柴ノート

感じたことを書き留めたり、考えをまとめようとするのに使っていきたいと思います。

ファシズムについて

2016-08-28 21:54:27 | 日記
ものごころついた頃から、「ファシズム=第二次大戦下におけるイタリアのムッソリーニ首相による独裁恐怖政治=悪」という構図があたりまえのこととして刷り込まれ、その後長い間深く勉強もせずにいた。
4年前に佐藤優の書いた「人間の叡智」という本で、「ファシズムの悪魔祓いをし、その価値を再評価すべき」との論に出会った。随分思い切った事を言うものだと驚いたが、言っていることの筋道は理解できた。要するに「みんなで頑張ろうよ」という方向性だ。
よくよく考えてみると、企業活動においては、誤解を恐れずに言えばファシズムが最強であり、スタンダードであるとさえ言える。トップが方向性を決め、それを達成するためにみんなが頑張る、ということである。強い企業、成長している企業では普通に見られる姿ではないだろうか。業種にもよるかもしれないが、「民意」によって方針を決めたり、各人が自由に行動するような会社が競争に勝つのは難しい。

ではこの「みんなで頑張ろうよ」という集団はどのようにして生まれるのだろうか。いくつかの必要条件があるように思う。ひとつは明確なビジョン。大義と言い換えてもよい。個人の利害を超えた目指すべき理想の存在が、本来隣人同士で差をつけあおうとする存在でもある人間個人の集合体を「結束」させてくれる。もうひとつは(仮想)外敵の存在。生き残るためには、個人で戦うより、力を合わせた方が有利であるとの合理性が働く。ここまでは誰もが頷いてくれるのではないだろうか。
もうひとつ追加したいのは、そしてこれが私自身の最近の発見でもあるのだが、参加者ひとりひとりの「社会的地位上昇への期待感」の存在である。創生期の創価学会は、個人の「勤行」の成果を組織としての「座談会」の場で励まし合うという活動を基本とし、「折伏(しゃくぶく)大行進」と言われる信者総がかりでのイケイケの勧誘活動を行うことによってその礎を築いたそうである。まさしくファシズムによって組織を活性化させた典型的な事例と言えるのではないだろうか。日蓮宗の流れを汲んでいるため、現世利益という明確なビジョンと、他宗派の排除という「(仮想)外敵」を意識せざるをえない教義を持っていたことはもちろんだが、もうひとつ、社会の比較的下層に位置する人々をひきつけ、彼らに社会的上昇の機会を与えたことが、創価学会躍進の一大要因になったというのである。
改めて考えてみると、宗教改革の時にプロテスタントが広まったのは、それまで特権階級層にしか読めなかった聖書を翻訳によって大衆層に開放したのが大きかったと言われているし、浄土真宗が広まったのは、念仏を唱えれば誰もが救われるというシンプルな教義が、それまで仏教の世界から排斥されていた農民層に受けたためであると考えられるし、IS等の過激派は、現実社会に不満を持つ層を取り込むことにより、人間本来的には実行が難しいはずの残忍な行為を行う集団としての体制を保ち続けている。
ベンチャー企業の立ち上げや企業再生の現場でも、この考え方を活かした手法が普通に取り入れられていることに気づく。これまでの支配層の「否定」や「排除」から始まり、現場レベルで意欲的な人材を見つけ、彼らとのコミュニケーションを積極的に取りながら、やがては彼らを抜粋して引き上げていくという一連の流れである。
「社会的地位向上への期待感」が組織の「ファシズム化」に効果的であることはどうやら間違いなさそうである。でもそもそも、「ファシズムを活用した組織活性化」や「その時に社会的地位向上への期待感を持たせること」を肯定してしまって良いのだろうか?

現時点での私の答は、条件付きで肯定、むしろ推進すべき、である。企業や非営利団体等の「出入り自由」な集団においては、「みんなで頑張ろうよ」という雰囲気は、その集団の中で役割や意義を見いだせる人にとっては生産性を高め、その人にとっての生きがいを感じさせるものであり、そうでない人にとっては「その集団から出て行き、自分に合った集団を見つける」という行動の選択を促すものだと思うからである。 様々な価値感や性格を持った集団の中から、人間ひとりひとりが自分の役割や意義が見出せる場所を見つけてそこに所属し、その中で最高のパフォーマンスを発揮すべく努力し、それらの集団の集合体が社会を形成する、という構造である。ドラッカーは、著書「マネジメント」の中で「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」と述べており、全体主義に対する見解としては正反対でありながらも、何か通じるものがあるように思う。

では上記を肯定、推進する上で守るべき条件とは何だろうか。
ひとつは、「出入りの不自由な集団でファシズムを適応してはならない」ということである。自分の所属する集団についていけなくなったにも関わらず、その中に留まり、頑張ることを無理強いされ、それに従うことは、自らの人間性を抹殺することに他ならない。国はもちろんのことだが、学校や地域社会、さらにはカルト宗教の教団等がこれに当てはまるだろう。注意すべきは企業等の「職場」である。日本には職業選択の自由があり、ひと昔前より「出入りの自由」は進んでいるようだが、一方で非正規雇用拡大の流れの中で、かえって退出への恐怖感が増大している面もある。自分の属する職場の外側に「セーフティネット」の存在が感じられるような社会にしなければ、集団への適応障害者にとって、職場もまた終わりのない苦行を強いられるだけの「牢獄」になり得るだろう。
もうひとつは、「社会的地位向上への期待感を作り出す時に、相対的落伍者に対する公平さと温かさを欠いてはならない」ということである。いわゆる「見せしめ」などは、被害者を傷つけるだけでなく、その集団に残った人に「恐怖」を与え、人間の理性的な活動を抑制する元凶となるものであり、絶対に避けるべきである。そういう人たちをどう扱うか、ということが、集団にとって本当に重要な問題のひとつであり、リーダーの真価が問われる局面になり得るだろう。

