下記の文章は
北大史学 第46号 2006年11月30日に掲載された
ラファエル・アバ 「ある英国人が見た日本列島の先史文化ーーN. G. Munroと“Prehistoric Japan” (1908年)」のうち「第3章 Munro著 Prehistoric Japn 」をノートしたものである。


第3章のうち(1)、(2)節はマンロー書の背景説明なので省略する。

第3節 『先史時代の日本』の構成

“Prehistoric Japan”に見られる「先史観念」を検討する。
著書の構成を確認したい。
Munroは先史時代の時代構成を原始文化ヤマト文化との二つの部分に分けた。これは当時の本邦学会における主流に従ったものである。ただしヤマト文化はマンローの造語であり慣用的には「古墳時代」である。

原始文化

原始文化は 本文第1章 “旧石器時代″ から、第8章 ”中間型土器″ までからなる。当時の日本の考古学者は「石器時代」と称していた、現在のいわゆる「縄文文化」が中心となっている

第1章では日本列島の旧石器文化存否問題を提起している。マンローは日本の石器時代(縄文時代)を新石器時代とした上で、無土器時代イコール旧石器時代の可能性についても触れている。この部分は戦後、東北大学の芹沢教室が盛んに引用したとのことである。

第8章では弥生土器(中間型)について述べている。注意しなければならないのは、弥生式土器(中間型)が原始文化の最後に付け加えられる形で記載されていることである。

ヤマト文化

゛ヤマト文化″は第9章Some Bronze Vestiges″から始まり、第15章 “The Prehistoric Races″ までの7章からなる。

実際には第9章では現在でいう弥生文化と青銅器との関連を分析する序論部分となっている。弥生文化が原始時代の最後に位置づけられるのに対し、青銅器文化はヤマト文化の端緒期として位置づけられる。ただしこれは青銅器文化をヤマト文化とは異なる独立の時代としたいとの密かな意思の現れである、アバはそのように読んでいる。

第10章から第13章までは現在でいう古墳文化について述べている。


特論部分

ヤマト文化の各章のなかで14,15章は特論部分となっている。

第14章は「石器時代人民」や「ヤマト人」の宗教論であり、第15章は日本列島の人種・住民論に当たる。


章構成の特徴

こうした構成はMunro自身の創見ではない。当時、既に出版されていた2つの概説書、八木奘三郎『日本考古學』と八木・中澤『日本考古學』の構成を基本的に引き継ぎいでいる。

しかしながら、幾つかの点において変更が行われている。例えば、八木が「器物」という一つの章で括ったのを、Munroは「生活用具」、「武器」、「土器」の三つの章に区分している。

おそらく最も注意すべきことは、「人種論」の章が著書中に示す位置である。八木と八木・中澤の概説書ではこの「人種論」は最初に置かれている。しかしMunroは最後の章に置いた。しかもこれは僅か15頁の短文である。

モンローがこの本を書いた目的は、遺物や遺跡という物質的な所産をヨーロッパ人に紹介することにある。だからあまりここでは「人種論」にあまりこだわりたくなかったのかもしれない。

同じような趣旨のベルツの本 “Zur Vor- und Urgeschichte Japans” では人種論が30ページにわたっている。


第4節 マンローの先史文化観

(1)「原始文化」

Munroは日本列島で発見されていた先史文化の考古資料を全体的にどのように理解していたのか。結論を先にいうと、原始文化は「縄文時代」、ヤマト文化は「古墳時代」に相当する。

原始文化の遺跡は貝塚や住居址であり、そこから出土する打製石器と精巧な磨製石器が特徴的である。また遺跡からは常に土器が出土する。この土器は一般に粗製で、ロクロを用いずに製作された。時には非常に精巧な文様のあるものも見つかる。

当時日本の考古学人類学界では「縄文文化」という用語がなく、「石器時代」と括られていた。これはアメリカのE. S.モースの命名(cord marked pottery)である。
その他、骨角製の道具も見られる。この文化はヨーロッパの新石器時代の文化に相当する。ただしヨーロッパと異なって、これらの遺物はドルメンや横穴墓からは出土しない

また、旧石器文化は、この新石器文化に先行して存在する可能性が認められるが、確実な証拠は得られていない。(マンローは縄文時代を新石器時代と考えている。そして日本に旧石器時代=無土器時代があったかどうかは今後の発見に待つとする)

