広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより23年3月用(3月19日開催)

「読む会」だより(23年3月用)文責IZ

(2月の議論など)
2月の読む会は19日に開催されました。(なお来月4月の読む会は、チューターの都合により休会とさせていただきます。ご了承ください。)
(1月の議論)の部分では日本の低賃金の問題が再び取り上げられて、「物の生産が根本であるのに、この間、技術革新を怠る一方で国内産業を空洞化させたり、低金利で企業の国家依存を深めさせる一方で大衆迎合のバラマキを進めるなど、政治が根本を忘れている」という意見などが出されました。また、「労働日は労働時間と言っても同じ意味か」、という質問が出されました。この点についてチューターは、労働日が1日何時間であるかという点では意味に変わりはないだろうが、重要なのは、労働日は必要労働部分と剰余労働部分という二つの時間部分に分かれているということであって(この区別がなければ、資本主義的な搾取=剰余労働の剰余価値としての取得の理解ができない)、労働日というとその意味合いが出てくるだろうと答えました。
(説明1)の部分では、「価値と言われているものは交換価値と同じ意味と考えてよいか」という質問が出ました。チューターは、第1章第3節で言われているように「厳密にいえば」、たとえば貨幣の機能などを考察する場合などには、交換価値と価値とは区別されないと理解できないだろう。その違いは第3節の見出しが「価値形態または交換価値」とある通り、「商品は、使用価値または使用対象であるとともに『価値』なのである。商品は、その価値が商品の現物形態<使用価値の形態>とは違った独特な現象形態、すなわち交換価値<他の商品との交換比率>という現象形態を持つとき、そのあるがままのこのような<使用価値であるとともに交換価値である、という>二重物として現れるのであって、商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態を決して持たない」(全集版、P82)からです。価値とは、商品の交換価値として現れるものの内容、その「社会的実体」であって、それは質的には抽象的(無差別な)人間労働であり量的な定在としては、労働時間ということになります。この「社会的実体」である価値が、商品(生産“物”)の交換関係(等置)を通じて表示される姿(現象形態)が、交換価値なのです。
商品の価値についてマルクスは、「これらのものが表わしているのは、ただ、その生産に人間労働が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらの物は価値──商品価値なのである」(P52)。あるいは、「価値としては、すべての商品は、ただ一定の大きさの凝固した労働時間でしかない」(P53)と述べています。
ただ、はじめの引用に次いでマルクス自身が「とはいえ、このことを知っておきさえすれば、先の言い方<商品は、使用価値であるとともに交換価値である>も有害なものではなく、かえって簡単にすることに役立つのである」、と言っているように、商品のもつ価値属性(社会的属性)をその使用価値属性(物的属性)と対立するものとして際立たせるためには、交換価値という現象形態で表現したほうが分かりやすい場合がある、ということのように思います。
さらに、「社会的なと言われているものはいわゆるアソシエーション(協働体)のことか、また私的なと言われているものは個人的なと同じと考えてよいか」という質問が出されました。チューターは、社会的なという言葉は共同体的な関係の下でということで使っているつもりはない。個々バラバラに行われる非共同体的な商品生産であっても、それは自然発生的ではあるが生産物の交換を通じて組織されていく社会的な生産の特別な形態であるということで言っているつもりだ。(生産物の交換は共同体が尽きたところで始まるのですし、商品生産は人々の関係を生産物の交換を通じて直接にではなく間接的に関係づけ規制していくところに特徴があるのではないでしょうか。)また、私的と個人的を区別して使っているつもりは全くなかった。区別する必要があるかどうかも、よく分からないと答えました。(幾度か引用した『クーゲルマンへの手紙』の中に、次のような言葉を見つけました。参考になるかもしれません。「……このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただその現われ方が変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことは決してできないことである。そして、社会的労働の連関が個人的生産物の私的交換として現れる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。」国民文庫、P88)
なおチューターから、前回のたよりのP4中ほどで「指揮の機能は<社会的生産の調整という>独自な性格を持つ」とある<>内の補足は、このパラグラフの最後を見ればわかるように正しくないので削除してほしい、という要請がありました(また、たよりの末尾で「労働の生産力の増大は基本的に機械の力ではなくて、それを利用する結合した人間力によるものだ」と言ってしまいましたが、労働の生産力は使用価値の生産に関連していますので、当然に労働対象や労働手段=機械にも関係しています。人間の労働力とは無関係のように見え、またそう扱われることに対する言葉と受け取っていただければと思います)。