東京のローカル・コミュニティ

2016-08-10 16:18:50 | 日記
地域のコミュニティが危機に瀕している、という声が聞かれて久しい。
過疎化が進む地方においては、人と人との繋がり、という点では比較的維持されているようであり、むしろ経済面での問題を解決する必要がある。(この点、藻谷浩介・NHK広島取材班著『里山資本主義』で示された形が、まだまだ不完全ではあるのであろうが、ひとつのモデルになりうるのではないかとの期待を持っている)
一方で、人口の流動化が進む都市部において、地域社会の空洞化が目立ってきているようであり、NHKクローズアップ現代+においても2015年秋に「町内会が消える?~どうする地域の繋がり~」として特集された。
今後もしも、さらに流動化が進み、行き過ぎた資本主義によって貧富の格差が拡大し、グローバル化による多様化(ただし、私自身は多様化そのものが悪いことだとは思っていない)が進んだ場合、地域コミュニティが機能しない状態で、社会の荒廃を防ぐことができるのか。昨今におけるIS等のテロリストが発生する構造的な問題や、米国でのサンディ・スプリングス市の分離独立による残された自治体の財政難などに思いを致すと、危機感を感じずにはいられない。
そうした中で出会ったのが本書である。

玉野和志著『東京のローカル・コミュニティ ある町の物語 一九〇〇―八〇』

社会学者によって書かれた、東京の「とある町」の変遷史である。単行本約300ページの中に、文字と図表がみっちり並べられており、なかなかのボリュームである。地域に密着した形で長期間にわたって実施された調査から得られたデータの積み重ねと、そこから論理的に導き出されるその時々における社会の構造や因果関係、各集団の相互関係などを明らかにする構成を取っており、著者が本書を「モノグラフ(=調査・分析レポート)」として位置付けているのも頷ける。ただし、一般の読者を意識して、全体が小説風の物語として描かれていて分かりやすいのと、随所に掲載された住民たちの生の声が「物語」の臨場感を高めてくれるので、意外と読みやすい。

物語の構成は以下の四つ:
① 震災後、戦前から戦後にかけてこの町に入ってきた自営業者層を中心とした町内社会と町内会体制の成立(=戦後日本の地域社会の原型として)。
② 新しい祭礼をつくりあげる過程を通じての町内社会という枠組みの継承。
③ 戦後この町に地方から流入してきた女性たちによる子どもたちのための施設建設請願運動。
④ 創価学会に結集した人々による「もうひとつの地域」の形成と溶解。

良書にはよくあることだが、読み進める中で、日頃ぼんやり感じていたことが明解になったり、これまで気付かなかった新しい視点を与えられ、刺激を受ける場面が数多くあった。抜粋して備忘録として本文末に残しておきたい。
全体を通じて特に印象に残ったのは、その時々において「この町」を形づくる登場人物たちの動きの根拠の大半を、彼らの「社会的地位(の上下)」に帰結させていることである。著者の個性なのか、社会学における常識なのかは現時点では分らないが、人間に対して合理主義的・現実主義的なものの見方が貫かれているのを感じた。
もうひとつ感じたのは、著者の「熱量」と「視線の温かさ」である。モノグラフであるとわざわざ宣言している通り、分かりやすくはあるものの、話の筋道は一見論理的・客観的である。が、ところどころ、論理展開や言い回しなどから著者自身の主義・主張が確かな熱量を持って漏れ出てくる箇所があり、膨大な調査量を伴う研究をまとめあげたエネルギーの源泉を見るようで、胸に迫るものがあった。こちらについても備忘録の中で併せて書き留めておきたい。また、地域社会全体の動向を解き明かそうとするある種マクロ的な視点をベースとしながらも、そこに住む人ひとりひとりに寄り添った視線が感じられたことも心に残った。

<以下、備忘録>

このような状況の中で、この町が七〇年代まで維持してきたコミュニティの社会構造がどのように変化していくのか、そしてそのことがどのように評価されるべきことなのか、実はそのことの方がきわめて重大でより切迫した現代的な課題である。しかしながらそのことに取り組む前に、まずはそれまでの構造がどのように成立し、展開してきたのかを是非とも知っておかなければならない。それは近代の都市化の過程で、都市のローカル・コミュニティがどのような社会生活を生み出してきたのかということでもある。そして、そのことの正しい理解と評価をふまえて、これからの新しい段階――それがモダンか、ポストモダンかはおくとして――における都市のあり方をわれわれは模索していくべきなのである。(P17)

しかし、長男や次男までならば実家に資本を出してもらえただろうが、自分には何もなかったので工場につとめに出たという言葉や、敗戦後、工場をもつまで住まわせてもらった長男の家で大変辛い思いをしたという言葉からは、生まれた順番や財産の有る無しにかかわらず、自分ひとりの裁量と努力で目に見える出世を勝ち取っていける軍隊のシステムは、彼にとっては徹底した業績主義という点ではむしろ平等な機会を提供してくれるものであったことがわかる。この意味で本来軍隊は身分的な差別を無効化するものである。高杉晋作の奇兵隊が良い例であろう。また戦闘における強固な共同の意思を確保しうる正当で納得できる決定を保障するために、戦争をめぐる決定はときとして民主的ですらありうる。ギリシャのポリスが良い例であろう。もちろん軍隊にはこれと正反対な側面も強いのであるが、少なくとも現実の社会で十分には尊重されなかった人々にとって、軍隊がこのような世界として生きられていたことは注目に値する。もちろん日本の軍隊にはこれらの原理が徹底しないおかしな側面もあったわけで、この人も「学歴で出世が違うとこだけは納得できなかった」とわざわざ断っている。(P44)

軍隊経験というと、理不尽な暴力と非人間的な上下関係が強調されることが多いが、それらはいずれも学徒出陣などの高学歴の人々や戦後文筆の機会をもった知識人が流布したものであることに気をつける必要がある。彼らは現実の社会においては十分に尊重される存在であったからこそ、暴力が支配する軍隊が理不尽に見えたのである。現実の世界で学歴や生まれによって軽んじられていた人々にとっては、むしろ軍隊こそが自分たちを平等に扱ってくれる場所として経験されたのである。
いずれにせよ、ある特定の空間でいったん平等に扱われるようになった人間は、おおげさにいえば、人間としての尊厳にめざめ、自信を深める。やがてそれは他の空間にも押し広げられていくのである。軍隊でその能力を発揮し、認められたこの人物は、やがてこの町においても地主たちやサラリーマン層を相手に、独特の存在感を示しはじめる。(P45)