(2)「ヤマト文化」

ヤマト文化の遺跡は墓室や横穴であり、そこからは剣などの鉄器が主体的に出土する。

ヨーロッパの鉄器時代に相当する。しかしそこには青銅器や金属器の石製模倣品も見られる。それらの中には、大陸から直接にもたらされた舶来品も発見される。

「土器」は石器時代と異なる。材質は硬く、ロクロを用いて製作されている。その文様は単純である。

一般には「ヤマト文化」ではなく「古墳時代」という。「古墳時代」という用語は1890年代の前半から散見されるようになるが、明確な定義を最初に与えたのは、八木奘三郎である。

「吾邦上古の時に當りて人々高大なる墳墓を築造し、以て死者の靈魂を慰せしことあり、予は便宜上當時を目して日本の古墳時代と謂ふ」(八木1896)

しかしマンローは、学界において既に定着していたこれらの用語ではなく、「原始文化」(Premitive Culture)と「ヤマト文化」(Yamato Culture)と言い換えた。

ただこの時代区分は、言葉こそ新しいものの、実態としては八木奘三郎の「石器時代」(先史時代)、「古墳時代」(原史時代)とかわらない。

ではなぜ言い換えたのか? それは、第三の文化、つまり青銅器文化の挿入と絡んでいる。


(3)第三の文化としての「青銅器文化」 

剣、鉾、ヤジリ、銅鐸などの青銅器は、九州や瀬戸内海に面する幾つかの地域でのみ発見される、それは原始文化の分布とも、ヤマト文化の分布とも一致しない。大和文化とは時期的に近接しているにもかかわらず、その墳墓の中に発見された例もない。

このことをマンローは問題にしている。

つまり、「この青銅器は原始文化ともヤマト文化とも異なる、もうひとつの文化に属するのではないか」という可能性である。

現在我々の「常識」からみれば、これは当然の結論だといえるかもしれないが、実際に日本の学者のほとんどが青銅器を「古墳時代」のものとして分類していた当時では、こうした認識は決して一般的ではなかった。

例えば、坪井正五郎は1899年に日本における青銅器時代の存在を完全に否定していた。

八木も「日本考古學」(1902)で銅鉾についてこう語っている。
銅鉾は古墳時代の品と見て良いのだろうか。たしかにこれらが古墳中より出た例は多くない。去れ共他の點より考へて時期に大差なしと見て宜しいのではないか。
そこには政治的な問題が潜んでいた。すなわち、「石器時代の物質的な所産は優等である日本人(天孫民族)と無縁だ」と考える人の存在である。

彼らにとっては、石器文化と古墳文化とは、その担い手の間に断絶がなければならなかった。日本人が野蛮人の子孫であってはならないからである。

これが明治時代の日本考古学思想にみられる「青銅器時代」否定論の、一つの思想的基盤である。


(4)「青銅器時代」論の意味

Munroは「青銅器文化」を、たんなる過渡期あるいは中間的な段階としては理解しなかった。それは「原始文化」と「ヤマト文化」との間の関連性においてのみ論じられるものではない。それは、短いがまったく独立した時代だ。

日本列島に最初に青銅器文化と鉄器文化を持ち込んだ「戦士集団」、その供給源は明らかに大陸にある。出発点が詳細に特定できないとしても、これらの集団は「原始文化」の担い手であった列島先住民とは明らかに異なる。その集団は、原住民に対して直接の係わりがない異質な人々だ。

この中では、まず青銅器文化の担い手が列島に流入した。彼らは先住民と混住し、ある種の内的な変化をたどった。そのあとで、大陸からの新たな影響がおよんだ。すなわち鉄器集団である。第二の集団が進入することによって、日本列島は鉄器化した。

これがマンローの考えである。

つまりMunroがいう「青銅器文化」は、後に称された「弥生時代」や「中間時代」と重なり合うにしても、ピッタリと符合することはないのである。


第5節 マンローの歴史叙述スタイル

上記のごとく、時代編成に即して八木の「日本考古學」とMunroのPrehistoric Japanを比べると、「青銅器文化」の認識に最大の違いがあることがわかる。

しかし全体を読み通すと浮かび上がってくるのは、歴史叙述の方法そのものの違いである。
八木は基本的に、非アイヌ説を唱える坪井正五郎の石器時代人民論を受け入れている。その結果、八木は日本列島で発見されていた考古資料を、「石器時代」(先史時代)と「古墳時代」(原史時代)という二つの時代にわけた。

