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醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  633号  このほどを花に礼いふ別れ哉(芭蕉)  白井一道

2018-01-27 13:06:46 | 日記

 このほどを花に礼いふ別れ哉  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「このほどを花に礼いふ別れ哉」。芭蕉45歳の時の句。「たび立つ日」と前詞を置いて詠んでいる。
華女 この句は旅立ちの挨拶吟ね。
句郎 この度は本当に花を楽しませていただきました。ありがとうございましたと、瓢竹亭の主人に挨拶し、芭蕉と杜国は奈良、吉野へ向けて出発して行った。
華女 「このほど」と言う言葉はなかなか上品な言葉だなぁーと感じちゃったわ。
句郎 「花に礼いふ」という中七の言葉を芭蕉はひねっているんだな。
華女 その捻りが効いているのよ。
句郎 そう、「花に礼いふ」中七の言葉が俳句にしているだろうね。
華女 芭蕉の旅立ちの挨拶吟はいいわね。
句郎 、そうだね。高校生だったころ、初めて芭蕉の授業を受けた。その時、担当の教師が言った言葉を今でも覚えている。
華女 どんなことを言ったのかしら。
句郎 「麦の穂を便につかむ別かな」という句をあげて芭蕉の句には力強さが漲っているんだ。俺はこういう句が好きだと言っていた。
華女 麦の穂が真っすぐに立っている姿には人を元気付けるような力が漲っているような気がするわ。
句郎 芭蕉がこの句を詠んでいるのが調べてみると元禄七年51歳の時に詠んでいる。「このほど」の句と比べてみると若々しさがあるね。
華女 そうね。芭蕉の句はもしかしたら年と共に若くなっていったのかもしれないわよ。
句郎 『おくのほそ道』旅立ちの挨拶吟は「行春や鳥啼き魚の目は泪」だったかな。
華女 ちょっと湿っぽいわね。
句郎 この三つの旅立ちの挨拶吟の中で華女さんはどの句が一番好きかな。
華女 私は「このほどを花に礼いふ別れかな」、この句がとても上品な感じしていいかなと感じているのよ。
句郎 上品な静かな句なのかな。しかし俳句として鑑賞するとやはり、私は「行春や鳥啼き魚の目は泪」の句の方が優れているのかなと感じているんだ。
華女 「行春や鳥啼き魚の目は泪」。この句のどこがいいのかしら。
句郎 鳥が啼き目に泪を、魚が目に泪を浮かべるなんていうことありしないでしよう。これは虚構でしょ、言ってみればね。そのような虚構と行春とを取り合わせているところに凄さがあるということなのかな。
華女 虚構ということは、嘘ということよね。
句郎 そうなんだ。嘘なんだ。嘘を述べて真実を述べる。これが文学というものだと私は考えているからね。
華女 フィクションが真実を表現するということなのね。
句郎 そう、小説という形式の文学が文学を文学たらしめているということなんだと思う。
華女 俳句の文学性に句郎君は疑問を持っているすしら。
句郎 いや、そんなことはないよ。ただ、文学としての俳句は、芭蕉で終わっているという山本健吉の主張になるほどねと納得させるような説得力があると思っているんだ。

