広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより23年9月用(9/17開催予定)

「読む会」だより(23年9月用)文責IZ

(8月の議論など)

8月の読む会は20日に開かれました。冒頭、5年ばかり参加いただいていたYさんから、「頑張って参加してきたが、齢90となり頭がついてゆかなくなってしまったので、参加は今回までとしたい。卒業ということではなくて、無念ながらの“撤収”だ。」というお話がありました。雑談の時間では「原爆の時には中学1年で周防大島に勤労奉仕に行っていた。島の反対側でドラム缶を倉庫に運び入れる作業をしていたが、不思議なもので外にいた人は何事もなかったようだが、倉庫内では耳が痛いほどの衝撃波がしたことが忘れられない。2、3日後には、日本のほうが新型爆弾を開発したといった流言が流れた。敗戦後のハイパーインフレのときには100万円札をもらったことがあるが、庶民の財産を巻き上げて国は生き延びた。今またそのようなことになりかねないと心配している、等々」のお話が聞けました。長い間のご参加、お疲れさまでした。

(前月の議論)の部分では、「前回も言ったが機械が作業機の発展としてあるように、やはり道具は手の延長というべきではないか」という意見が出ました。人間の発展にとって二本足歩行による手の解放が大きな要因であるように、基本的には手の延長と考えるべきという意見にチューターは反対だというわけではありません。いわば特徴づけとしてはそれでいいと思うのですが、特徴づけるということは、ある事柄をその本性から説明するということの一部分だろうという意識があるので、たとえば労働は手だけするものだろうか、という疑問がわくということです(エンゲルスも「サルが人間になるにあたっての“労働”の役割」と言っていないでしょうか)。

(説明)の部分では、労働過程で一定期間にわたって機械(使用価値)が全体として機能し続ける“価値”の全体と、価値形成過程において機械が生産物に周期的に引き渡す部分的な“価値”との差が、過去の労働がまるで自然力のように新たな生産の増大に寄与するものだ、という説明の趣旨について、いくつかの質問・意見が出ました。
まず、「労働過程としては労働は有用物(使用価値)を作り、価値形成過程としては労働は価値を作るのであって、労働手段としての機械が価値を作るのではない、ということか? 機械ではなくて労働者が価値を生み出しているということは、なかなか分かりにくい。」という質問が出ました。チューターは、その通りだが、労働過程における労働の支出によってこそ、同じ過程が価値形成過程としても機能して価値の創造が行われるという、そこでの関係が重要ではないか、と答えました。この点については「価値は労働のみに関係するのであって、使用価値としての生産手段から発生するものではない、ということだろう。」という意見が出ました。
また、「商品交換は内容的には労働交換なのだが、そこでは利潤の源泉が不払労働であることが不明になる。資本は社会保険料の半額負担等について“再分配”のためなどと言うが、それは元々の不払労働から少し還元するだけのものだ。」という意見も出ました。
チューターからは、自分自身これまで読み飛ばしてきたところなので十分な確信をもって説明しているのではないが、機械の利用が生産力の上昇をもたらす点について、これまで暗黙のうちになんらかの使用価値としての機械自身の働きのように思ってしまっていた。この章の検討を通じてもうすこし理解を深めていきたい、と発言がありました。

前回は第2節の前半の説明だけで終わりました。今回も重要なところですので、資本が労働力の使用に代わって機械を使用する際の条件(法則性)という、第2節の後半部分についてだけになります。


(説明)第13章「大工業と機械」の第3回(第2節「機械から生産物への価値移転」の2)

前回は、(1. 労働手段としての機械においては、労働過程で機能し続ける機械の価値と、機械がそこで生産物に周期的に引き渡す価値部分とのあいだに大きな差が生まれる。この差こそ、新たな費用なしに機械を自然力と同じように作用させることができる要因であり、大工業と機械とが労働の生産性を高めることができる根底である)という点について触れました。今回はその続きです。


(2. 機械は、一つの作業機の機体がその多数の道具によって共同に消費されるだけではなく、同じ原動機が伝動機構の一部とともに多数の作業機によって共同に消費されるために、手工業に比べて労働の節約と生産物価格の低廉化に寄与する)

・「協業やマニュファクチュアの考察で明らかになったように、ある種の一般的な生産条件、たとえば建物などは、個別的な労働者の分散した生産条件に比べれば、共同の消費によって<生産のための費用=労働支出が>節約され、したがって生産物を高くすることがより少ない。機械の場合は、一つの作業機の機体がその多数の道具によって共同に消費されるだけではなく、同じ原動機が伝動機構の一部とともに多数の作業機によって共同に消費されるのである。」(P506)
この点についてはほとんど説明は不要と思われます。続いて、機械から生産物への価値移転について幾つかの点が触れられます。