そして両者の間に完全な切断面を設定した。すなわち石器時代の文化の担い手が絶滅、あるいは列島を去った後、古墳文化の担い手である「天孫人種」があらわれた、としたのである。

こうした図式に対して、Munroは次のように考えた。それはより複雑で、侵入と混血、支配と服従、っどうかを繰り返す複数の段階にわけられる歴史であった。

(1)原始文化 (primitive culture)

紀元前1000年より前、原始文化は主に本州、四国と九州に分布していた。北海道ではその数は少ない。ただし北海道は未開拓地が多く、発見が遅れている可能性も考えられる。

原始文化の担い手は、かつて日本の史書で「エミシ」・「エソ」とよばれていたものである。北海道、樺太と千島列島に居住するアイヌはその子孫であろう。

ただし、原始文化においてアイヌは主体的な役割を果たしたであろうが、それは他人種の共存と必ずしも矛盾しない。

原始文化の年代の広がりは今後調査により大きくなるかもしれない。例えば三ツ沢貝塚の堆積層は、これまで発見された貝塚と比べ際立って厚い。それはそれまでに推定されていた年代よりも、古い年代からのものであることを示唆する。

坪井正五郎が設定し、当時一般に受け入れられていた、3000年という年代よりも古い可能性がある。


(2)青銅器文化

3000年前あるいは2500年前、大陸から戦士集団が日本列島に流入する。彼らの手によって初めて金属器の文化が日本列島に現われた。

なぜMunroは「3000年前あるいは2500年前」という年代を与えたのかは明らかではない。伝播主義的な立場に立っていたMunroは、ユーラシア大陸での文明の全体的な伝播を考慮して、その年代を推定した可能性が高い。

中東からの製鉄術の伝播のテンポから考えると、紀元前5世紀ころに日本に到達したのは鉄器ではなく青銅器であったはずだ

青銅器の分布やその出土状況からは、青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した可能性が高い。

すなわち、まず青銅器をもつ集団が西日本の一部分に進入した。その後に、大陸からの新たな影響、および新しい集団の進入によって列島に鉄器が広がった。

この推論には2つの根拠がある

一つは青銅器の出土範囲が九州と瀬戸内海に面する地域に限られていることである(銅鐸は大和国までは発見されている)

一つは鉄器文明の担い手の建造したものと思われる古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。

(3)マンロー青銅器文化論の矛盾

以下の一文は、これまでの論理展開とは激しく矛盾する。一応書き出しておく。

青銅の武器は初期のヤマト文化のものであり、青銅器も鉄器も、基本的にヤマトに付随するものであり、決して石器時代の文化から発展したものではない。

石器時代からの内発的発展ではないということについては同意するが、「青銅器が初期ヤマト文化だ」とか、「青銅器も鉄器も、基本的にヤマト文化だ」というのは戯言に過ぎない。


(4)北方へのヤマト文化の進出

(この項すべて疑問ー私)

青銅器文化の分布は九州や瀬戸内海に面する地域に限られるが、鉄器の普及に伴って侵略者が伊勢・近江まで進み、そこは2000年前まで原始文化との境界線となった。

後に「ヤマト人」はより北へ進み、1~2世紀頃関東地方の征服をほぼ完了し、北方への動きはやがて日本の史書にみられる東北の占領へとつながる、

「ヤマト人」による関東の征服という考え方は、当時の視点からみても、かなり曖昧であり、Munroによる「古事記」、「日本紀」などの史書の解釈である。


(5)「中間土器」(intermediate pottery) 

原始文化の土器(縄文土器)としても、ヤマト文化の土器(土師器・須恵器/祝部土器)としても認識できない素焼きのものを「中間土器」として分類した。これは日本の考古学者が「彌生式土器」と呼んでいるものである

「中間土器」は原始文化とヤマト文化が本土で長い期間共存した証拠であり、おそらくヤマトの征服者の要求に応じるため、原住民の製作者が作ったものであろう。それらはヤマト文化の墳墓から出土する素焼きの土器(土師器)や陶質の土器(須恵器/祝部土器)と共時的に製作された

担い手の問題を別にして、Munroの「中間土器論」は、当時の日本の考古学者の「彌生式土器論」との類似性が高く、根本的にかわらないといってよい。ただしそれは、弥生土器が「石器時代」とも「古墳時代」とも異なる特定の時代をあらわすという考え方を表すわけではない。


