広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより22年11月用 付録

付録マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』
(「ドイツ・イデオロギー」の中の覚書、岩波文庫版P234~より)

主我的な人間に対立する神的な主我主義者。
古代的国家制度についての革命期の錯覚。
『概念』と『実体』。
革命=近代国家の成立史。

(Ⅰ)フォイエルバッハについて

(1)
いままでのすべての唯物論者(フォイエルバッハのもふくめて)の主な欠陥は、対象、現実、感性がただ客観または直観の形式のもとにのみとらえられて、感性的な人間的活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられないことである。したがって活動的な側面は、唯物論とは反対に抽象的に観念論──これはもちろん現実的な、感性的な活動をそのものとしては知らない──によって展開された。フォイエルバッハは感性的な──思想客体から現実的に区別された客体を欲する。しかし彼は人間的活動そのものを対象的活動としてはとらえない。だから彼は「キリスト教の本質」のなかで理論的な態度だけを真に人間的なものとしてみなし、これにたいして実践はその汚らしいユダヤ的な現象形態においてのみとらえられ、固定される。したがって彼は『革命的な』、『実践的・批判的な』活動の意義をつかまない。

(2)
人間的思考に対象的な真理が到来するかどうかという問題は──なにも理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間は彼の思考の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思考の現実性あるいは非現実性についての論争は、──この思考が実践から遊離しているならば──まったくスコラ的な問題である。

(3)
環境の変更と教育についての唯物論学説は、環境が人間によって変更されなけらばならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、忘れている。したがってこの学説は社会を二つの部分──そのうちの一つは社会のうえに超越する──に分けなけらばならない。
環境の変更と人間的活動あるいは自己変更との合致は、ただ革命的実践としてのみとらえられ、そして合理的に理解されることができる。

(4)
フォイエルバッハは宗教的自己疎外の事実、宗教的な世界と世俗的な世界とへの世界の二重化の事実から出発する。彼の仕事は、宗教的な世界をその世俗的な基礎に解消させることにある。しかし世俗的な基礎がそれ自身から浮き上がって、一つの独立王国が雲のなかに定着するということは、この世俗的な基礎の自己分裂および自己矛盾からのみ説明さるべきである。だからこの世俗的な基礎そのものがそれ自身その矛盾において理解されなければならないとともに、実践的に革命されなければならない。だからたとえば地上の家族が聖家族の秘密として発見されたうえは、いまや地上の家族そのものが理論的および実践的に絶滅されなければならない。

(5)
フォイエルバッハは、抽象的な思考には満足せず、直観を欲する。しかし彼は感性を実践的な人間的・感性的な活動としてはとらえない。


(6)
フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消させる。しかし人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においてはそれは社会的諸関係の総和である。
フォイエルバッハは、この現実的本質の批判に立ちいらないから、どうしても
(1)歴史的な経過を無視し、宗教的心情をそれだけとして固定し、そうして抽象的な──孤立した──人間的個体を前提せざるをえない。
(2)したがって本質はただ『類』として、多くの個人を自然的に結びつける内的な、もの言わぬ一般性としてとらえられうるにすぎない。

(7)
したがってフォイエルバッハは、『宗教的心情』そのものが一つの社会的な産物であるということ、そして彼が分析する抽象的な個人が一定の社会形態に属しているということを見ない。

(8)
すべての社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義へ誘い込むすべての秘跡は、その合理的な解決を人間的実践およびこの実践の把握のうちに見いだす。

(9)
直観的唯物論、すなわち感性を実践的活動としてはつかまない唯物論が到達する最高のものは、個々の個人たちと市民社会との直観である。

(10)
古い唯物論の立場は市民社会であり、新しいそれの立場は人間的社会あるいは社会的人類である。

──────

(11)
哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。大切なのはそれを変更することである。

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