醸楽庵だより  632号  花をやどにはじめをわりやはつかほど(芭蕉)  白井一道

2018-01-26 14:59:19 | 日記

 花をやどにはじめをわりやはつかほど  芭蕉 

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「花をやどにはじめをわりやはつかほど」。芭蕉45歳の時の句。「瓢竹庵(ひょうちくあん)にひざをいれて、たびのおもひいと安かりければ」と前詞を置いて詠んでいる。
華女 一読しただけじゃ、何が詠まれているのか、分からない句ね。
句郎 何回か、読むうちに漠然と伝わって来るものがあるように感じるかな。
華女 上五の「花をやどに」が分かると全体が分かってくるように思うわ。
句郎 中七、下五の「はじめをわりやはつかほど」の意味が反響し、「花をやどに」の言葉の意味が明確になつてくるということなのかな。
華女 そうなのよ。一回読んで分からない。二回読んでもはっきりしない。三回読むとなるほどねと、少しにやにやしてくる感じね。
句郎 土芳の『くろそうし』の冒頭に師、芭蕉の言葉として「発句の事は行きて帰る心の味(あじわい)也」と書いているんだ。中七、下五の言葉を読み、上五の言葉の意味が分かって来る。上五の言葉の意味が分かって来るに従って、中七、下五の言葉の意味がはっきりしてくる。このようなことを芭蕉は述べているのではないかと考えているんだけれど。
華女 句郎君の意見にちょっと修正したいな。「花をやどにはじめをわりや」が一つの塊になって、「はつかほど」の言葉と反響し合うのよね。
句郎 、そうだと僕も思う。「花をやどにをわりはじめや」の「や」できれているんだものね。華女さんが言うようでなければ取り合わせの句にならないよね。
華女 そうよ。「花をやどに」と言う言葉がひねってあるのよ。花そのものを宿にして花を楽しめるのは初めから終わりまでおよそ二十日ばかりだと言っているのよね。
句郎 華の莟を見て、咲き始める日を楽しみ、二分咲き、三分咲き、花見に宴が始まり、夜桜の美しさに心を奪われ、花吹雪に見惚れ、花筏に名残を惜しむ。すべてが夢のような日々、二十日ぐらいなのかもしれない。
華女 花見の本質を表現しているのよね。
句郎 そうなんだ。ここに俳句の本質があるんだと山本健吉は述べている。『挨拶と滑稽』という評論のなかで「古池や蛙飛びこむ水の音」を取り上げ、「古池や」と「水の音」とが、この世界では同時的に存在しなければならぬのである。様式における時間性と内面における同時性とが、無限に摩擦し相克して、ここに俳句的な性格の確立をみるのである。俳句は時間性を抹殺すると主張している。
華女 俳句は読んですぐ分かったという気持ちになれないのね。
句郎 短歌はうたうが、俳句はよむ。短歌は詠嘆するが、俳句は認識する。短歌は女の文芸として完成したが、俳句は男の文芸として成立した。このようなことも山本健吉は述べている。
華女 横光利一が「俳句は哲学だ」と言ったことに通じる主張なのかしら。
句郎 そうなんじゃないのかな。俳句は歌うことができない。他人の俳句を読んで楽しみ、自分で俳句を詠んで楽しむもののようなんだ。そういう仲間なしには成り立たない。