「町内社会」とは、町内を単位とした人と人との社会的交流の世界である。町内とは実は町内会の範域を意味する。この区域はすでに述べたように戦中の町内会整備によってほぼ確定されたものである。この空間的な枠組みの中に社会的な交流を認めるのは、そこに住居を定めているすべての住民では決してない。むしろそのような単位をあまり重視しない人の方が多いだろう。サラリーマン層はその最たるものである。彼らの多くにとってそのような空間的範囲は何の意味もない。むしろ職場を中心とした人と人との社会的つながりの方が身近であろう。したがって、町内社会はその町に長く住んできた家族やその成員、その町に独特の思い入れや利害を持つ人々だけから構成されている。具体的には旧来からの地主や自営の商店主などがそうである。町工場の工場主もすべてが町内に関心を示すとは限らない。しかもそのような人々も、その社会的交流の範囲を町内会の範域に求める必然性はない。事実、もう少し広い範囲に地域的に広がっているのが普通である。ところが、さまざまな歴史的事情から、町内会の範囲が社会的単位としてそれなりの意味を持つものとしてその成員によって認められているとき、これを町内社会とよぶことにする。したがって、これはあくまで実際に交流し合っている当事者たちの視点から、そこに成立している社会的世界のあり様について述べようとする概念である。あくまで人々が寄り集まって町内という空間的枠組にもとづいて互いに交流しているという事実を示しているだけであって、なぜ町内会の範囲が特別の意味をもつかについては、何も説明してくれない。
それを説明するのが、「町内会体制」である。町内会体制とは町内会という地域住民組織を、事実上地域住民の総意を代表する特別の民間団体として認めたうえで、地方自治体の行政がそれを前提とする仕組みを整備することで歴史的に維持してきた社会的な制度である。いうまでもなく戦前から戦中にかけて徐々に整備され、占領期にはいったん廃止されるが、その後も着実に定着していった仕組みである。決して法的な根拠が整えられているわけではなく、多くは慣習的なものなので、社会的な制度というべきものである。
町内会体制は、町内会が多くの住民によって認められ、実際にある程度の住民を組織しているという事実があって初めて成立する。したがって町内社会の存在にその根拠を置いている。と同時に、町内社会がなぜ町内会の範囲に特別の意味を認めなければならないかを説明するのは、この町内会体制の存在に他ならない。両者は互いに密接に関係しながら歴史的に成立してきた。にもかかわらず、両者を区別することは重要である。なぜなら、この二つを区別して初めて公共性にもとづく権力の作用と地域に展開する人々の共同のあり方を、どちらかに解消することなく理解する道が開けるからである。そして、この点における統治や自治のあり様や地域における社会的な統合形態の変化こそが、この町で歴史的に起こってきたことなのである。(P62~P64)

常にそこに存在していたのは、公的な要請に応じるだけの意欲wもった一部の住民たちの社会的なつながり――すなわち町内社会――だけである。町内社会のメンバーがそのような意欲をもつに至ったのは、そのことで彼らの存在が公的に認められ、それがある種の社会的上昇として経験されたからである。没落した地主の家に生まれ、戦後は自宅の敷地内で町工場を始めた人物は、このことを次のように語っている。
「町会長として行政の会合に出ていったりしていると、学問のない自分には何もかにもが勉強になるんですよ。ですから、授業料を払うつもりで、いろんな役職を引き受けたり、町のことにも尽力してきました。」(P65)

ここではそれらのうち、戦前から戦後のまもない時期までに定着した家族に育った、この町生まれでこの町育ちの世代に属する人々によって担われた活動について紹介する。それは大人の担ぐ神輿を中心としたまったく新しい形態の祭礼である。今ではすっかりこの町の年中行事として定着した観のあるこの「二社祭り」は、実はこの時期から徐々に形式を整えていったこの町の新しい祭礼なのである。二つの神社の区域をまたいで、いくつかの神輿が練り歩くこおイベントは当初、戦後までに移住・定着した自営業者の二代目層が中心になって、親世代の町会に反旗を翻すかたちで始まったものである。それは親世代がつくり出した町会を中心とした秩序を前提としつつも、そこに何かを付け加えたいという新しい世代のアイデンティティをかけた取り組みであった。
そして、やがて彼らの試みは想像以上の成功をおさめ、その成果は誰もが認めるところとなる。そうすると彼らの功績は親世代も含めた町内社会の中に受け入れられていき、今度はむしろ彼らこそがその正統な後継者として扱われるようになっていく。(P71~P72)

まず、従業上の地位別にこの町生まれか否かと神輿会への参加の関連を見た場合、雇用者であっても事業者であっても、この町生まれの人がより神輿会に参加している傾向に変わりはない。逆に、この町生まれの人とそうでない人とで従業上の地位と神輿会への参加の関連を見た場合、興味深い結果が出る。従業上の地位による違いは、この町生まれでない人には残るが、この町生まれの人ではもはやなくなってしまうのである。すなわち、神輿会にはまずこの町生まれの人が参加する傾向にあり、この町生まれでない人の場合は自営業者や会社経営者がより参加する傾向が高いということである。
それでは、職種の影響はどうであろうか。上記二つの要因の影響が強いため、職種の影響は限られている。つまりこの町生まれでない人で、かつ自営業や会社経営など一般の雇用者ではない人の場合、事務職よりも現業職に従事する人の方が神輿会に参加することが多いのである。たとえば、不動産業などよりも建設業や工務店を営む人の方が神輿会に参加しやすいということである。(P109~P110)

この町に生まれ、この町で育った最初の世代である彼らが、自分たちの町に自分たちで創り上げた祭りと言う新しい「伝統」を根づかせようとした背景には、特定の地域に累積した自分たちの営みを、世代的に引き継ぐことで、より長い歴史の歩みに重ね合わせていきたいという気持ちからであったと考えられる。それはこれまで自分たちが築き上げてきた社会的営みを空間的に固着させることで、より多くの世代にわたる社会的な世界の中に位置づけ直していくという試みであった。彼らはそれを端的に「歴史を創る」と表現している。そうすることで、この町に自分たちが生きた証しを刻もうとしたのである。それを彼らは「子どもたちに自分の町にはこの祭りがあると思わせてやりたい」とも表現している。
それはいわば、ある一定の人口が特定の土地・空間で世代的に再生産されていく見込みをもつならば、必ずや生じてくる社会的な現象である。日本の近代における都市化の過程において、この町で住民が世代的に再生産される見込みが初めて現れたのが、実はこの七〇年代以降の時代だったのである。(P114~P115)

