SHISHIRA

「憂きことの 尚この上に積もれかし 限りある身の力試さん」

亡き恩師の言葉が身に染みるこの頃。

2017年03月09日 | インポート
『極楽百年の修行は穢土一日の功徳に及ばず』

日蓮聖人の報恩抄に出ているこのおことばは、日蓮宗の信者であるならば知らない人はないほどに、有名であります。お経につづいて読む祖書の一節として、昔から繰り返し読まれたもので、ほとんど誰もが暗誦しています。極楽百年の修行は穢土一日の功徳に及ばず、とありますが、これは極楽百年の修行(の功徳)は穢土一日(の修行)の功徳に及ばず、という意味で、前後の、括弧中の文字を消略してありますから、補って読み下すと、意味がはっきりします。これは日蓮聖人のご文章の中にしばしば用いられている用語法で、文章をぐっと引きしめて言便をもよくしてあります。   
                                  
さて、この文章は、極楽のようにすべてが満ち足りて条件のそろっている状態のいい環境で積む百年の修行の功徳よりも、穢土というこの婆婆世界のように苦難多く、障害重なり、条件も悪い逆境にあって積む一日の修行の功徳の方が遙かに大きいものである、という意味であります。いろいろの困難に堪え、苦労を忍び、障害をのりこえて努める一日の修行の功徳は、すべてに恵まれてたやすくできる状況で積む青年の修行の功徳にまさるというこのお言葉は、苦難多い境遇においてこそ、さらにはげめとのお示しであります。    

実際に、私たちの周囲には何と意のままにならないことが多いことでしょう。一難去ってまた一難というように苦難はあとからあとからつづき、一つの障害をやっとのり越えれば、また新しい障害が立ちはだかるという工合で、安らかなる日などというものは、思いつめるとほとんどないといってもいいくらいです。悲しみや悩みに打ちひしがれて、人生に絶望してしまう人さえあります。困ること、心配になることで日々を暗く送っている人はどのくらいあることかしれません。じつとこらえるより他に方法がないため、泣く泣く歯をくいしばって耐えている人もすくなくありません。
                                                       
印度のことばで私たちの住む世界を婆婆といっていますが、忍土という意味だといわれています。忍ぶことなしには生きていけないところという意味です。すべてに不自由で、さしさわりの多い境遇では満ち足りた人のように、思いのままに修行することはむずかしいですが、この困難にたえてあえて努力するには、こもる心がよほど強くなければ果されないことは当然です。だからそういう逆境であえて修行をしょうとする心は尊く強いです。この心で積む修行なればこそ、功徳も大きく広くなるのもあたりまえです。漫然として一時間つづける読書よりも、わずかな暇をみつけて真剣に打ち込む十分問の読書の方が、どれだけ身になり、心の糧となるかしれません。                                                          
逆境を恐れてはなりません。不幸を悲しむのみでは無意味です。功業は多く窮苦の日になったことを知ってください。立派な仕事は苦難をのりこえてつくられたのです。最上の幸福は身をけずるほどの苦しみの中に築かれるものであります。 岩間日勇著『人生に光明を』



松山千春 「帰郷」



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