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武田神社と甲斐善光寺

■ 2022年11月11日 武田神社と甲斐善光寺

山梨県甲府市にある武田神社と甲斐善光寺を訪れました。武田神社の北側には武田氏館跡大手跡が残されており、説明版も設置されているので当時の様子をうかがい知ることができました。甲斐善光寺は到着時間が遅くなってしまったのと前回拝観しているので、今回は参拝のみでした。

▼ 武田神社

▼ 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)・・・武田氏館は「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が永正16年(1519)に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄、勝頼と武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたり、この館一帯は領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました(説明版より抜粋)。

▼ 武田神社拝殿

▼ 武田氏館配置図

▼ 能舞台

▼ 武田水琴窟

▼ 館跡の紅葉

▼ 武田氏館跡大手・・・戦国時代の武田氏館跡の正門にあたる大手の跡、発掘調査では大手門を守備するために築かれた大手石塁が検出されるとともに、その下層からは武田氏の時代に築かれたと考えられる三日月堀などが発見されています(説明版より抜粋)。

▼ 厩跡・・・武田氏館の大手門を守備するために築かれた大手石塁の南側で発掘された建物跡は、地面に柱を埋めて建てられた掘立柱建物跡である。建物中央に位置する3基の長方形の柱穴からは、柱を支えるための礎板が出土し、これまでの武田氏館跡の調査事例でも類例がなく、柱位置も戦国時代では特殊な間隔が採用されている。当建物の用途は、その特殊な柱間から江戸時代初期に成立した「匠明」に記された「厩」の建物形式に酷似し、甲州市桂林寺所蔵の「甲州古城勝頼以前図」にも、現在地付近に「御厩」の表記があることと併せて、外厩と考えられる(説明版より抜粋)。

▼ 土塁・惣掘の復元・・・武田氏館東側一帯には、北郭から大手に向かって南北方向に伸びる堀と土塁がある。堀跡は場所によりいくつかの呼称があるが、現在は総称して惣掘と呼ぶ。惣掘には土塁が設けられており、この一帯の古宇名が「高塀」と呼ばれるきっかけになったと考えられる。整備前の発掘調査からは、江戸時代以降の水田開発や宅地開発により土塁が徐々に切り崩された形跡が確認でき、わずかに残された痕跡を基に復元整備を行った(説明版より抜粋)。

▼ 国指定史跡武田氏館跡説明版

▼ 甲斐善光寺・・・開祖武田信玄公が川中島の合戦の折、信濃善光寺の消失を恐れ、永禄元年(1558)御本尊善光寺如来像等を奉遷したことに始まる。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣を転々としたが、慶長3年(1598)信濃に帰座した。甲府善光寺では新たに、前立仏を御本尊と定め現在に至っている(H.P.より抜粋)


【参考】

1、甲斐 武田神社

2、甲斐善光寺


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