足利市・しのだ歯科医院・院長のブログ

栃木県 足利市にある しのだ歯科医院です。
『痛くない、怖くない、楽しく通える歯医者』をめざして
がんばっています

祝 なでしこジャパンW杯優勝!

2011年07月18日 | Weblog
栃木県 足利市 歯医者 しのだ歯科医院 篠田です。

    
しのだ歯科では、現在、一緒に働いてくれる

     元気で明るい歯科衛生士さんを募集しています。

    お気軽に電話でお問い合わせください。


やりました!なでしこジャパン優勝!!!!

澤の同点ゴール素晴らしかった!

早起きして観た甲斐がありました!

一瞬、気を失ってる間に1対1になっていましたが

その後は、PKまでしっかり見届けました。

みんな頑張った!

アメリカも強かった!

きっと世界中の人達が『被災したにっぽんの人々』を応援してくれて

その心が今回、日本を優勝させてくれたのだと

思いました。

だから、最後のPKボールがゴールに突き刺さった時は

世界中の人に感謝の気持ちでいっぱいになって

思わず涙があふれてきました。


なでしこジャパンのみんなが日本に勇気を与えてくれました。

きっと、日本中のたくさんの人々が

『自分たちはできる』『自分たちはかならず立ち直れる』

と思ったに違いありません。

ありがとう なでしこジャパン!

『感謝』

なでしこジャパンW杯優勝。

2011年07月18日 | Weblog

知覧研修の報告

2011年07月14日 | Weblog
栃木県 足利市 歯医者 しのだ歯科医院 篠田です。

    
しのだ歯科では、現在、一緒に働いてくれる

     元気で明るい歯科衛生士さんを募集しています。

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去る7月6日7日に鹿児島の知覧に行ってきました。

『知覧研修~心の授業~』と題し
愛知県岡崎市にある『すまいる歯科』さんのお誘いで
愛知、大阪を中心に10医院31名が参加しました。

知覧には太平洋戦争中沖縄近くにまで迫ったアメリカ艦隊に
爆弾を積んで飛行機ごと体当たり攻撃をする「特攻隊」の
出撃基地がありました。

戦争とは自国の利益のためや自国を守るためなどの理由のもと
人と人とが殺し合うもので、決してあってはいけないものです。

しかし今から約60年前、一日一日戦況が不利になる状況でアメリカ軍の
日本本土への上陸をなんとしても防ぐため特攻というかたちで
自らの命を犠牲にし死んで逝った人たちがいたという事実があります。

知覧特攻平和会館にはそんな若くして出撃し帰らぬ人となった
隊員たちの遺書や遺品が展示してあります。

今回の研修は、その人たちがいったいどんな思いで死んで逝ったのか、
人の命とはいったいなんなのか、などをじっくり考えることができる
研修になりました。


三角兵舎

2011年07月14日 | Weblog
遺書には出撃前夜に両親や兄弟に宛てたものや恋人に宛てた
ものがありました。
隊員のほとんどが20代前半ですが、とてもしっかりした文章で
家族や祖国を思う気持ちはとても20代そこそこの人のものとは
思えないものでした。
そんな前途ある立派な若者が犠牲になったのかと思うと
それだけで涙があふれてきます。

また、復元された三角兵舎は、狭く暗い半地下式の建物で
隊員が出撃前の数日間、寝泊まりした場所です。
そこで写された隊員たちの顔はとても若々しくまだあどけない
笑顔です。
これが、明朝死にに行く人の顔かと思うほど優しい笑顔です。

三角兵舎

2011年07月14日 | Weblog

特攻の母

2011年07月14日 | Weblog
2時間ほど資料館を見学したのち、近くの茶屋の一間をお借りして
「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメのお孫さんである鳥濱明久さんから
明久さんが祖母トメさんから伝え聞いた話をお聴きすることができました。

その話の中には、資料館では決して知ることのできない隊員たちの
本当の声がありました。
当時、軍隊には検閲というものがありました。手紙や遺書も軍が一度目を通し
「よし」と認めたものしか届けることができませんでした。
当然、死ぬのが怖いとか悲しいとか行きたくないなんて書くことは
できなかったのです。まして、国や軍を批判することなどを書いたりしたら
取り上げられるか書き直させられます。
そんな検閲をくぐり抜けるため隊員たちは、本当の気持ちを書いた手紙を
当時知覧で食堂を営んでいたトメさんに託しました。

