吹く風ネット

居合道

2003年1月7日

 『全日本剣道連盟居合道二段』
 履歴書や申告書の特技の欄に、いつもぼくはこれを書き入れている。初段を取ったのが中学3年の時、二段を取ったのは高校2年の時だった。
 知らない人のために言っておくが、居合道というのは、居合切りを競うものではない。真剣や模擬刀を使った『型』の修行である。
 競技会や昇段試験などでは、その型の善し悪しを評価する。その際、一番重視されるのが、刀の抜き方や納め方の技術だ。いくら型がうまくても、抜刀や納刀で手間取っていては評価が低くなる。
 ぼくが居合をやっていた頃は、壁の前30センチのところに立ち、そこですばやく刀を抜く練習をやっていた。また、手首にタオルを巻いて抜刀の練習をやったこともある。
 こんなふうに、一時は居合に情熱を傾けていた時期もあった。が、それも二段を取った頃には冷めてしまい、そのうち道場に行かなくなった。

 行かなくなった理由はいろいろある。
「道場に通うのが面倒くさくなった」
「学校の部活が忙しくなった」
「居合よりも、友だち付き合いのほうが大切になった」
 などであるが、もう一つの理由に、
「居合は実践向きではない」
 というのがある。ぼくが居合を始めたのは、通っていた柔道場の先生が居合も教えていたからで、
「武道だから、やってりゃ何かの役に立つはずだ」
 という程度の気持ちだった。まあ、やっていくうちに刀の扱い方に興味が出てきたわけだが、それも長続きはしなかった。
 当時ガラが悪いと言われていた黒崎地区で身を守るためには、居合では役に立たない。江戸時代ならともかく、実践で刀が使えるわけでもないんだし。素手で戦う場合は、やはり柔道か空手ということになる。それで柔道に専念することにしたのだ。

 ところが今になって、
「もう少し居合を続けていればよかった」と後悔するようになった。
 そもそも『型』というのは、実践のエッセンスだ。その反復練習で、実践が身に付くようになっているのだ。その理屈をぼくは知らなかった、いや知ろうとしなかった。つまりぼくは、『型』というのをなめていたわけだ。
 もしかしたら、その反復練習を続けていたら、身を守るための何かを発見し、それが新しい武道に繋がっていたかもしれない。そうなっていたら、ぼくは開祖だった。
 

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