夜、海を背にして浜に坊様が立っていた。雨は夕方までに上がり、坊様は湿った砂に錫杖を突き立て、首に掛けるような大きくて幾つか珠の欠けた数珠を袂から取り出して右手に持っている。雨が上がったとは言え、空は曇っており星も月も見えない。寄せては返す波の音が、まるで海の呼吸の様に途切れることなく続いている。それに重ねるように坊様の低い声の念仏が始まった。念仏は波に乗り、また、沖からの風に乗り、四方へこだまするように響く。
「おやめよ!」
声がした。瞑目していた坊様が声の聞こえた方に顔を向けた。
洗い髪を逆立て、目尻の吊り上った、着物の前が大きく肌蹴た姿のおてるが現われていた。陰鬱な黒い邪気を纏い、短いが先端の鋭く尖った角が頭に見えている。
「ほう、依童が無くとも現われおるとは……」坊様は笑った。「成仏に来たか、はたまた、文句を言いに来たのかの」
「文句に決まってんだろ!」おてるの双眼が赤く燃える。「言っただろう! この村の連中を喰らい尽くしてやるってさ! 今の連中も、これから先の孫子の代までも!」
「お前はすでに一人を、藤吉を怨みの心で呪い殺しておる。権二も今少しで呪い殺されるところじゃった」
「それが何だってんだい!」
おてるは怒鳴る。口が左右耳元まで裂け、上下に並んだ牙が剥き出しになった。おてるの呼気から腐臭が流れてくる。鬼に成りかけている。
「これこれ、そう荒ぶるな」坊様は穏やかに言う。「本来ならば、一人でも呪い殺せば、即、地獄堕ちじゃ」
「だから何だ?」おてるの声が男のように低くなった。荒々しく、地の底から響いてくるようだ。「鬼となるは本望じゃ!」
「だがの、まだ鬼になっておらん。地獄にも堕ちておらん」坊様はにやりと笑う。「何故だと思うね?」
「鬼が味方をしておるのじゃ!」おてるは吐き捨てるように言う。「村を喰らい尽くせと力を貸してくれておるのじゃ!」
「ははは……」坊様は笑った。しかし、すぐに烈火の形相に変わった。「この大たわけめが!」
坊様は一喝すると、手にした数珠で錫杖を叩いた。割れた珠が幾つか浜辺に散った。
「鬼どもが力など貸そうはずが無かろうか! 鬼はの、お前の苦悩をただ笑って見ておるだけじゃわい!」
「じゃあ、何があると言うのだ?」
「まだ鬼に成りきらぬその頭で、考えてみるのじゃ!」
「我を誑かそうと言う魂胆か! 坊主の戯言など聞く耳持たぬわ!」
「本当にねじれてしまったようじゃのう……」坊様は嘆息する。「良いか、お前を鬼にさせておらんのはな、慈愛じゃ」
つづく
「おやめよ!」
声がした。瞑目していた坊様が声の聞こえた方に顔を向けた。
洗い髪を逆立て、目尻の吊り上った、着物の前が大きく肌蹴た姿のおてるが現われていた。陰鬱な黒い邪気を纏い、短いが先端の鋭く尖った角が頭に見えている。
「ほう、依童が無くとも現われおるとは……」坊様は笑った。「成仏に来たか、はたまた、文句を言いに来たのかの」
「文句に決まってんだろ!」おてるの双眼が赤く燃える。「言っただろう! この村の連中を喰らい尽くしてやるってさ! 今の連中も、これから先の孫子の代までも!」
「お前はすでに一人を、藤吉を怨みの心で呪い殺しておる。権二も今少しで呪い殺されるところじゃった」
「それが何だってんだい!」
おてるは怒鳴る。口が左右耳元まで裂け、上下に並んだ牙が剥き出しになった。おてるの呼気から腐臭が流れてくる。鬼に成りかけている。
「これこれ、そう荒ぶるな」坊様は穏やかに言う。「本来ならば、一人でも呪い殺せば、即、地獄堕ちじゃ」
「だから何だ?」おてるの声が男のように低くなった。荒々しく、地の底から響いてくるようだ。「鬼となるは本望じゃ!」
「だがの、まだ鬼になっておらん。地獄にも堕ちておらん」坊様はにやりと笑う。「何故だと思うね?」
「鬼が味方をしておるのじゃ!」おてるは吐き捨てるように言う。「村を喰らい尽くせと力を貸してくれておるのじゃ!」
「ははは……」坊様は笑った。しかし、すぐに烈火の形相に変わった。「この大たわけめが!」
坊様は一喝すると、手にした数珠で錫杖を叩いた。割れた珠が幾つか浜辺に散った。
「鬼どもが力など貸そうはずが無かろうか! 鬼はの、お前の苦悩をただ笑って見ておるだけじゃわい!」
「じゃあ、何があると言うのだ?」
「まだ鬼に成りきらぬその頭で、考えてみるのじゃ!」
「我を誑かそうと言う魂胆か! 坊主の戯言など聞く耳持たぬわ!」
「本当にねじれてしまったようじゃのう……」坊様は嘆息する。「良いか、お前を鬼にさせておらんのはな、慈愛じゃ」
つづく
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