・「機械の価値と、それの一日の生産物に移される価値部分との差が与えられていれば、この<移転する>価値部分が生産物を高くする程度は、まず第一に、生産物の大きさによって、いわば生産物の表面積によって、定まる<すなわち反比例する>。……前に挙げた蒸気ハンマーの例でも同じことである。蒸気ハンマーの1日の損耗や石炭消費などが、それが1日に打つ恐ろしく大きな鉄量に配分されるのだから、各1ツェントナーの鉄にはわずかな価値部分しか付着しないのであるが、もしこの巨大な用具が小さな釘を打ち込むようなことがあれば、この価値部分は非常に大きいであろう。
作業機の作用範囲、つまりその道具の数、または、力が問題になる場合には作業機の規模を与えられたものとすれば、生産物量は、作業機の働く速度によって、たとえば紡錘の回転する速度とかハンマーが1分間に与える衝撃数とかによって、定まる<すなわち正比例する>であろう。……。
機械が生産物に価値を移す割合<平均損耗率>を与えられたものとすれば、この<移転する>価値部分の大きさは機械自身の価値の大きさによって定まる。機械そのものに含まれている労働<すなわちその機械の生産のために必要であった労働量>が少なければ少ないほど、機械が生産物に付け加える価値<その生産物の再生産のために必要労働として加わる量>は少ない。<生産物に>価値を引き渡すことが少なければ少ないほど、ますます機械は<より大きな過去の労働を繰り返し生産に利用できるのだから>生産的であり、<時間当たりの労働の有用効果を高める>機械の役立ちはますます自然力の役立ちに近くなる。@
ところが、機械による機械の生産は、機械の大きさ<作用範囲>や効果に比べて機械の価値を小さくする<すなわち機械の生産性をいっそう高める>のである。」(P506~508)
(1)で触れた点を除けば、ここも特に難しい事柄はないかと思われます。問題になるのは、続く以下の文章です。


(3. 機械の生産性とは、その生産力の規定と異なって、その機械が人間の労働力にとって代わる程度によって計られる、社会的・歴史的な規定である。資本の下での剰余価値の取得が前提されている限り、機械によって代わられる生きた労働の総量は、つねにその機械の価値すなわちその生産のために支出された労働量の貨幣表現よりも大きい。つまり機械の利用は多くの場合に労働力の支出の節約となりうる)

・「手工業的またはマニュファクチュア的に生産される商品の価格<必要労働量の貨幣表現>と、同じ商品でも機械で生産されるものの価格との比較分析からは、一般的に、<機械のほうがその生産費用は大であるのだから>機械生産物では労働手段から移される価値成分が<生産費用の小さい道具から移転される手工業生産物の価値成分に比べて>相対的には増大するが<生産物数が増すのだから単位生産物当たりでは>絶対的には減少するという結論が出てくる。すなわち、この<個々の生産物から見た労働手段からの>価値成分の絶対的な大きさは減少するが、たとえば1ポンドの糸というような生産物の総価値に比べれば<すなわち生産物の総量の価値成分から見れば道具よりも機械のほうが>その大きさは増大するのである。
もしある機械を生産するのにこの機械の充用によって<充用期間中に>省かれるのと同じだけの労働がかかるとすれば<生産物には、機械の充用によって労働の支出が減少したのと同じ量だけ、機械からの必要労働量が付け加わるのだから>、その場合にはただ<機械を充用する労働と機械を生産する労働との>労働の置き換えが行なわれるだけで、商品の生産に必要な労働量の総量は減らないということ、すなわち労働の生産力は高められないということは、明らかである。@
とはいえ、機械の生産に必要な労働と機械<の充用>によって<充用期間中に>省かれる労働との差、すなわち機械の生産性の程度は、明らかに<その使用価値としての有用効果によって決まるのであって>、機械自身の価値<必要労働量>と機械によって代わられる道具の価値<必要労働量>との差によって定まるものではない。@
この<機械の生産のための必要労働量と、充用期間中に省かれる労働量との>差は、機械の<生産のための>労働費用、したがってまた機械によって生産物に付け加えられる価値部分が、<その機械によって省かれる労働過程で>労働者が自分の道具で労働対象に付け加えるであろう価値<支出労働量>よりも小さい限り、なくならない。@
それゆえ、機械の生産性は、その機械が人間の労働力にとって代わる程度によって計られるのである。@
ベーンズ氏によれば、1蒸気機関で運転される450個のミュール紡錘とその準備装置には<その充用のために>2・1/2人の労働者が必要であり、各1個の自動ミュール紡錘で10時間労働日の1週間に13オンスの糸(平均番手)が紡がれるので、1週間で365・5/8ポンド<16オンス=1ポンド  13×450=5850オンス=365・5/8ポンド=約366ポンド>の糸が2・1/2人の労働者<2、5人×10時間×6日=150時間>によって紡がれる。だから、綿花が糸に変えられるときに、約366ポンドの綿花(簡単にするために屑は無視する)が150労働時間、すなわち10時間労働日の15日分しか吸収しないのであるが、もし紡ぎ車で紡げば、1人の手紡工が13オンスの糸を60時間<10時間労働日の1週間>で供給する場合には、同じ量の綿花が2700の10労働日すなわち27,000労働時間<366ポンド=5850オンス /13=450人 ×60時間= 27000時間>を吸収するであろう。<言いかえれば、紡ぎ車での場合に366ポンドの綿糸の生産に必要であった2700労働日を、蒸気機関とミュール紡錘は15労働日に短縮・節約した、あるいはその差だけ労働者の労働力を代替したことになる>……」(P508~511)