このようにその内実にはかなりの隔たりがあったとしても、子育てをめぐる困難という点では共通の問題が広く存在していた時代であった。とりわけ核家族化が進み、きょうだいの数も減ることで家族自体のもつ教育機能が低下するとともに、地域社会の方も都市化による変動によってそれを代替できるようなものではなくなっていった。また同時に都市化は、子どもたちが自ら異年齢集団を組織し、自治的な教育力をもてるような広場などの地域の生活環境それ自体を失わせていくことにもなったのである。
このように子どもの教育環境が急激に変化する中で、それらの問題を一身に背負わされたのが、その頃に初めて支配的なものとして成立しはじめていた専業主婦であり、孤立した核家族における母親たちだった。戦前の大正期以降の都市化によって現れた労働者家族においては多くが共働き世帯であり、専業主婦は支配的ではなかったし、戦後の高度成長期までの農家をはじめとした自営業世帯が多かった時代までは主婦も一家の働き手として子育てに専念できる存在ではなかった。七〇年代以降の大都市近郊の住宅地において、都市ホワイトカラー世帯を中心にして、もっぱら家事と育児に専念できる条件をもった主婦層が大量現象として初めて現れたわけである。もちろん他方には商店街や町工場の自営業世帯や共働きの労働者世帯のように家族による養育が困難な状況は継続し、保育所をはじめとした社会的な対応を必要とする事情も並存したが、他方にはもっぱら子育てに責任をもつ存在として期待されてしまう母親たちが成立したのである。その結果、彼女たちには過重な負担と責任が負わされることになる。本来、子育てをめぐる家族の機能低下や地域の生活環境・社会関係の変化は広く社会的な対応を必要とする出来事であった。事実、その後はそのような対応が学校や行政を中心に行われるようになる。ところが、七〇年代から八〇年代の初めの頃までは、このような子育てをめぐる社会的な困難はすべて女性の手に委ねられることになった。しかも、その女性たち自身の多くが遠方から移住し、家族や親族の援助もなく、ひとり子どもと向き合わなければならなかったのである。
この章で詳しく紹介する母親たちの物語が、このような歴史的状況のもとでのことであったことを断っておきたい。その後の状況の変化は無視できないものがある。彼女たちが直面していた状況のいくつかはやがて改善されたり、自然とその意義を失っていった。しかし子どもの教育という点での困難は現在もまだ続いているばかりか、むしろ深刻さの度合いを増している。この時代の彼女たちの挑戦にそのままでは現在に通じないものがあることは確かだが、ある意味では現在でもまだ必要とされている普遍的な側面がある点を見逃すべきではない。さらにこの時代の母親たちの挑戦が正当に評価されていたならば、現状はいささか変わっていたのかもしれない。彼女たちの挑戦とは別に、その後社会的に行われていった対応のあり方が、その後の子どもたちの問題の表れ方を規定しているようにも思える。いずれにせよ、そのような分岐点を準備することになったのが、七〇年代後半からこの町も含んで広く社会問題となっていった校内暴力というかたちで表れた少年非行の問題であった。
(中略)
ここで活躍するお母さんたちはちょうど校内暴力が問題になり始めた頃に小学生の子どもを持っていて、その危機感もあって地域での子どもの活動を始めるようになる。やがてそのような活動を通じて、学校で目を付けられているような中学生(お母さんのひとりは彼らのことをある親しみを込めて「ワル中ボー」とよぶ)とも直接の交流をもつようになる。
ここでは以下に述べる母親たちの活動の背景に、すでに述べたような子育てをめぐる困難という共通の課題があったこと、それを生み出した地域の歴史的状況とも関連しながら、その当時校内暴力に代表される青少年非行が社会問題化していたこと、この二つを確認しておきたい。以下に述べるこの町の母親たちの挑戦は第一の点での困難を一手に引き受けて、第二の側面の解決をも含めたひとつの展望を示したものであったと、私は高く評価したい。
しかし、校内暴力という形で現れた社会問題への大方の対応は、これとは別の道を歩むことになる。校内暴力で荒れた公立の中学校を避けて、多くの親たちはそれなりの水準にあり、似たような子どもたちが集まる私立の中学校を受験させるという選択を行っていく。この延長線上に、現在では公立の学校すらも自由選択制にという動きが強まっている。さらにより重大なこととして、校内暴力をめぐる学校側の対応において、戦後教育の理念にもとづいて子どもの人権を尊重しようとする組合寄りの教員が、総体としては十分な対応ができなかったという事実があげられる。その結果、教育は基本的に強制をともなうものであり、個人の自由や平等を一方的に強調するのは有害であるという主張をもった「プロ教師の会」などの動きが台頭してくる。そこからすべてを戦後教育に帰責し、教育基本法を改正すべきだとする議論やいわゆる「自虐史観」などの歴史教育や教科書をめぐる議論が展開してきていることに注意すべきである。
この意味で、この時期の、この町で起こった母親たちの物語は、戦後の民主化と民主教育の質を問うものであり、その後の日本社会の転換を考えさせるものなのである。(P125~P128)

