
おはようございます。
三十b また、『如来が説かれた果てしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、<はてしない宇宙>と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<全一体という執着>があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、<全一体という執着>と言われるのです。」
師は言われた―「スブーティよ、<全一体に対する執着>は、言葉では表現できないもの、口では言えないものだ。それはものではないし、<ものでないもの>でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。
三十b また、『如来が説かれた果てしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、<はてしない宇宙>と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<全一体という執着>があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、<全一体という執着>と言われるのです。」
師は言われた―「スブーティよ、<全一体に対する執着>は、言葉では表現できないもの、口では言えないものだ。それはものではないし、<ものでないもの>でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
頌69 世界を塵の粉末にするというのは、上述(の法界における仏身のあり方)を明らかにしようという比喩である。粉末にすることは、ここでは、煩悩の滅尽にたとえられている。
頌70 すなわち(三千大千世界は、原子の)"集合ではなく"また"一つの塊り"でもない(と説かれた)ことは、(法界における諸仏身が)同一性としてあることではないことに対する喩えである。しかもそこに、(粉末が)密集してあることは、別異性としてあるものでもないことに対する喩えである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)
頌69 世界を塵の粉末にするというのは、上述(の法界における仏身のあり方)を明らかにしようという比喩である。粉末にすることは、ここでは、煩悩の滅尽にたとえられている。
頌70 すなわち(三千大千世界は、原子の)"集合ではなく"また"一つの塊り"でもない(と説かれた)ことは、(法界における諸仏身が)同一性としてあることではないことに対する喩えである。しかもそこに、(粉末が)密集してあることは、別異性としてあるものでもないことに対する喩えである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)
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