機械(労働手段)のもつ“生産力”の程度は、それを利用した場合とそうでない場合との単位時間当たりの生産物の量で規定されるでしょう。しかしながら機械(労働手段)の“生産性”とは、そうした生産力そのものの規定とは異なった、社会的・歴史的な「労働力との代替性」という要因によって規定されるものだ、とここで言われているように思われます。
というのは機械は、道具とは異なって、労働者に代わって自分の道具を自分で扱うことで、労働の生産性を飛躍的に伸張させるのですから、機械は労働手段のもつ生産力に新たな社会的な規定(生産性すなわち労働力との代替性)をもたらすことになるからです。(道具が人間の用いる道具である限りでは、道具は人間の労働力に置き換わることはできないのですから、こうした社会的な規定は生まれることはできません。)そして、この機械の“生産性”すなわち労働力との代替性は、その機械の生産に要した労働支出、したがってまた機械によって生産物に付け加えられる価値部分の大きさと、労働過程においてその機械によって省かれうる労働支出との比率によって計られるのだ、とまずここで指摘されているのです。
そこでさらに、この機械のもつ労働力との代替性について、流通部面を含めてもう少し詳しく見てみよう、ということで次のように述べられます。

・「すでに述べたように、蒸気機関は、蒸気犂の場合には、1時間に3ペンスすなわち1/4シリングの費用<不変資本への投下資本>で、66人の人間が1時間当たり15シリング<15×12/66=一人当たり1時間に2、7ペンス>の費用<可変資本=賃金=必要労働量>で行うのと同じ量の仕事を行なう。@
誤解を防ぐために、もう一度この例に帰ってみよう。すなわち、この15シリングは<66人の1時間に支払われた労働力の価値=労働力の再生産に必要な労働量の表現であって>、けっして、1時間に66人によって<実際に>付け加えられる労働<総量>の表現ではないのである。@
もし必要労働に対する剰余労働の割合が100%だったならば<すなわち、資本主義的生産ではこの規定が前提されている>、この66人の労働者は1時間に<つまり毎時間に15+15の計>30シリングの価値を生産したわけである。といっても、彼ら自身の等価には、すなわち15シリングの労賃には、<66×1=66ではなくて>ただ33時間が表わされているだけであるが。@
だから、ある機械に、それによって駆逐される150人の労働者の年賃金<3000/(150×50週)=2/5ポンド=週8シリング>と同じだけの、たとえば3000ポンド・スターリングの費用がかかるとしても、この<機械の費用である>3000ポンドは、けっして、<それによって省かれる>150人の労働者によって供給され労働対象に付け加えられる労働<総量>の貨幣表現ではなく、彼らの年労働のうちのただ彼ら自身のために労賃に表わされる部分<すなわち剰余労働部分を除いた必要労働部分>だけの貨幣表現である。@
これに反して<流通を通じて取得される>3000ポンドという機械の貨幣価値は、その機械の生産中に支出される<支払労働も不払労働も含めて実際に支出された>すべての労働を、この労働がどんな割合で労働者のための労賃と資本家のための剰余価値とを形成するかに関わりなく、表現しているのである。@
だから、この機械には、それによって代わられる労働力と同じだけの費用<支払労働の年3000ポンド>がかかるにしても、この機械そのものに対象化されている労働<その生産のための総支出労働の貨幣表現としての3000ポンド>は、つねに、この機械によって代わられる生きている労働<不払労働を含めた、たとえば+3000の6000ポンドの価値>よりもずっと小さいのである。」(P511~512)
つまり、資本の下での剰余価値の取得が前提されている限り、機械によって代わられる生きた労働の総量は、つねにその機械の価値すなわちその生産に要した支出労働量の貨幣表現よりも大きいのですから、機械の利用は多くの場合に労働力の支出の節約となりうるのです。続く文章に付された、「それゆえ、共産主義社会では、<労働支出を節約する手段として>機械はブルジョア社会でとは全く違った活動範囲をもつであろう」という第2版への注釈はこうした意味合いで付されているように思われます。


