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醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  642号 ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲(芭蕉)  白井一道 

2018-02-11 15:07:51 | 日記

 ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲」。芭蕉45歳の時の句。「高野にて」と前詞がある。
華女 雉の鳴き声を句郎君は聞いたことがある?
句郎 綺麗な鳥だったように記憶しているけど。私は栃木県日光で育っているから、子供の頃捕まえられた雉を見たことがあるような記憶があるよ。
華女 私は埼玉育ちだけれど、雉の鳴き声は聞いたことがあるわよ。高く鋭く突き刺さってくるような声だったように思ったように記憶しているわ。
句郎 去年ったか、古利根川の川岸を雉が歩いているのを見たという人がいたよ。
華女 まだこの辺にもいるのね。
句郎 高野山に参った芭蕉と杜国は雉の鳴き声を聞き、故郷の伊賀上野を思い出し、子供の頃が瞼にうかんできたのかなぁー。
華女 芭蕉は、主君の藤堂良忠(俳号蝉吟)が25歳で没すると蝉吟の位牌を高野山報恩院に納める使者を務めたというじゃない。
句郎 きっとその時も雉の鳴き声を聞いたんだろうね。
華女 高野山にはいろいろな思いが残っているところだったんでしょう。
句郎 「高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして法の燈消る時なく、坊舎地をしめて仏閣甍をならべ、一印頓成の春の花は寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも膓を破るばかりにて、御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに佇みて、倩(つらつら)思ふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず。そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて」というような文章が残っている。
華女 誰の書いた文章なの。
句郎 江戸時代の後期、井上士朗という人が芭蕉及びその高弟に関する逸事遺文等を記した『枇杷園随筆』が残っている。
華女 芭蕉がこの句を詠んだ状況がよく分かる文章ね。
句郎 芭蕉は亡父三十三回忌追善供養に高野山に登って来たんだろうからね。
華女 それで「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」という行基菩薩が高野山で詠んだというを歌を踏まえて詠んだのではないかと言われているのね。
句郎 行基の和歌を芭蕉は俳句にしたということなんだろうな。
華女 行基というお坊さんは偉いお坊さんだったのね。だって行基が生きた時代は奈良時代の人でしょ。東大寺創建に大きな働きをした人なんでしょう。
句郎 高野山という長い歴史をもった寺に参るとその歴史が培ってきたもろもろのことを芭蕉も継承し、新しい句を詠み、新しい歴史を高野山に築いたということなのかもしれないな。
華女 そうなのよね。現代の私たちが芭蕉のこの句を詠み、高野山での芭蕉の足跡にふれることができるんですもの。
句郎 先祖さまに私たちは守られているんだという信仰があるんだと思う。これらの信仰は日本に限らず世界中のどこにもある普遍的なものなのかもしれないが、そうした信仰の上にこの句はある。