(説明)第12章「分業とマニュファクチュア」の第1回(第1節から第3節)

第1節「マニュファクチュアの二重の起源」より

・「分業にもとづく協業は、マニュファクチュア<工場制手工業>においてその古典的な姿を身につける。……
このように、マニュファクチュアの発生様式、手工業からのその発生は、二重である。一方では、マニュファクチュアはいろいろな種類の独立手工業の結合から出発し、これらの手工業は、非独立化され一面化されて、もはや一つの同じ商品の生産過程で互いに補足しあう部分作業でしかなくなる。他方では、マニュファクチュアは同種の手工業者たちの協業から出発し、同じ個人的手工業をそのいろいろな特殊作業に分解し、さらにこれらの特殊作業を分立化し独立化して、それぞれの作業が一人の特殊労働者の専有機能になるようにする。@
こうして、マニュファクチュアは、一方では一つの生産過程に分業を導入するかまたは一層発展させるかし、他方では以前は別々だったいろいろな手工業を結合するのである。しかし、その特殊な出発点がどれであろうと、その最終の姿は同じもの、すなわち、人間をその諸器官とする一つの生産機構<第3節の言葉では「多数の部分労働者の結合された全体労働者」>である。
マニュファクチュアにおける分業<すなわち大工業とは区別される工場制手工業における分業>を正しく理解するためには、次の諸点をしっかりとらえておくことが重要である。まず第一に、生産過程をその特殊な諸段階に分解することは、この場合には、一つの手工業的活動をそのいろいろな部分作業に分解することとまったく一致する。<第二に>複合的であろうと単純であろうと、作業は相変わらず手工業的であり、したがって、個別労働者が彼の用具を操作するにあたっての力や熟練や速さや確かさにかかっている。生産物の通るそれぞれの部分過程が手工業的な部分労働として行ないうるものでなければならないからである。<第三に>このように相変わらず手工業的な熟練が生産過程の基礎であるからこそ、どの労働もそれぞれただ一つの部分機能だけに適合させられて、彼の労働力はこの部分機能の終生変わらない器官にされてしまうのである。最後に、この分業は、協業の一つの特殊な種類なのであって、その利点の多くは協業の一般的な本質から生ずるのであり、<工場制手工業という>協業のこの特殊な形態から生ずるのではないのである。」(全集版、P441~444)

手工業親方の下での生産と違って、工場制手工業では同じ資本家の指揮の下で多くの労働者が協業し、いわば一つの全体労働者に統合されます。工場制手工業には、複雑な生産物のために異種の独立手工業の結合から出発する場合(客馬車製造など)と、同種の手工業者たちの結合から出発する場合(製針など)とがあります。しかし、前者ではおのおの独立していた作業が全体の中の一部分として非独立化されることによって、全面的な技能を持つ親方が部分労働者となり、また後者では同じ全体の作業が個々の部分に分解・独立化されることによって、専門化された分業が形成されることによって、同じような姿をもつようになっていきます。つまり個々の労働者が手工業の特殊な労働に固定された部分労働者として結合されることで、一つの全体労働者として機能するような分業へと行きつきます。
一人の資本家の下での多数の労働者の協業は、最初は単なる協業として始まるとしてもそれは協業を基礎とした分業──手工業的に特殊化された部分労働者たちの分業──へと発展していきます。そして分業に基づく工場制手工業が同職組合的手工業を駆逐していくことは、分散していた生産過程が集合し、外的にも内的にも生産における社会的結合が深まることで社会における生産過程が変革され、新たに形成されていくことを意味します。ここではもはや、「この生産物は自分が作った」とは言えないのであって、生産物は個人的な生産物から社会的な生産物に転化しているのです。(このような工場内での分業と商品生産の基礎である社会的分業との相違については第4節で触れられます。)
ここでの分業の利点は、もっぱら前章で触れられたような、協業によって諸個人の労働力が結合労働力として働くことにもとづく利点に帰着します。工場制手工業は、この協業による人間の結合力の発揮によって労働の生産力を高めるとはいえ、個々の労働者を部分労働者として固定するマニュファクチュア的分業は、その労働力の一面化が逆に労働力の発展を阻害していくという反面を含んでいるのです。
親方制度に基づく手工業的生産が大規模な協業を原理的に否定するのに対して、資本家の下での分業に基づく大規模な協業は、それがもたらす生産力の増大が相対的剰余価値を取得する方法となるためにいっそう発展することになります。