このような背景があったせいか、ここで問題にしているような状況にたいして、この自治体ではいち早く教育委員会の社会教育の分野から、何らかの対処を求める動きが生まれてくる。六八年から七五年にかけて首長から社会教育委員にたいして、立て続けに社会教育関係の施策整備に関する検討を求める諮問がなされる。これを受けて出された一連の答申では住民の自発的な活動を支援するために、拠点施設を計画的に整備していくことが提案され、またそこには社会教育主事などの専門家が配置されるべきことが提起されていた。つまり都市化によって生じてきた地域社会の諸問題を、自発的な住民活動を専門的に援助することを通して解決していこうとする方向が打ち出されていたのである。
これは、当時さまざまな形で展開していた住民運動を意識したものであった。ある答申の中には東京都の社会教育委員会議による『東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方』における次のような一節が引用されている。
「市民運動の過程に現れるであろう、政治的素養や科学的・客観的知識への学習要求に対しても、行政がこれに応じて十分な保障を果たすべきであることはいうまでもない。」
その上で、次のように論じられている。
「住民運動を正しく進めようとするとき、必然的に、その問題に関連した事柄を学ばなければならなくなる……このような学習を通じて、客観的知識と、広い立場にたつ社会的認識を獲得し、運動を正しく導くことができる。住民運動が、ときには、行政関係者を困惑させることがあっても、それによって国民、住民の社会的理解を伸長させ、民主主義の基礎を形成していくことになる。住民運動はこのようなものとして受けとめられなければならないであろう……社会教育行政が……住民運動にともなう学習活動に対しても門戸を開き、その保障の道を講じるべきである。」
これはまさに当時の革新自治体が標榜していた「住民の参加」と「科学的な行政」によって「憲法を実現する」という方向と軌を一にするものである。住民自らが学習することを通して、科学的に最適な結論に達することができるという、ある意味では素朴な科学主義と民主主義への信頼が表明されている。この時代がよかれあしかれ戦後民主主義の理念が初めて実直に追求された時代であったことを確認しておきたい。(P129~P131)

ただし、この後にこの人は「色じかけで町会長を籠絡した」と陰口をいわれることになる。当時、町会長に三〇代のただの主婦が直接面会するというのは、かなり異例なことだったようで、長い年月をかけてようやく町内でその存在を認められるようになってきた多くの住民にとって、ついこのあいだこの町にやってきたような若いお母さんが、一足飛びに町会長に受け入れられるのは、あまり愉快なことではなかったようである。
これらのエピソードは、いずれも言われた方がそう語っているだけのことであって、言ったとされる方に改めてその真偽を確認できる性質のものではない。したがって事実のいかんについてうんぬんすることは、少なくともわれわれの行う社会調査においては限界がある。それゆえ、むしろそのようなことが語られていること自体をそのまま受け止めて解釈するほかない。ここではおそらく署名運動というこのお母さんたちの最初の挑戦が、町内社会にある種の衝撃を与えたであろうことだけは確かであると考えるのが妥当なところであろう。そしてそれはこれまでよく言われてきたように、当時はまだ地域の古い慣習が残っていたからそうなのではなく、すでに第一章と第二章で詳しく述べたように、比較的新しい地域の秩序としての町内会体制が固まらんとしていた時期であったからこそ、そうだったのである。古いものに新しいものが挑戦したのではなく、二つの秩序が相前後して主導権を争ったと考えた方がより正しいのである。時はすでに七〇年代の後半にさしかかっていたが、すでに述べたように町内会体制は決して盤石のものとしてあったわけではない。この二つの秩序を担った人々がどのような人々であり、背景となった制度がいかなるものであり、したがってそれらの社会的・歴史的背景がどのようなものであったかを、ぜひとも考えてみたいと思う。以下においても改めて論じるように、上のような「うわさ」としか確認しえないようなデータも含めて、あえて言及していくのはそのためである。(P136~P137)

この当時、父母たちの地域での活動に積極的に出かけていく一部教員の足を引っぱったのは、他ならぬ教職員組合であった。時間外をいとわず顔を出す先生が良い先生で、そうでない先生は悪い先生だと思われては困るというのである。日教組では七〇年代前半に超過勤務手当てをめぐる闘争が取り組まれ、その後も週休二日制を含めた労働時間短縮の闘いが進められていた。当時は学校と地域を別のものとして分けていくという発想が強かった時代で、日曜日の父親参観日が廃止されたり、運動会をわざと平日にして、昼ご飯も給食をとらせて親子を分離するとか、そんなことが主張されていたという。当時の方がむしろ学校に積極的に関わろうという父母の方の意欲は旺盛であったが、それにたいする学校側の対応は冷たいものであった。組合の分会長をつとめていたこの教員も、徐々に組合との間に距離が生まれるようになる。(P144)

さて、このような観点からこの自治体で行われた行財政改革の中身について、もう少し詳しく見てみることにしよう。八一年の「組織改正素案」では行財政改革の柱として次の三点が挙げられている。

① 分散した機能を再編し、簡素で効率的な組織に整備する
② 都市計画に関連する総合部門を整備する
③ コミュニティを推進する組織を整備する

①については行財政改革として当然のことであり、財源の確保を目的とした定数削減の前提作業として理解しやすいものである。ところが、②については若干理解に苦しむところがある。普通に考えると都市計画の推進ほど財源を必要とする事業はないだろう。さらに③のコミュニティ推進はどのような意味をもつのだろうか。この点についての明解な説明は見当たらないが、ただ財源を確保したところで何もしないのでは行政として意味がないのであって、確保した財源でもって都市再開発事業に取り組むことを最優先課題にしようということであるらしい。この点はバブル景気にも後押しされて早々と財政再建にめどをつけた鈴木都政が、二期目から臨海副都心の開発へと進んでいったことや、中曽根内閣における「アーバン・ルネサンス」の呼びかけのもと推進された都市再開発政策とも呼応していることは確かである。つまり自治体財政による持ち出しを必要とする福祉・教育関係の住民サービスよりは、民間の資金や国や都からの補助金を獲得しやすい都市再開発事業へと政策の重点を移行させていくということである。そうするとどうしても手薄になってしまうのが住民サービスであり、この点への配慮が③のコミュニティの推進と関連するのかもしれない。(P163~P164)