醸楽庵だより  647号  景清も花見の座には七兵衛(芭蕉)  白井一道  

2018-02-10 12:45:14 | 日記

 
 景清も花見の座には七兵衛  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「景清も花見の座には七兵衛」。芭蕉45歳の時の句。山本健吉は『芭蕉名句集』の中にこの句をあげている。
華女 「景清」とは、歌舞伎の役者か、演目だったのかしら。
句郎 歴史上の人物で平景清という武将だった。
華女 源平合戦の平家方の武将だったのね。
句郎 屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに付き従った武将だった。なんで有名になったのかというと平家滅亡の壇ノ浦後も生き残り、諸国を流浪しながら頼朝暗殺を謀ったが、ついに捕えられ、鎌倉の化粧坂の土牢に閉じ込められ、覚悟を決め、断食して絶命したという。景清にまつわる哀しい伝説は全国に広がっている。悪七兵衛景清と言われ、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲の演目になり、評判をとったようだ。
華女 恐れられた景清も花見の席では誰からも愛される人気者になったという句なのね。
句郎 花見の席ではおっかない上役がいても無礼講、みな対等にお酒を楽しむ。それが花見だという句と詠んでいるんだと思う。
華女 部下から嫌われている店長さんも花見の席では優しい好々爺ということなのね。
句郎 上野の花見を思わせるような句なんじゃないのかな。
華女 三百年前の花見も現代の花見も同じような情景があったのね。
句郎 縦社会の人間関係を前提に成り立つ花見の無礼講が表現されているということなんじゃないのかな。
華女 俳句は象徴詩ではなく、寓意詩だと言ったのは、山本健吉だったわね。
句郎 芭蕉のこの句はまさに寓意詩だと言えるような気がするな。
華女 だから山本健吉はこの句を芭蕉の名句の一つに選んでいるのね。
句郎 そうなんじゃないのかな。人間は社会を作って生きている。社会が無ければ生きていくことができない。社会の中で人間は役割を持って生きている。家族にあっては父、母、子供と。子供の対しては父、母、妻に対して夫、夫に対して妻というように与えられた役割を持って生きている。
華女 それぞれがそれぞれの役割を果たして家族が成り立ち、存続していくのよね。
句郎 でも家族が父でもなく、母でもなく、子供でもないただの人として家族が対面することがあったら、新しい人間関係がそこから生まれて来ることもあるんじゃないのかな。
華女 子どもが成人になるとそうでなければならないと思うわ。でもなかなかできないのよね。
句郎 そうだよね。でもそのような対等な人間関係がいいというようなことを匂わせるような句としても「景清」の句を解することはできないかな。
華女 今までの人間関係をリセットするということね。確かにリセットすると参加者一人一人が活気づくということがあるんでしょうね。だから企業は毎年、花が咲くと花見の宴を開くんでしょうね。でも実際はなかなかリセットできないのが実際なんでしょうね。ただリセットできたと上役は思っているんでしょうね。部下は花見を嫌がっているのかもしれないわ。特に女性は嫌がっている人は多いかもしれないわ。

醸楽庵だより  646号 広島竹原の酒「龍勢」を楽しむ  白井一道 

2018-02-09 13:47:59 | 日記
 

 広島竹原の酒「龍勢」を楽しむ


侘輔 今日のお酒は広島県のお酒なんだ。
呑助 今まで楽しんだ広島のお酒というと「本州一」梅田酒造、土居亨杜氏のお酒が印象に残っていますね。
侘助 土居杜氏のお酒はメッセージのあるお酒たったのかな。
呑助 広島も酒所だという感じがしますね。それで今日楽しめるお酒は何と言う銘柄のお酒なんですか。
侘助 「龍勢」と言う銘柄の酒なんだ。広島県竹原市にある藤井酒造が醸したお酒なんだ。
呑助 今日のお酒も季節商品なんですか。
侘助 今の時期でしか、楽しむことができない季節限定のお酒なんだ。
呑助 どのような造りのお酒なんですか。
侘助 純米吟醸無濾過生原酒のお酒なんだ。
呑助 酒造米は何ですか。
侘助 広島県の酒造米というと「八反錦」が有名でしよ。同じ八反系の「八反35号」という酒造米を醸している。
呑助 八反系の酒造米で醸したお酒の特徴はどんなところにあるんですか。
侘助 香高く淡麗な味わいに特徴があると言われている。
呑助 新潟のお酒と同じようなお酒だということですか。
侘助 新潟の酒より、少し旨み成分があるような感じかな。
呑助 瀬戸内は酒造米の宝庫なんですよね。兵庫の山田錦、岡山の雄町、広島の八反錦と主要な酒造米はすべて瀬戸内にあるんですね。
侘助 きっと紀行が温暖で、雨量や気温、風が栽培の難しい酒造米に適していたからなんだろうね。
呑助 季節商品だということは何を意味しているんですか。
侘助 特別にお得意の酒販店にのみ卸すことを目的に醸したお酒のことのようだ。タンク一本しか、仕込まないお酒、通年商品の場合は去年のお酒と味が変わってはいけいということがあるのでブレンドして味の調整をするんだけれども、そのようなことをせず、お得意さんへの感謝の気持ちを込めて醸した酒を季節商品と言っている。だから味としては少しグレードが上がっているのではないかと思う。
呑助 今日もまた搾りたての新酒、季節商品のお酒を楽しめるということなんですね。
侘助 楽しんでもらいたんな。藤井酒造のある竹原は小京都と言われているように古い町並みが残る情緒豊かな街のようだ。
呑助 じゃー洗練された味なのかもしれませんね。今回初めて楽しむ酒ですからね。
侘助 藤井酒造の蔵元は言っている。お酒は人が造るものではない。自然の力、微生物の力が醸してくれるものだとね。麹や酵母が元気よく生命活動ができるように配慮すること、このようなことを言っている。まるで産婆のような働きをするのが蔵人だと言っている。
呑助 謙虚な方なんですね。
侘助 自然の営みに謙虚でなければ、美味しいお酒はできないと思う。
呑助 お酒を造るのは酵母なんですものね。
侘助 酵母は今、何をしてもらいたいのかということに耳を澄まして蔵元はじめ蔵人は酒造りをしている。酵母の生命活動を活発化し、最後まで看取るような酒造りみたい。