醸楽庵だより  631号  さまざまのこと思ひ出す櫻哉(芭蕉)  白井一道

2018-01-25 12:59:12 | 日記

 さまざまのこと思ひ出す櫻哉  芭蕉
 

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「さまざまのこと思ひ出す櫻哉」。芭蕉45歳の時の句。「探丸子(たんがんし)のきみ別墅(べっしょ)の花みもよほさせ給ひけるに、むかしのあともさながらにて」と前詞を置いて詠んでいる。
華女 探丸子(たんがんし)とは、誰のことなのかしら。
句郎 芭蕉の生まれ故郷、伊賀上野は藤堂藩の領内だった。芭蕉の先祖、松尾家は武家奉公人の家だったようだ。武家奉公人とは、何の俸給も受け取ることなく、藤堂藩のために仕えることを有難く受け入れる半ば農奴のような存在だった。芭蕉は十台の後半、藤堂藩の伊賀付5千石の侍大将藤堂新七郎良精(ヨシキヨ)の嫡子主計良忠(カズエヨシタダ)に出仕した。芭蕉の職務は主に台所、お膳の準備をすることのようだった。良忠は蝉吟(せんぎん)という俳号をもつ俳人でもあった。この蝉吟の子もまた俳諧を嗜む俳人だった。藤堂新七郎良長の俳号を探丸という。俳諧の『古今集』と言われている「猿蓑」に探丸の「一夜一夜さむき姿や釣干菜(つりほしな)」他三句が入集している。
華女 江戸から帰った芭蕉は藤堂家の庭で催された花見の会に招かれたのね。その席で詠まれた句がこの句だったということね。
句郎 今でもこの句を読むとなんと月並みな句なんだろうという気がしてならないんだけどね。
華女 芭蕉の句にしては陳腐だということなの。
句郎 当たり前なことを当たり前に述べているだけで何のひねりもない、平凡な句だなと思っているんだけどね。
華女 芭蕉の桜を詠んだ句の中で句郎君の好きな句はあるのかしら。
句郎 、「花の雲鐘は上野か浅草か」。この句が好きかな。とてもいいと感じているんだけど。
華女 そうよね。三百年前に詠まれた句が現代にあってごく普通に読むことができるなんてすごいことだと思うわ。
句郎 「さまざまのこと思ひ出す櫻哉」。この句も読んですぐ分かる。難しさが何もない句かな。
華女 「ひねってあって、すぐ分からない句よりすぐ分かる句というのもいいんじゃないのかしらね。
句郎 「木のもとに汁も膾(なます)も桜かな」。この句はどうかな。
華女 花見の宴をしていたのね。桜吹雪にご馳走の椀や盃、お皿に花びらが落ちてきてしまったということよね。芭蕉はお酒の宴が好きだったのね。
句郎 「命二ツの中に生たる櫻哉」。この句はどうかな。この句はどうかな。
華女 七七五の句ね。この句には捻りがあるわ。「命二つ」とは、これ、悲恋の句のような気がしてきたわ。若い男と女、恋し合った二人は引き裂かれてしまった。別々の人生を歩んだ二人が年老いて再会したのね。別れた二人にとって思い出に残っている桜の花の下で再会を果たしたのよ。二人の心の中に生き続けていた桜の花が今を盛りに咲き誇っているというようなイメージが浮かび上がって来たわ。
句郎 一編のドラマが出来上がった。そんな想像を読者に与えるような句なのかもしれないな。「命二つ」の句は。
華女 そんな句もいいわ。

醸楽庵だより  630号  丈六にかげろふ高し石の上(芭蕉)  白井一道

2018-01-24 13:05:17 | 日記

 丈六にかげろふ高し石の上  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「丈六にかげろふ高し石の上」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』には「伊賀の國阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有。護峰山新大仏寺とかや云、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋て、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全おはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ所なく、泪こぼるゝ計也。石の連(蓮 )台・獅子の座などは、蓬・葎の上に堆(うづたか)ク、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覺えられけれ」と書き、この句を載せている。
華女 俊乗上人とは、有名なお坊さんだったのかしら。
句郎 鎌倉時代に東大寺大仏殿再建に力を発揮したお坊さんとして有名なのかな。俊乗坊重源は東大寺中興の師として尊敬されていた。
華女 「護峰山新大仏寺」という寺が今の三重県伊賀市にあったのね。
句郎 俊乗上人は東大寺大仏殿の余材を伊賀の國阿波の庄に送り、浄土堂を建立し、そこに快慶作の金色の阿弥陀像を安置したようなんだ。この寺が「護峰山新大仏寺」だった。それから五百年後に芭蕉が訪れたときには、浄土堂も丈六の阿弥陀座像も失われてしまっていた。阿弥陀仏の台座は雨ざらしになっていた。
華女 芭蕉は雨ざらしになった阿弥陀仏の台座を見て無常の泪を零したのね。
句郎 丈六といったらどのくらいの高さだと思う?
華女 一尺と言ったら、およそ30センチよね。一丈といったら10尺でいいのかしら。丈六と言えば4メートル80センチぐらいじゃまいの。
句郎 、一尺は30センチと数ミリあるから、丈六仏というと4メートル85センチぐらいの高さのある仏さんだった。
華女 大きな仏像よね。京都宇治の平等院の阿弥陀仏は丈六の仏様よね。
句郎 石の上にかげろうが五メートル近くも立つだろうかね。
華女 「丈六に」の「に」とは、何なの。
句郎 この「に」は切字になっているのかな。「丈六に」とは、芭蕉の幻影だよね。
華女 そうなのよね。石の台座しか残っていなかったんですものね。
句郎 かげろうが石の上に立つのを見た芭蕉は、そのかげろうに丈六仏の幻影を見たということなんじゃないのかな。だから五メートル近く、かげろうは立っていなかったかもしれないが、その小さなかげろうに丈六仏の幻影を芭蕉は見たということなんじゃないのかな。
華女 「丈六に」で切れていると解釈した方が分かりやすいように感じるわ。
句郎 そうだよね。この句は虚構の句なのかな。虚構であるがゆえに奥行きのある句になっているように感じるな。
華女 私も同感だわ。
句郎 『赤冊子』に「かげろふに俤つくれ石のうえ」と「丈六のかげろふ高し石の上」を「人にも吟じ聞かせて、自らも再吟有て、丈六の方に定まる也」と土芳は書いている。「かげろふに俤つくれ」が初案だったんだろう。この句では、句になっていないと芭蕉は感じたんじゃないのかな。「丈六に」で句になった。