第6節 Prehistoric Japanの2つの功績

(1)日本列島先住民とアイヌとの連続性の提起
1950年代以降、芹沢長介らは「旧石器文化存否問題」の提起を高く評価した。ただそれは、部分的な側面にとどまり、縄文以前の無土器文化を補強するための材料とされた。

では、この著書の真価はどこにあるのか。

それは八木著「日本考古學」と八木・中澤共著「日本考古學」に次いで、日本で書かれた第三番目の考古学概説書である。

前の2冊と比較しての最大の特徴は、「石器時代の人民はアイヌだった」という仮説を最も有力な説として主張していることである。

「アイヌ先住民説」は、単純に石器時代の文化の担い手が誰だったのかという問題ではない。それは先史時代の日本列島に開花した文化を全体として把握する上で決定的な意味を持つ。そして包括的なモデルを創る上で、これまでとは大きく異なる帰結を導くだろう。

Munroは、日本列島の先住民が現存する「アイヌ」と直接に繋っていると考えた。

そうすると、「原始文化」の担い手は現在まで生き続けていることになる。そうすると、彼らと征服者の役割を果たす「ヤマト文化」の担い手とは、長い期間共存したことになる。さらに、征服者は無人でない地域に進入してきたことになる。

Munroが考えた全体的なモデルは素晴らしいものだが、弱点もある。

約3,500ヶ所の遺跡からの金属器の発見例が唯一つだけであること、古墳からは原始文化との共時的な関連を示す証拠が一つも発見されたことがないこと。にもかかわらず原始文化とヤマト文化との併存を主張するのは強引である。

れはMunroに限らず、当時石器時代人民=アイヌ説の主張者に共通の弱点であった。

(2)青銅器時代の暗示

マンローのもう一つの功績が、青銅器文化を古墳やヤマト文化に属する事物から分離したことである。分離しきれたわけではないが、青銅器文化という時代認識の提唱は、二項対立的な歴史構成を乗り越えた考え方として評価できる。

しかしながら、この「青銅器文化」は弥生土器との間の相互関係を確証することに到っていない。その結果、青銅器文化は不本意な形でヤマト文化に組み込まれ、二元的な構成からの本質的な解放に成功していない。(むしろ弥生時代という時期区分こそが矛盾をはらんでいるのではないかー私)


ついでに英文抄録も訳出しておきます

ニール・ゴードン・マンロー(1863-1942)は、スコットランドのダンディーで開業医の息子として生まれた。
エディンバラ大学医学部を卒業後すぐに(1888年)、海外航路で船医として働き始めアジア(インド・中国)を旅した。
1891年、横浜に来て、自分のクリニックを設立した。また、日本で考古学研究に携わるようになり、東京人類学会、日本考古学協会の会員になった。
一連の発掘調査の後、マンローは1908年に「先史時代の日本」を出版した。これは、彼自身の調査結果と日本の研究者による考古学的調査に関する深い知識に基づいている。
マンローによれば、「先史時代の日本」は「ヨーロッパの読者に先史時代の日本についての考えを与える試み」だったが、実際には、この本は3番目の包括的で体系的な「解説書」だった。
最初に英語で書かれた日本列島の先史時代の文化であった。
1910年代以降、マンローの関心は主にアイヌ文化、特に精神的および宗教的領域に移った。彼の人生の最後の時期に、彼はアイヌの中に住む北海道二風谷に自宅を建てた。
現在、彼は基本的にアイヌ文化研究者として記憶されている。その一方、彼の考古学者としての主な仕事である「先史考古学日本」は、これまで「不公平」な扱いを受けている。マンローが考えた術語や概念についての誤解は考古学文献も含め頻繁に見られる。
この論文は、マンローが発掘された材料に基づいて定義した包括的スキームと、考古学的文化の概念形成に焦点を当てながら、「先史時代の日本」の内容を分析した。

この文章はPDFファイルで読むことができる。…のだがどうやってたどり着いたのか、憶えていない。
最終的にはここからダウンロードに成功した。

Thank you for joining the Academia.edu community.

Your download, N. G. MUNRO AND ‘PREHISTORIC JAPAN’ (1908) – THE PREHISTORIC CULTURE OF THE JAPANESE ARCHIPELAGO FROM THE POINT OF VIEW OF A SCOTTISH PHYSICIAN by Rafael Abad, is too big to email, but here is a direct download link

テキストファイルには変換できず、「読み取り革命」で変換した。デジタル化で先進を切る北大図書館ですらこの有様だから、まさに「先史時代」である。