醸楽庵だより  645号  春雨のこしたにつたふ清水哉(芭蕉)  白井一道  

2018-02-08 12:23:56 | 日記

 春雨のこしたにつたふ清水哉  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「春雨のこしたにつたふ清水哉」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』に載せている。「苔清水」と前詞を置いて載せている。また『芭蕉庵小文庫』の「はる雨の木下にかかる雫かな」が伝えられている。
華女 前詞の「苔清水」には、何か意味があるのかしら。
句郎 岩波文庫『芭蕉紀行文集』「笈の小文」にある注釈には、吉野の奥、西行庵の近くにある「とくとくの清水」をさすと説明している。
華女 「とくとくの清水」とは、何か特別な清水ということなの。
句郎 「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」と西行が詠んだ歌が伝えられている。「とくとくの清水」とは、西行庵の傍らにあったちょろちょろと流れ落ちる清水を指しているのだと思う。
華女 吉野の奥にある西行庵を訪ねた芭蕉と杜国は「とくとくの清水」にじっと見入り、芭蕉はこの句を詠んだということね。句郎 芭蕉はとくとくと流れ落ちる清水を見て、春雨が桜の木の幹をつたい落ち地面にしみこんだ雨水が清水となって湧きだし、「とくとくの清水」になっているのかなぁーと感慨をもったという句なのではないかと考えているんだけど。
華女 「春雨のこしたにつたふ」とは、芭蕉の想像なのね。
句郎 そうなんじゃないかな。清水となって湧きだしている水は春雨に限らず春夏秋冬一年中、山に降った雨水が地中に沁みこみ、あふれ出したものが清水だからね。そのような清水を見て、この清水は春雨が桜の木の幹を流れ落ち、地面に沁み込み、あふれ出して清水に違いないと勝手に想像したと言うことだと思う。
華女 西行もこの清水を飲んで喉の渇きを癒したんだと思うといやがうえにもその清水が美味しく飲めたのかもしれないわ。
句郎 この句は西行を偲んだ句なんだと思う。それは「苔清水」という前詞があるからだよね。「苔清水」という言葉が「とくとくの清水」という言葉を、西行の歌を思い出させるからだと思う。もし「苔清水」という前詞がなく、西行の歌が注釈になかったら、西行を偲んだ句だという解釈はできないでしょ。
華女 だから俳句にとって、前詞は大事だということを句郎君は言いたいの、それともそのような前詞がなければ作者の真意が伝わらないような句は、良くないということを言いたいわけなの。
句郎 前詞を必要とするような句は句として自立していないように感じているんだけれどね。
華女 現代にあっては、絶対そうでしようね。でも芭蕉の時代には許される状況があったのじゃないかと私は思っているわ。
句郎 関西では、ももひきのことをコシタと言ったんだ。だから最初、この句を読んだとき、春雨に降られて花見をした芭蕉は雨水がコシタにつたって流れていくのを感じたんだなと思ったんだ。
華女 笑えるわね。
句郎 笑えるでしょう。前詞と注釈によって正しい解釈ができる句が芭蕉にはあるということなんだ。
華女 三百年前の句だからね。やむを得ないという面もあるんでしようよ。

