである。すなわち、競争の科学的な分析は資本の内的な本性が把握されたときにはじめて可能になるのであって、それは、ちょうど、天体の外観上の運動が、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動を認識した人だけに理解されうるようなものだ、ということである。」(同、P416)
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