①『■■』(まいひめ)は、②■■■の短編小説。1890年(明治23年)、③『■■■■』に発表。
. . . 本文を読む
茶の湯の手帳
伊藤左千夫
一
茶の湯の趣味を、真に共に楽むべき友人が、只の一人でもよいからほしい、絵を楽む人歌を楽む人俳句を楽む人、其他種々なことを楽む人、世間にいくらでもあるが、真に茶を楽む人は実に少ない。絵や歌や俳句やで友を得るは何でもないが、茶の同趣味者に至っては遂に一人を得るに六つかしい。
勿論世間に茶の湯の宗匠というものはいくらもある。女子供や隠居老人などが、らちもなき手真似をやって居るものは、固より数限りなくある、乍併之れらが到底、真の茶趣味を談ずるに足らぬは云うまでもない、それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯というものは、貴族的のもので到底一般社会の遊事にはならぬというのと、一は茶事などというものは、頗る変哲なもの、殊更に形式的なもので、要するに非常識的のものであるとなせる等である、固より茶の湯の真趣味を寸分だも知らざる社会の臆断である、そうかと思えば世界大博覧会などのある時には、日本の古代美術品と云えば真先に茶器が持出される、巴理博覧会シカゴ博覧会にも皆茶室まで出品されて居る、其外内地で何か美術に関する展覧会などがあれば、某公某伯の蔵品必ず茶器が其一部を占めている位で、東洋の美術国という日本の古美術品も其実三分の一は茶器である、
然るにも係らず、徒に茶器を骨董的に弄ぶものはあっても、真に茶を楽む人の少ないは実に残念でならぬ、上流社会腐敗の声は、何時になったらば消えるであろうか、金銭を弄び下等の淫楽に耽るの外、被服頭髪の流行等極めて浅薄なる娯楽に目も又足らざるの観あるは、誠に嘆しき次第である、それに換うるにこれを以てせば、いかばかり家庭の品位を高め趣味的の娯楽が深からんに、躁狂卑俗蕩々として風を為せる、徒に華族と称し大臣と称す、彼等の趣味程度を見よ、焉ぞ華族たり大臣たる品位あらむだ。
. . . 本文を読む
①■■■■(さらしなにっき、さらしなのにき)は、②■■孝標女によって平安時代中ごろに書かれた日記。作者③■■歳の寛仁4年(1020年)から、④■■歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間の回想録。全1巻。
作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女で、母方の伯母に⑤■■■■の作者である藤原道綱母がいる。日記文学に列なるものの、製作形態としてはまとめて書かれたものであろうとされる。東国・上総(現在の千葉県)の国府に任官していた父とともに寛仁4年9月京の都(現在の京都市)へ帰国するところから起筆し、⑥■■■■を読みふけり、物語世界への憧憬に過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、三十代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった⑦■■への傾斜までが平明な文体で描かれている。
書名の「更級」は、⑧■■■■■の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」に由来する。逆に更級日記にちなんだものとして、千葉県市原市に「更級通り」がある。
. . . 本文を読む
なんの用意も無しに原稿用紙にむかった。こういうのを本当の随筆というのかも知れない。きょうは、六月十九日である。晴天である。私の生れた日は明治四十二年の六月十九日である。私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんとうの子でないと思い込んでいた事があった。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされているような気がしていた。容貌がまずかったので、一家のものから何かとかまわれ、それで次第にひがんだのかも知れない。蔵へはいって、いろいろ書きものを調べてみた事があった。何も発見出来なかった。むかしから私の家に出入している人たちに、こっそり聞いて廻ったこともある。その人たちは、大いに笑った。私がこの家で生れた日の事を、ちゃんと皆が知っていたのである。夕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊帳(かや)の中で生れました。ひどく安産でした。すぐに生れました。鼻の大きいお子でした。色々の事を、はっきりと教えてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかった。なんだか、がっかりした。自分の平凡な身の上が不満であった。
先日、未知の詩人から手紙をもらった。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、という手紙であった。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢えばきっとがっかりなさるでしょう。どうも、こわいのです。明治四十二年六月十九日生れの宿命を、あなたもご存じの事と思います。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割に素直に書けたと思った。
. . . 本文を読む
①■■が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂②■■時代に入り、③淨■宗、④■蓮宗、⑤■土眞宗、⑥時■、それに教外別傳の⑦禪■を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の⑧耶蘇紀■十■世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の⑨■■四十四年七月號に⑩「■■の■■改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある . . . 本文を読む