ところが、ここでも大きな変更が加えられることになる。行財政改革の最中の八一年に、なぜかここだけは大幅に予算を増額することで、これまでの希望申請方式を改め、すべての小学校PTAに自動的に割り当てられることになるのである。その分、自主グループへの配分枠は大幅に削られることになり、枠数をはるかに超える申請数に対処するために、複数のグループで合同の学級を開設するという苦肉の策がとられていく。しかし三年後にはさらに半減され、八六年には自主グループへの委託が廃止されてしまう。
この背景には行財政改革だけではなく、当時大きな社会問題となっていた校内暴力・家庭内暴力というかたちでの少年非行の増加という事実が存在していた。同じ八一年から中学校では「家庭教育特別学級」というかたちで、従来からの学習活動に加えて、学校長・生活指導主任・PTA会長・保護司・町会、自治会長等を構成員とする「中学校区地域連絡協議会」の開催や「PTA・学校・地域が相互に協力、連携し」、パトロールなどの「実践活動を行う」ことが委託されているのである。
さて、このような少年非行への対策のあり方は、学校の内部で組合サイドの教員が十分な対応ができなかったがゆえに、やがて戦後民主教育そのものへの批判が生まれ、これが教育基本法改正へと展開していくこととの比較で、誠に興味深いものがある。つまり、少年非行への対策の仕方としては、この自治体の社会教育行政がそれまで培ってきた住民の自発的な活動にもとづいてこれに対処するという方法もありえたはずである。そのような住民をこれまで以上に支援することで、少年非行への対処を促すという政策もありえたのである。しかしながら行政側の判断は、そのような人々は自分たちの楽しみや利害を追及するばかりで、公的な課題にたいして責任をもった対処はできないというものであったと考えられる。そのうえで、そのような問題に対処できるのは学校長であり、PTA会長であり、町内会長や自治会長であるという判断に傾いたわけである。このような判断そのものの是非は本書全体を通して考えてもらいたいことであるが、このような判断こそが、ここで問題にしている行財政改革による社会教育行政の後退とコミュニティ行政の台頭という、この自治体での政策転換の背景に伏在していたということを強調しておきたい。(P172~P173)

ここで注目すべきは、町会長さんもこれはお母さんたちが始めたことだるという認識を共有していることである。別の町会長さんなどはこの施設の建設経緯についてたずねたとき、自分らが関わったのはむしろ出張所にお併設された住民集会所の方だと述べたことがある。住民集会所とは、後に述べるが、ここでの実験をふまえてその後行政がコミュニティ施設として整備していったものである。つまりこの町の町会長さんたちは、これまでの請願運動の経緯を十分にふまえたうえで、これはお母さんたちの努力によるものと理解していたのである。
そうすると何が問題かといえば、その「やり方」なのである。このことをただ町を代表する自分たちを尊重しろという伝統的で権威主義的な主張と見くびってはいけない。町会長はそれ以上のことを言っているのである。「町全体が納得しない」とは、単に自分たちが町を代表しているという自負だけではなく、母親たちだけでは行政が十分に対応してくれないのだという事実の指摘を含んでいる。さらに町会長が議員とのコネクションに言及していることは決定的に重要である。
つまり、町会長たちは行政が究極的には議会によって正当化された政策を単に執行するだけの存在にすぎないことをよく知っている。行政など所詮「融通のきかない」ものなのである。だから基本的にはその執行に協力していくしかない。そして町会長からみれば、行政は次のように見えるのである。
「行政というのはねえ、融通がきかなくてしょうがないんだよ。よくわたしなんかが役所に行くと、またうるさいのがきたって顔をしやがる。それでもねえ、まあだいたいはよく考えてくれているよ。先回りしてよく考えてる。」
しかし、だからといって町会長たちを、よくいわれるように唯々諾々として行政のお先棒を担いでいるだけの存在と見ることはできない。行政側の方針がどうしても意にそわないとき、彼らは決して末端の職員を責めることなく、別のルートを活用する。議員とのコネクションはこのときに利用されるのである。つまり町会長さんたちはお母さんたちとは対照的に、行政職員が何の決定権も、十分な裁量権も持っていないことをよく知っている。職員を動かすには彼らの最大の上司である首長やチェック機能を持つ議会に働きかけるのが早道であり、現場の職員とは決して争わず、彼らには仕事がしやすいようにふるまって恩を売っておく方が得策であることを知り抜いているのである。そんな町会長からみれば、お母さん方は「やり方がうまくない」。そして、このような町会長たちの地位が一朝一夕のものではなく、それなりの年月をへて成立してきた「町内会体制」と関連していることは、もはや説明を要しないであろう。町会長たちは年齢階梯的な秩序を一歩一歩昇ることで町内社会で重きを得るようになり、そのようにして町内を代表し、行政に協力をしてきたという実績によって首長とも定期的に直接懇談の機会を持つことのできる行政協力員の地位を獲得したのである。しかも彼らはそれだけでなく、自ら保守系の議員の個人後援会組織を支えることで、政治的な意思決定にまで影響を及ぼしうる議員とのコネクションをも育んできたのである。
しかしながら、町会長たちのこのような行政との関わり方はお母さんたちからすると、きわめて不透明で非民主的なものに見えてしまう。彼女たちにとって民主主義は施設建設請願運動という直接請求の過程において、さまざまな社会的差異を超えて心をひとつにした瞬間にあった。そのような民主主義的な経験を共にしたはずの町会長たちだけがなにゆえ行政によって特別扱いされなければならないのか、そのことがどうしても理解できないのである。
それでは、以前はさまざまな困難にもかかわらずなんとか連携が可能であったものが、なにゆえここにきて改めて困難が生じたのであろうか。そこには、やはり行政との関係が横たわっている。施設建設請願という純粋に政治的な運動の段階においては、政治的な信条や社会的なスタイルが少々違っていたとしても、施設がほしいという利害の一致さえあれば、なんとか行動をともにすることができる。ところが用地が取得され、いよいよこれから施設を建設しようという段になると、それはもはや単純な行政への要求の段階ではなく、行政を含めた公共政策の執行過程へと踏み込んでいるのである。となると、すでに述べたような行政と町会長たちが育んできた日本の地域社会における行政と住民の歴史的な関わり方の様式が、良かれ悪しかれ無視できないものとして立ちはだかってくる。いやむしろ戦後の民主化は本書が最初の二つの章で述べたような歴史過程を十分にふまえて構想されなければならなかったのである。戦後の民主化を求める議論は、これまで町内会と行政の関係を克服すべき、日本の地域社会の民主化を阻むものとして非難してきた。しかしながらすでに述べたように、町会長たちが一方で物わかりよく行政の執行過程に日常的な協力を惜しまないことで行政への非常に大きな影響力を確保しただけでなく、他方では保守系議員の選挙を取り仕切ることで行政の執行過程そのものを根本的に変更することができるだけの政治力すら獲得しているという事実をどのように評価すべきだろうか。考えてみれば、民主的な自治とは政治的な意思決定が民主的に行われるだけではなく、いったん決まったことが人々の参加と協力を得て民主的かつ確実に実行されることを意味しているはずである。そのいずれにも責任を持って参画するだけの覚悟と行動力のない勢力には、少なくとも民主的な方向への変革など望むべくもない。
施設建設請願運動によって政治的な意思決定への参画という高いハードルを越えることになったお母さんたちは、しかし次の段階で日常的な行政協力の実績をもった町会と行政の関係という壁の前で戸惑うことになってしまう。その背景には、これまでの町会長たちの努力と実績を正当に評価することなく、民主主義の一方の側面しか見ようとしてこなかった、従来までのとりわけ革新サイドの議論が影響していたというべきであろう。そこに責任の一端があったのである。それゆえ、母親たちは町会長たちのしたたかさに気づき、それが正当に評価されるべきものであることを理解するまでに、必要以上の時間を要することになったのである。
いずれにせよ、議会との関係を明確に位置づけることのなかったコミュニティ政策の限界や、その後三鷹市で試みられることになった基本計画策定への市民参加の試み、さらには最近のNPO・NGOなどを念頭においた行政と市民の協働=パートナーシップという考え方など、今日行われている住民自治のさまざまな試みを評価するうえでも、彼女たちの経験は決して過去のこととはいえないのである。(P185~P189)