醸楽庵だより  629号  咲き乱す桃の中より初桜(芭蕉)  白井一道

2018-01-23 15:22:57 | 日記

 咲き乱す桃の中より初桜  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「咲き乱す桃の中より初桜」。芭蕉45歳の時の句。
華女 分かりやすい句ね。
句郎 情景が目に浮ぶ嘱目吟なのかな。
華女 そう、写生句よね。
句郎 山本健吉は『純粋俳句』のなかで「すべての卓(すぐ)れた俳句作品は、たとえ表面においてあらわでなくとも、何か寓意的なものへ近付こうとする傾向を持っています。」とこのように述べている。
華女 寓意性のある句が名句だと山本健吉は言ってるのね。
句郎 「俳句の本質は象徴詩ではなく寓意詩である」とも言っている。
華女 人間世界の真実のようなものが寓意されているのか、どうかということが優れた俳句なのか、どうかということなのよね。そういう点から芭蕉のこの俳句を読むとどういうことが寓意されているのかしら。それとも寓意されなていない単なる写生にすぎないのかしら。
句郎 、桃の花と桜とを比べてみると桜の花は洗練されている。そんな感じがするでしょ。咲く乱れる桃の花の中に初桜を発見した時の驚き、喜びのようなものを芭蕉は詠んでいる。
華女 掃き溜めに鶴、泥中の蓮、このようなことを寓意していると句郎君は言いたいの。
句郎 「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」。『万葉集』にある大伴家持の歌として高校の古典の教科書にも載っている。この歌は富山に赴任していた家持の絶唱である。奈良時代の都は平城京、富山は都から遠くはなれた僻遠の地であった。その農村の娘に家持は美しさを発見した歌なんだ。桃の花とは、そのような花なんだ。
華女 確かに桜に比べて色も濃いし、野暮ったいといわれてもしょうがないかなとは思うわ。
句郎 無季俳句は諺のようなものになるだろうと山本健吉は『純粋俳句』の中で述べている。華女さんがいうようにこの句は「掃き溜めに鶴」というようなことを匂わすような句なのではないかと思っているんだ。
華女 そうなのかもしれない。でも「掃き溜めに鶴」とまでは言っていないのよね。桃の花の中に初桜を見つけた驚きよね。そのようなことを芭蕉は詠んでいるのよね。
句郎 最近、将棋界では15歳の中学生プロ棋士が活躍しているんだ。中学三年生のプロ棋士が名人に勝利したことがテレビニュースとして報道された。百五十人近くいるプロ棋士の中で抜きんでて人気を博している。並いるプロ棋士の中に目立った棋士を発見した喜びのようなことをも芭蕉のこの句は寓意していないかな。
華女 中学生プロ棋士に負けたプロ棋士は桃の花ということなのね。初桜が中学生プロ棋士ということ。
句郎 そのようなことを寓意していないかなと思ったんだけれど。
華女 「表面においてあらわでなくとも、何か寓意的なものへ近付こうとする傾向」のようなものが芭蕉のこの句にはあると句郎は考えているのね。
句郎 俳句は寓意詩だという山本健吉の主張に私は同意したいと考えているんだ。象徴詩ではない。文学とは、人間の真実を追求することだと考えているからね。