第2節「部分労働者とその道具」より

・「<マニュファクチュアにおける分業について>もっと詳しく細目に立ち入ってみれば、まず第一に明らかなことは、一生涯同じ一つの単純な作業に従事する労働者は、自分の全身をこの作業の自動的な一面的な器官に転化させ、したがって、多くの作業を次々にやってゆく手工業者に比べればその作業により少ない時間を費やす、ということである。ところが、マニュファクチュアの生きている機構をなしている結合全体労働者は、ただこのような一面的な部分労働者だけからなっているのである。それだから、独立手工業に比べれば、より少ない時間でより多くが生産されるのであり、言い換えれば、労働の生産力が高められるのである。@
部分労働がある一人の人の専有機能として独立されてからは、部分労働の方法も改良される。限られた同じ行為の不断の反復と、この限られたものへの注意の集中とは、経験によって、めざす有用効果を最小の力の消耗で達成することを教える。ところが、世代の違う労働者たちがいつでも同じ時にいっしょに生活していて同じマニュファクチュアでいっしょに働いているのだから、このようにして獲得された技術上の手練は、やがて固定され、堆積され、伝達されるのである。……
労働の生産性は、労働者の技量にかかっているだけでなく、彼の道具の完全さにもかかっている。たとえば切る道具とか穴をあける道具とか突く道具とか打つ道具とかいうような同種の道具がいろいろな労働過程で使用されるし、また同じ労働過程でも同じ道具がいろいろな作業に役立つ。ところが、一つの労働過程のいろいろな作業が互いに分離されて、それぞれの部分作業が部分労働者の手のなかでできるだけ適当な、したがって専有的な形態をとるようになれば、以前にはいろいろな目的に役立っていた道具の変化が必然になる。道具の変化の方向は、変化していない形態によって引き起こされる特殊な困難の経験から生まれてくる。労働用具の分化によって、同種の諸用具にそれぞれの特殊な用途のための特殊な固定的な形態が与えられ、また労働用具の専門化によって、このような特殊な用具はそれぞれ専門の部分労働者の手によってのみ十分な範囲で作用するようになるのであるが、このような<労働用具の>分化と専門化とが<工場制手工業である>マニュファクチュアを特徴づけるのである。……マニュファクチュア時代は、労働用具を部分労働者の専有な特殊機能に適合させることによって、労働用具を単純化し改良し多種類にする。それと同時に、この時代は、単純な諸道具の結合から成り立つ機械の物質的諸条件の一つをつくり出すのである。
細部<部分>労働者とその道具とは、<単なる労働過程としてみた場合の>マニュファクチュアの単純な諸要素をなすものである。そこで今度は<価値増殖すなわち相対的剰余価値の生産の面を含めて>マニュファクチュアの全体の姿に目を向けることにしよう。」(P444~448)

