藤原さくら「Martin Times:ギターにまつわる色んなこと」(2018年10月、4回分)
相場は錯覚の世界である(笑)
仕掛けた途端に含み損になってしまうと何か自分が監視されていて仕掛けるのを待たれていて仕掛けたらすかさず反対売買を仕掛けられているように思ってしまう。
もちろんこの投資家の思いは錯覚である。
単純に一人の投資家のために相場は動いているわけではない。
市場は自分の好き勝手に動くだけである。
そこに投資家側が勝手に自己解釈したり自己想像したりするだけの話である(笑)
すべて投資家の錯覚なのだが、この投資家は市場に翻弄されたと捉えてしまう。
何を考えようと自由なのだが、何を考えようとも、どんな行動をしても、出る結果は常にランダム、偶然である。
ここに気づかねばならない。
そして相場を張ることに関してあれこれ考えるのを止めることである。
これは非常に勇気のいることである。
覚悟がいることである。
多くの投資家たちは何か相場に関して先読みできる先見性が必要であり、そのためには様々な相場の知識や経済の知識が必要であると錯覚しているからである(笑)
そう相場に関しては何もかもが錯覚だらけなのである。
その中で生き残り続けている投資家というのは常に錯覚していない。
相場に対して常にニュートラル、中立的であり、楽観も悲観もしていない。
だからどれほど乱高下しようとも何も感じないし考えない。
市場とはそういうものであると深く認識しているからである。
まずは錯覚の世界に迷い込んでいるということを自覚しよう。
あなたは大いに相場で錯覚をしているのである。
あなたが考えていることは総じて錯覚である。
この銘柄がよいのではあの銘柄がよいのではこういう売買がああいう手法が、誰彼の言っていることが正しい間違っている、すべて相場においては錯覚である。
それが説得力あるもの、裏付けのある論理かどうかは関係ない。
事実として正しい。
論理として正しい。
世の中にはそういう事象はある。
しかし相場においてはないということを認識できるかどうか?
投資家の正否はすべてここに懸かっている。
私が述べた今日の文面、相場においては錯覚だと思いますか(笑)
翁の相場道より
仕掛けた途端に含み損になってしまうと何か自分が監視されていて仕掛けるのを待たれていて仕掛けたらすかさず反対売買を仕掛けられているように思ってしまう。
もちろんこの投資家の思いは錯覚である。
単純に一人の投資家のために相場は動いているわけではない。
市場は自分の好き勝手に動くだけである。
そこに投資家側が勝手に自己解釈したり自己想像したりするだけの話である(笑)
すべて投資家の錯覚なのだが、この投資家は市場に翻弄されたと捉えてしまう。
何を考えようと自由なのだが、何を考えようとも、どんな行動をしても、出る結果は常にランダム、偶然である。
ここに気づかねばならない。
そして相場を張ることに関してあれこれ考えるのを止めることである。
これは非常に勇気のいることである。
覚悟がいることである。
多くの投資家たちは何か相場に関して先読みできる先見性が必要であり、そのためには様々な相場の知識や経済の知識が必要であると錯覚しているからである(笑)
そう相場に関しては何もかもが錯覚だらけなのである。
その中で生き残り続けている投資家というのは常に錯覚していない。
相場に対して常にニュートラル、中立的であり、楽観も悲観もしていない。
だからどれほど乱高下しようとも何も感じないし考えない。
市場とはそういうものであると深く認識しているからである。
まずは錯覚の世界に迷い込んでいるということを自覚しよう。
あなたは大いに相場で錯覚をしているのである。
あなたが考えていることは総じて錯覚である。
この銘柄がよいのではあの銘柄がよいのではこういう売買がああいう手法が、誰彼の言っていることが正しい間違っている、すべて相場においては錯覚である。
それが説得力あるもの、裏付けのある論理かどうかは関係ない。
事実として正しい。
論理として正しい。
世の中にはそういう事象はある。
しかし相場においてはないということを認識できるかどうか?
投資家の正否はすべてここに懸かっている。
私が述べた今日の文面、相場においては錯覚だと思いますか(笑)
翁の相場道より