この町が属する自治体も当初、革新自治体として成立したにもかかわらず、その同じ首長がすでに七九年の選挙で自民党の相乗りによって共産党を除くオール与党体制を築いていたのである。
そのこともあってか、この町の経験を試金石にしたであろうこの自治体のコミュニティ政策はその後、明確にある方向へと舵を切っていく。七二年に出された最初の基本構想策定に向けての長期計画審議会答申では学校教育・社会教育との関連が重視され、中学校区が単位とされていたのにたいして、七八年に実際に策定された基本構想では出張所管轄区域が単位とされることになり、さらにこの町の施設のオープン後に改めて策定された第二次基本構想では町会・自治会を中心に出張所を核にした施設のネットワーク化が謳われ、これにもとづいて作られた基本計画にはコミュニティ政策として明確に出張所および区民集会所整備の重視、区が関与する地域団体(町会連合会、青少年対策地区委員会、防災地区協議会、日赤分団)の包括的連絡調整組織づくりが強調されている。
いわゆるコミュニティ施策として提案された政策の理念は、少なくともその主唱者においてはむしろ町内会・自治会などの旧来からの組織を中心としたものではなく、その他のさまざまな市民のボランタリーな動きを新しく組織化しようとしたものであった。ところが、少なくともこの町を含む自治体では全く正反対の結果となったわけである。コミュニティ政策の採用という点ではこの自治体は決して先進的でも、典型的でもない。したがってこのことをもってコミュニティ行政全体を評価することはできまい。しかしコミュニティ施策が前提としたさまざまな市民の自発的な活動が現実には革新自治体のもとでの社会教育行政の展開と深い関連をもっていたこと、これにたいしてコミュニティ施策はこれらの部局とは異なる当時の自治省から提案されていたことのもつ意味合いについては、この事例から学ぶべきものがあるのではないだろうか。(P190~P191)

そこには今の都会育ちの若いお母さんたちにはちょっと受け入れがたいほどの下町的な、開けっぴろげで率直なつき合いが展開していたことがうかがわれる。何かあると互いに家を訪ね合い、誰かが自宅を開放するとすぐにそこでの共同作業が成立してしまう。それは決してさらに以前の村落でのムラ的な結合とは異なるが、村落での体験や戦後の焼け跡でみんなが同じように貧しかったという一定の共通体験にもとづく原初的な共同性を比較的単純に前提としえたような人と人との関係のつくり方である。その点では地元出身の自営業者も、銀行員の妻たちも、その頃はそれほど違わなかったのである。
(中略)
この結論だけを見ると、戦後教育によって日本人が全体に奉仕する公共心を失っているという、最近よく聞かれる議論を思い浮かべてしまうが、ここで奉仕の精神があったとされる世代こそが、戦後民主教育ともっとも純粋なかたちで受けてきた一九四〇年生まれから団塊の世代にいたる母親たちであったことに注意すべきである。したがって精神論に飛躍する前に、人間が置かれている社会的なつながりのあり様に注目してみなければならない。人々が家族や特定の階層に個別化され、競争的な状況に置かれているならば、それらを超えた公共の精神など持ちようがないであろう。この頃のこの町にもそのような兆候があるにはあった。ちょうど私立中学受験が一般化していく頃である。しかし、まだ少なくない母親の間にそのような社会的なつながりが広がっていく条件が確かに存在していた。それは地方出身者に代表される村落的な生活の経験や都市出身者にもまだ分有されていた少し前まではみんな一緒だったと思える世代経験の共有が、社会的なつながりの基盤として作用して、現実には確実に生じ始めていた階層的な差異を超えた共同性を意識できるだけの社会関係の形成を可能にしていたと思われる。
このような家族や階層的な壁を超えた社会関係が成立しうるだけの基盤が共有されていて初めて、都市がもたらす異質性はきわめて魅力的なものになる。(P194~P195)

実は、日本の近代における都市は少なくともこれまでの間、いわゆる都市下層と呼ばれる階層的に低位な人々を継続的に中間層へと引き上げることに比較的成功してきた類いまれな都市なのである。大正期にスラムを形成した都市の雑業層や労働者層の一部は、戦後の復興と高度成長によって都市の自営業者層として自らの地位を確立し、町内社会と町内会体制を支えるに至ったことは、すでにこの町を事例に詳述した通りである。もちろんその時期の中間層への上昇に乗り切れなかった人々もいたわけで、その一部が創価学会へと組織されていったと考えられる。少なくとも、この町の物語からはそのような構図を描くことができる。そして、さらに時代は流れ、戦闘的な新興宗教として恐れられた創価学会もすでに三代にわたる信者をもつようになり、組織としても、また少なくとも中核的な会員においては、それなりの社会的地位を確立するようになる。こう考えると現在、公明党が自民党とともに政権を担っていることも、それほど不自然なことではなくなってくる。両者は若干時期が前後するだけで、日本の都市社会の中では同じような軌跡を描いてきた社会層によって支えられてきた政治勢力なのである。もちろんそれゆえに両者の関係はこれまで決して単純なものではなかった。(P203~P204)