多くの説明は必要ないでしょう。労働の生産力(同一労働時間内に生産される使用価値の量で測られる)は労働者の技量とともに彼の労働用具の性能にも関わります。労働者が一つの全体労働者の特殊な一器官(部分労働者)として機能するマニュファクチュア的分業においては、労働の専業化とともに自然発生的に労働用具の専門化・単純化が進み、労働の生産力を一層高めることにつながります。そして部分労働者とその専門化された道具とは、工場制手工業の下での労働過程を構成し特徴づける単純な要素、すなわちそのもっとも一般的な基礎(労働対象は変わらないものとして捨象すれば)なのです。


第3節「マニュファクチュアの二つの基本形態──異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア」より

まずマニュファクチュアの二つの基本形態として異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュアを挙げて、その区別がこう述べられます。
・「マニュファクチュアの編制には二つの基本形態があって、それらは、時には絡み合っていることもあるとはいえ、本質的に違う二つの種類をなしており、またことにマニュファクチュアが後に機械経営の大工業に転化するときにも、まったく違った役割を演じている。この二重性は製品そのものの性質から生ずる。製品は、独立の部分生産物の単に機械的な組み立てによってつくられるか<異種的マニュファクチュア>、または相互に関連のある一連の諸過程や諸操作によってその完成姿態を与えられるか<有機的マニュファクチュア>のどちらかである。」

そして、マニュファクチュアの「完成形態」である有機的マニュファクチュアをもっぱらとりあげて、その「全体機構」が詳しく考察され、そこでの労働の生産性の増大と労働力の等級性の形成による相対的剰余価値取得の可能性が取り上げられます。

・「このようなマニュファクチュアが、元来は分散していた手工業を結合するかぎりでは、それは製品の特殊な生産段階のあいだの空間的分離を少なくする。製品が一つの段階から次の段階に移るための時間は短縮され、この移行を媒介する労働も短縮される。こうして手工業に比べれば生産力が増大し、しかもこの増大はマニュファクチュアの一般的な協業的な性格から生ずる。他方、<部分労働者の熟練とその専門化された道具を基礎にする>マニュファクチュアに特有な分業の原則はいろいろな生産段階の分立化を必然的にし、これらの生産段階はそれだけ多くの手工業的部分労働として独立化されることになる。分立化された諸機能のあいだの関連を確立し維持するためには、製品を絶えず一つの手から別の手に、また一つの過程から別の過程に、運ぶことが必要である。大工業の立場から見れば、このことは、一つの特徴的な、費用のかかる、マニュファクチュアの原則に内在する局限性として目につくものである。
一定の原料、たとえば製紙マニュファクチュアのぼろとか製針マニュファクチュアの針金とかの一定量をとって見れば、それは、その最終の形になるまでに、いろいろな労働者の手の中でいろいろな生産段階の時間的な順列を通る。これ反して、作業場を一つの全体機構としてみれば原料は全てその生産段階で同時に見出される。いろいろな細部労働者が結合されて出来ている全体労働者は、道具で武装された彼のたくさんの手の中の一つの部分では針金を作っており、同時に別の手や道具では針金をまっすぐに伸ばしており、さらに別の手ではそれを切ったり尖らせたりしている。いろいろな段階的過程が時間的継起から空間的並列に変えられている。それだからこそ、同じ時間でより多くの完成製品が供給されるのである。その同時性は、たしかに総過程の一般的な協業的な形態から生ずるのではあるが、しかし、マニュファクチュアは、ただ協業の既存の諸条件を見いだすだけではなく、その<協業の>一部分を手工業的活動の分解によってはじめて創造するのである。他面、マニュファクチュアは、労働過程のこのような社会的組織を、ただ同じ細部作業に同じ労働者を釘づけすることによってのみ達成するのである。」(P451~452)