醸楽庵だより  644号 今井聖氏の名句検証について   白井一道

2018-02-07 13:12:45 | 日記

 今井聖氏の名句検証 「白牡丹といふといへども紅ほのか、ばばばかと書かれし壁の干菜かな」について


句郎 「白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか」という有名な高濱虚子の句があるでしょ。この句より「ばばばかと書かれし壁の干菜(ほしな)かな」というそれ程人に知られていない虚子の句の方が、句として優れているのではないかということを今井聖氏がNHK俳句の時間、「名句検証」とコーナーで述べたという話を聞いた。華女さんはどのように思う?
華女 今井さんの勇気というのかしら、そんなものを感じるわ。
句郎 今井氏の意見に華女さんは賛成なの、それとも反対なのかな。
華女 今井さんが「白牡丹」の句より「ばばばかと」の句の方が優れているという理由は何だったのかしら。
句郎 「白牡丹」の句には子規の唱えた写生と虚子が唱えた花鳥諷詠がある。しかし俳句は一瞬を表現するもの。映画のワンカットのようなものだ。こういう点からいうなら「ばばばかと」の句の方が具象的に表現されているということなんじゃないのかな。
華女 今井さんと虚子の俳句観が違っているということなのね。
句郎 俳句観が違うということなんだ。華女さんはどちらの俳句観が俳句だと思っているの。
華女 私は保守的だからね。今井さんの意見には賛成できないわ。「ばばばかと」の句より、「白牡丹」の句の方が美しいと感じるわ。そう思うでしょ。
句郎 そうなのかな。確かに「白牡丹」の句の方が「白牡丹」が表現されているように感じるな。白牡丹の高貴さのようなものなのかな。
華女 「紅ほのか」という下五が決まっているのよ。
句郎 もし。芭蕉が生きていたらどちらの句を取るかな。華女さんはどちらの句を取ると思う。
華女 分からないわ。でももしかしたら「ばばばかと」の句の方を取るのかなと思ったりもするけど、「白牡丹」の句を取ると思うけど。
句郎 華女さんがちょっと迷った理由は何だったのかな。
華女 「氷苦く偃鼠が喉をうるほせり」という芭蕉の句を突然思い出したのよ。「ばばばかと」の句に一脈通じるものがあるように感じたからなのよ。
句郎 私も芭蕉は「ばばばかと」の句の方を取るのではないかと思っていたんだ。俳句は笑いが始まりだからね。「白牡丹」の句には笑いがないからね。強いて言うなら「白牡丹」の句には和歌的な美しさがあるのではないかと考えているんだ。俳諧の世界の美しさではないように考えているんだ。
華女 「ばばばかと」の句には、笑いがあると言うことなのね。
句郎 そういうことなのかな。庶民の日常生活にある笑いというか、無邪気な子供の姿が表現されているということなんじゃないのかな。
華女 「白牡丹」の句は、確かに和歌的な世界なのかもしれないわ。芭蕉には牡丹を詠んだ句があるのかしら。蕪村にはあるみたいだけど。
句郎 「牡丹蘂(しべ)ふかく分出る蜂の名残哉」という句があるが、牡丹そのものを詠んだくではないみたいだ。
華女 牡丹の花は俳句の花ではないのかもね。
句郎 そうなんだよ。