2002年7月1日
最近小説を読んでない。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだのが一昨年だから、もう2年近く読んでいないことになる。
若い頃はいろいろな種類の小説を読んでいたが、30歳を過ぎた頃から歴史小説しか読まないようになってしまった。面白い小説があれば、ジャンルにこだわらずに読んでみたいと思っているのだが、どうも興味が歴史物にしかいかなくなったのだ。
歴史小説は、歴史の勉強になるというのがもちろんあるが、何よりもいいのが自分がその人になりきったり、その時代の中で遊んだりすることができるという点にある。
先にあげた『坂の上の雲』でいえば、203高地を攻めた時、乃木大将は作戦ミスから何万人もの兵隊を死なせているが、自分が乃木大将なら、もっと人を死なせないようなこういう作戦をとる、などと考えていた。
また江戸が舞台の小説などを読んでいると、自分がその時代に生きているような気分になる。
こんなふうだから、読む時間もけっこうかかる。人の倍はかかっているのかもしれない。
以前読んだ『項羽と劉邦』はたった3巻なのに2ヶ月の時間を要したものだった。この時も、「自分が劉邦なら・・・」という読み方をやっていた。「この時代の中国のトイレはどうなっていたんだろうか?」などと、余計なことも考えていた。
さて、ぼくが本を読み始めたそもそものきっかけは、大山倍達の自叙伝を読んだことにある。
その中に「人には一冊の本との出会いがある」というようなことが書いてあった。大山倍達にとっての一冊の本は、吉川英治の『宮本武蔵』だったという。
それを読んだ時ぼくは、「自分にとっての一冊の本とは何か?」と考えた。しかし、当時はそんなに本を読んでいなかったので、そういう本は存在しなかった。「じゃあこれから探してやろうじゃないか」と思い、ぼくの読書人生が始まった。
しかし、一冊の本はそうそう見つかるものではない。小説・ビジネス書・思想書・哲学書・宗教書・マンガと、ありとあらゆる本を読んだがその答は出てこない。読書を始めて10年ほどは、そんなことばかり意識して読書をしていた。
10年ほど前だったろうか、ある本を読んでいると、「人には一冊の本が備わっている」ということが書いてあった。それを読んでハタと思った。
「そうか、今まで一冊の本を探していたけど、自分にとっての一冊の本とは一生のうちに読む全部の本のことだ」
そういえば、ぼくは本を探す時、前に読んだ本で紹介されたものや、その本に関連あるものを探している。そう、全部繋がっているの だ。今日読む本が、「一冊の本」の中の一部というわけだ。
そのことを悟ってから、ぼくは「一冊の本」というのにこだわらずに、読書を楽しむようになった。しかし、ぼくの「一冊の本」というのは、実に膨大な量である。