・「それぞれの部分労働者の部分生産物は、同時に、ただ同じ製品の一つの特殊な発展段階でしかないのだから、一人の労働者が別の労働者に、または一つの労働者群が別の労働者群に、その原料を供給するわけである。一方の労働者の労働成果は、他方の労働者の労働のための出発点になっている。だから、この場合には一方の労働者が直接に他方の労働者を働かせるのである。それぞれの部分過程の所期の効果を上げるために必要な労働時間は経験によって確定されるのであって、マニュファクチュアの全体機構は、一定の労働時間では一定の成果が得られるという前提に基づいている。ただこの前提のもとでのみ、互いに補い合ういろいろな労働過程は、中断することなく、同時に、空間的に並列して進行することができるのである。@
●このような労働と労働とのあいだの、したがってまた労働者どうしのあいだの直接的依存関係は、各個の労働者にただ必要時間だけを自分の機能のために費やすことを強制するのであり、したがって、独立手工業の場合とは、または単純な協業の場合とさえも、まったく違った労働の連続性や一様性や規則性や秩序が、ことにまた労働の強度が生みだされるのだということは、明らかである。ある一つの商品にはただその商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般では競争の外的強制として現われるのであるが、それは、表面的に言えば、各個の生産者が商品をその市場価格で売らなければならないからである。ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのである。……
……だから、マニュファクチュア的分業は、ただ社会的全体労働者の質的に違う諸器官を単純化し多様化するだけではなく、またこれらの諸器官の量的な規模の、すなわちそれぞれの特殊機能を行なう労働者の相対数または労働者群の相対的な大きさの、数学的に確定された割合をもつくりだすのである。マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的な編成とともにその量的な規準と均衡をも発展させるのである。……」(P453~454)

・「マニュファクチュア時代は、商品生産に必要な労働時間の短縮をやがて意識的原則として表明するのであるが、それはまた機械の使用をも散在的には発展させる。……
マニュファクチュア時代の独自な機械は、やはり、多数の部分労働者の結合された全体労働者そのものである。……今では全体労働者がすべての生産的属性を同じ程度の巧妙さで具えており、それらを同時に最も経済的に支出することになる。というのは、全体労働者は、特殊な労働者または労働者群に個別化されている彼のすべての器官をただそれぞれの独自な機能だけに用いるからである。部分労働者の一面性が、そしてその不完全性さえもが、全体労働者の手足としては彼の完全性になるのである。ある一つの一面的な機能を行なうという習慣は、彼を自然的に確実にこの機能を行なう器官に転化するのであり、他方、全体機構の関連は、機械の一部分のような規則正しさで作用することを彼に強制するのである。
全体労働者のいろいろな機能には、簡単なものや複雑なもの、低級なものや高級なものがあるので、彼のいろいろな器官である個別労働力は、それぞれ非常に程度の違う教育を必要とし、したがってそれぞれ違った<労働力の>価値を持っている。……
それゆえ、マニュファクチュアは、それがとらえるどの手工業のうちにも、いわゆる不熟練労働者という一部類を生みだすのであるが、それは手工業経営が厳格に排除していたものである。……。等級制的段階づけとならんで、熟練労働者と不熟練労働者とへの労働者の簡単な区分が現われる。後者のためには修業費はまったく不要になり、前者のためには、機能の簡単化によって手工業者の場合に比べて修業費は減少する。どちらの場合にも労働力の価値は下がる……。●修業費の消失または減少から生ずる労働力の相対的な減価は、直接に資本のいっそう高い価値増殖を含んでいる。なぜならば、労働力の再生産に必要な時間を短縮するものは、すべて剰余労働の領分を延長するからである。」(P457~460)

このように、工場制手工業の発展は、労働の生産力を高めると同時に労働力の支出に規則性をもたらします。すなわち各労働者は、その労働力の支出が社会的平均労働=社会的必要労働であるようにマニュファクチュア的分業によって強制されるのですが、このことによって商品の生産には社会的に必要な労働時間だけが費やされるということが、ここでは社会的な生産における原則として顕われてくるのです。
他方、労働の生産力の増大と不熟練労働者の形成は、労働力の価値を引き下げることで資本による相対的剰余価値の取得の可能性を切り開いていくのです。
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