(4. 機械の使用の限界は、一般的には機械自身の生産に必要な労働量が、機械の充用によって代わられる労働量よりも少ないということのうちに与えられている。しかし資本が労働力の使用に代わって機械を使用する際の条件・限界は、機械の価値がそれによって代わられる“労働力の価値”よりも少ないことによって与えられる。このため、ある部門での機械の使用は、他部門での労賃の価値以下への低下とそれに伴う労働の乱費を引き起こす等々といった、資本主義ならではの機械利用の法則性が現われる)

この点については、以下のように分かりやすく説明されます。蛇足ながらの補足を加えておきました。
・「ただ生産物を安くするためだけの手段<すなわち労働支出を低下させるための手段>としてみれば、機械の使用の限界は、機械自身の生産に必要な労働が、機械の充用によって代わられる労働よりも少ないということのうちに与えられている。@
だが、資本にとってはこの限界はもっと狭く表わされる。資本は、充用される労働<のすべて>を支払うのではなく、充用される労働力の価値<だけ>を支払うのだから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって代わられる労働力の価値との差によって限界を与えられるのである。@
必要労働と剰余労働とへの労働日の分割は国によって違っており、同じ国でも時期によって違い、また同じ時期でも事業部門によって違うのだから、さらにまた、労働者の現実の賃金<労働力の価格>は彼の労働力の価値よりも低いことも高いこともあるのだから、機械の価格と機械によって代わられる労働力の価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働量と機械によって代わられる労働の総量との差は変わらなくても、非常に違っていることがありうるのである(*)。<機械の価格は、必要労働と剰余労働との分割比(剰余価値率)に関わらない支出労働の総量によって定まる、たとえばその生産のための支出総労働に対応する貨幣表現が3000ポンドであれば、剰余価値率に関わらず機械の価格は3000ポンドとなる。これに対して機械によって代わられる労働の総量の貨幣表現がその2倍6000ポンドだったとすれば、その差は貨幣表現で3000ポンドとなる。しかしながら、この6000ポンドの労働総量のうちの労働力の価格部分は、剰余価値率によって異なる。つまり剰余価値率が100%であれば6000ポンドの1/2の3000ポンドとなるが、剰余価値率が200%であれば、6000ポンドの1/3の2000ポンドとなる。つまり機械によって代わられる労働総量6000と機械の生産費用3000とが同じであっても、前記の差は剰余価値率の違いによって3000から2000へと変化する。>@
だが、資本家自身にとっての商品の生産費を規定し、資本家を競争の強制法則によって動かすものは、ただ前のほうの差<機械の価格と機械によって代わられる労働力の価格との差>だけである。@
それだからこそ、今日イギリスで機械が発明されてもそれが北アメリカでしか用いられないとか、16世紀と17世紀にドイツで発明された機械がオランダだけで使われたとか、18世紀にフランスでなされた多くの発明はただイギリスで利用されただけだというようなことになるのである。古くから発達した諸国では、機械そのものが、いくつかの事業部門へのその応用によって、ほかの諸部門で労働過剰(とリカードは言う)を生み出し、そのために、これらの部門では労働力の価値よりも下への労賃の低落が機械の使用を妨げ、また、もともと自分の利得を充用労働の減少<必要労働の短縮による相対的剰余価値の取得>からではなく支払い労働の減少<安い労働力の利用による剰余労働の増大>から上げている資本の立場からは、機械の使用を不必要にし、しばしば不可能にさえもするのである<零細資本でのカキ打ち等を見よ>。@
……イギリスでは川舟を曳いたりするには今でも馬の代わりに女が使われることがあるが、そのわけは、馬や機械を生産するのに必要な労働は数学的に与えられる量であるが、これに反して、過剰人口の女を養うのに必要な労働は、<それが労働力の価値以下に低下している以上>どのようにでも計算できるからである。それだから、つまらないことに人力が恥知らずに乱費されることは、まさにこのイギリスで、この機械の国で、他のどの国でよりもひどいのである。
(*)第2版への注。それゆえ、共産主義社会では、機械はブルジョア社会でとは全く違った活動範囲をもつであろう。」(P512~513)

現代においても機械利用の資本主義的な限界と、人力の乱費はここで言われている当時と変わるところはありません。資本主義的生産においては、生産は諸使用価値の取得のためにではなく、剰余価値の取得を目的として行われるからこそ、労働手段である機械が労働者に対立するものして現れるのでしかありません。。

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