三角兵舎2

2011年07月14日 | Weblog
鳥濱明久さんの案内で実際に三角兵舎のあった三角兵舎跡地や
隊員たちが飛び立った飛行場だった場所の戦闘指揮所跡へも行きました。
三角兵舎跡地は、うっそうとした林の中にありました。研修当日は
小雨が降っていてまた林ということもあり薄暗くどことなく
寂しい感じがしました。
この場所で当時の隊員たちは出撃命令が下るまでの数日間、いったい
どんな想いで過ごしたのだろうと想像すると誰もが無口になっていました。

富屋旅館

2011年07月14日 | Weblog
その日は、トメさんのお孫さんが営む「富屋旅館」に泊まりました。
全員で夕食をいただき男性陣は宿の本館へ移るとなったとき、玄関先で
女将さんが言った一言が今でも忘れられません。

『みなさん、今晩が出撃の前夜だったとしたら

 明朝、特攻へ行くとしたら

 いったい何を考え床につきますか?』


さあ、これから飲み会だ と思っていた男性陣。
誰もが一瞬絶句して何も言えなくなってしまいました。
「とても重い問いかけですね、、、。」

押し黙ったままみんな部屋まで帰りました。


もし自分が同じ状況だったら何を考えただろうか?

家族のこと、母親のこと?

眠ることはできただろうか?

普通の精神状態でいられただろうか?

容易に想像することすらできませんでした。


振り返り

2011年07月14日 | Weblog
風呂から出たらみんなで集まって、その日一日の振り返りです。
自分が感じたことを言い合いました。

女将の話

2011年07月14日 | Weblog
そして翌日は、朝食をとった後女将から一時間ぐらい
私たちに問いかける形でいろんな話をしてくれました。



当時、特攻隊の隊員さんたちは二十歳そこそこで命を投げうって

愛する家族が住む日本という国を守ろうとした。

その亡くなった人たちが今の日本を見たらどう思うだろう?

自分たちが命をかけてまで守りたかった国は、こんな国だったんだろうか?



私たちが今住んでいる日本はとても豊かで恵まれた国です。

世界中にまだまだ貧しい国がたくさんある中で、日本は世界一

豊かで恵まれた国と言ってもいいでしょう。

食べるものにも困らず、電気、ガス、水道が整備されています。

電話、テレビ、冷蔵庫、自動車、パソコンなど文明社会の産物は

あらゆるものを手にすることが可能です。

治安もおそらく世界で一番なのではないでしょうか。

しかし、この豊かさ、便利さ、安全にあぐらをかいて

当たり前のことのように思ってしまってはいないでしょうか?

世界のどこかでは、食べ物がなくたくさんの子どもたちが餓死しています。

それなのに、日本では平気で食べ物を残し無駄にして捨てています。

子どもたちは礼儀作法を忘れ、お年寄りを敬うことさえも忘れてしまいました。

感謝することを忘れすべてがあって当たり前。

そしてそれが少しでも不足すると不平不満を口にしまくります。

ものは豊かなのに住んでる人の心はとても貧しい気がします。

私たちが住んでいるこの国は、子どもたちが住んでいる豊かで恵まれた

この国は、私達や子どもたちが造ったのでしょうか?

いいえ違います。

今、この日本が平和で豊かなのは間違いなく、むかし日本を守ろうとして

亡くなられた方々がいたからです。

戦後の焼け野原の中、食べるものもろくにない中、外国人から、はたらき蜂と

揶揄されながら一生懸命頑張って働いた父や母の世代の人たちがいたからです。

その人たちは本当に今のこんな日本を造りたかったのだろうか?

こんな国を守るために死んでいったのでしょうか?



  『では、 今私たちは何をしなければならないのか?』


今回の知覧研修は、こんなことに気づかせてくれる旅になりました。



60年ほど前に、もっと生きたくても生きることが許されなかった人たちがいました。

今私たちにある命は決して自分の力で得たものではありません。

きっと天から与えられたものなのです。



  
  『天から与えられたこの命を、あなたはいったい何につかいますか?』