吹く風ネット

あなたがほしい 後編(2005年2月27日付)

それから1時間ほどが過ぎた。
三人の会話が途絶えた。
しばらく沈黙が続いたあとに、一人が「ママ、今日は歌わせて」と言った。
ぼくたちが振り向くと、それは時々見かける女性だった。
ママはその女性にマイクを渡した。

三人は代わる代わる歌った。
そして、何曲か目に高橋真梨子の『for you・・・』が入った。
マイクを取ったのは、地味女だった。

歌はかなりうまかった。
周りも「うまい、うまい」と歓声を送っていた。
それで気分をよくしたのか、だんだん歌声は大きくなっていった。
ところが、歌っていくうちにだんだん怪しくなってきたのだ。
大きくなった歌声が、かすかに震えてきた。
そしてサビ、そう「あなたがほしい」のところにさしかかった時だった。
急に彼女の声が止まり、うつむいて「ああ…」と声を上げて泣き出したのだ。
それを見て、それまで歓声を上げていた人たちの声も止まった。
あたりはシーンとなった

もう歌えない。
演奏だけが空しく鳴り響いている。
二人は、彼女の背中をさすりながら、「ね、悪いことは言わないから…、もう忘れなさい」などと言っている。
地味女は、そのつど「うん、うん」とうなずいていた。
不倫女は彼女だったのだ。
見た目ではわからないものである。
彼女が泣いている間、すでにBGM化してしまった『for you・・・』が、ずっと流れていた。

その彼女がその後どうなったのかは知らない。
もしかしたら、その後もその相手と縁が切れず、今なおズルズルとした関係が続いているのかもしれない。
いや、一度不倫の癖がついた身だから、他の相手を見つけたのかもしれない。
しかし、そのことをママさんに聞くことはなかった。
なぜなら、次にその店に行った時には、ぼくはもうそのことを忘れていたからだ。
その後、そのことを思い出すこともなく、今に至ったわけである。
そのことを尋ねようとしても、もう店はなくなってしまっているから、どうしようもない。
ま、ぼくにとっては、どうでもいいことだから、別に知る必要もないのだが。

ところで、あの地味女は不倫相手の前でも、『for you・・・』を歌っていたのだろうか。
もしそうだったとしたら、相手の男はどういう反応をしただろうか。
寛容に受け止めただろうか?
それとも、引いてしまっただろうか?
ぼくがもしその男だったとしたら、どうだろう。
「あなーたがほしい」なんて、目の前でやられるわけだからねえ…。
きっと引いてしまうだろうなあ。
さらに目配せでもされた日には、怖くなって逃げ出すにちがいない。
だいたい「ほしい」などという言葉は、日本人にはそぐわないのだ。
人は物じゃないのだから。

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