これまで詳しく説明し、解釈してきた創価学会というシステムがもつ特色は、これまでも指摘されてきたように、地方から都市へと流入し、一般的な地域社会には位置づけを持ちえなかった人々や、とかく地域からは浮き上がった存在である青年層にとって活躍の舞台を提供するものであった。しかもかつて「病人と貧乏人ばかり」といわれたきわめて困難な状況にある(「どん底を味わった」)人々が、その困難な状況にたいして積極的に立ち向かっていくことを組織ぐるみで応援するようなシステムとして作動してきたのである。したがって、少なくともその初期においてはそのような人々を組織し、都市に「もうひとつの地域」を形成する力となったと考えられる。しかし問題は、その結果、創価学会に集まってきた人々がどのような、あるいはどの程度の社会的上昇を実際に実現したのかということである。残念ながら、ここでの調査研究はこの点での本格的な解明には手が届いていない。それは創価学会に組織的な協力をえて、会員を対象とした大がかりなサーベイ調査を行うことでしか実現できないことである。すでに宗教社会学者の手によってイギリスやアメリカにおいては行われているのであるが、日本では今のところ実現できる状況にはないといえよう。自らが行うことも含めて、今後そのような解明がなされることを念願するものである。(P242~P243)

いずれにせよ、学会の公式見解としてこのような考え方が示されたことは、地域でさまざまな活動に携わる可能性をもった会員たちには、それ以前とは全く異なる大きな変化がもたらされることになる。これまではとかく避けられがちであった町会での活動に、おおっぴらに関わることが可能になっていったのである。しかしながら、学会サイドでのこのような変化がすんなりと町内社会の側に受入れられていったわけではない。やはり町会長たちの意識の中には創価学会員への警戒の念が強かったようである。そのような垣根が取り払われる大きなきっかけとなったのが、二〇〇〇年四月に公明党が自民党の政権与党に参加し、連立を組むことになったことである。それ以降、選挙協力などもあってか、創価学会員が町内社会に急激に組み込まれてきている。いざ垣根が取り払われてしまうと、学会員のフットワークの軽さは、高齢化し慢性的な人手不足の状況にあった町内社会にとっては、きわめて好都合な部分がある。いわば創価学会員が改めて町会などに参入することで、衰えかけた町内社会が活性化されるという現象が起こっているのである。こうして「もうひとつの地域」は急激に溶解しつつある。
しかも、重要なことは、これが単なる創価学会の教義やイデオロギー上の問題ではないということである。すでに断っておいたように、それを体系的に検証し実証することは困難とはいえ、創価学会の会員が二世、三世と代を重ねるごとに階層的な地位の上昇をとげ、今や町内社会を支えてきた人々と肩を並べるようになってきたという事実が想定できる。思い返せば、第二章において詳述したように、町内社会をつくり上げてきた人々もまた、戦前から戦後にかけて地主などの旧来からの地元有力者層との対抗関係のもとで社会的な上昇をとげてきた人々であった。その後、戦後になってから信仰の力によって少し遅れて上昇をとげてきたのが、創価学会の会員たちなのである。この二つの社会層が、いま地域社会の中で手を結びはじめ、一つの政治的勢力を形成しているわけである。(P252~P253)

さらに、ローカル・コミュニティにおける社会過程を見るかぎり影の薄い存在ではあるが、社会全体の中ではむしろ支配的な力をもつ、あまり地域には拘泥しない第三の勢力が存在する。それはコミュニティにおける二つの勢力が、ともに自分たちの子どもたちをその世界へと上昇させようとしてきた高学歴のホワイトカラーの人々である。それは政治的には「浮動層」といわれたり、「市民」「生活者」「消費者」とよばれる人々である。そして、この町にもこの人たちの利害に連なる動向とこれらの人々自体の再度の流入が始まっている。都市再開発にともなう八〇年代以降の変化がそれである。したがって、いま日本の都市においては「もうひとつの地域」の町内社会への融合とならんで、それらの世界と複雑に交錯しつつも、さらにもうひとつの世界が徐々に再分離していく可能性も見られるのである。つまり上昇した後の「市民」の世界とまだ上昇しきれていない「住民」の世界が再度分離していくという状況である。
日本における近代都市の発展は、明治以降の「都市雑業層」を前身とする大正期以降の労働者大衆の台頭によって支えられてきた。この労働者大衆がさまざまなルートとさまざまな段階においてそれなりの社会的上昇の方途を確保することによって、世界に例を見ない、類いまれに平準的で、激しい階層的分離を内包しない日本の都市社会が維持されてきた。この町の事例を通して描いてきた都市自営業者層の人たちや創価学会の会員たちは、それぞれの努力によって曲がりなりにもある程度の社会的上昇を獲得し、少なくとも子どもたちに刻苦勉励すれば報われるのだという教えを信じさせることができる世界を築き上げてきた。それはこの世界都市段階においてもなお強固な中小零細の工場群を抱えた製造業を中心とする日本の都市のあり方にその根拠をもっている。そして、それらの製造業がグローバルに稼ぎ出す成果をふまえた税金収入にもとづいて、絶えざる公共投資を繰り返すことによって都市と農村、中央と地方の階層的な格差を中和してきたのが、これまでの日本社会の基本的なあり様だったのである。ところが、この公共投資のほこ先がそれまでとは少し異なった既存の都市の再開発へ向けられるようになる転換が、八〇年代以降起こってくる。建設・土建業という都市の産業分野がきわめて重大な意義をもつ部門として改めてさまざまな意味で注目されてくるのも、この頃からである。九〇年代以降顕在化する「ホームレス」とよばれる人々を主に排出していくのがこの産業分野であり、無駄な公共投資として槍玉に挙げられることで後退を余儀なくされていくのもこの分野である。さらにこの町の事例では町内社会が生み出した新しい祭礼を支える人々が、この分野の人々によって補充されてきたのである。そして、再開発行政はこの分野の人々に直接の恩恵をもたらすことを期待させることで、その政治的な基盤を市民層とは別に調達しえているのかもしれない。しかしながらそれはかつてのような製造業の生産基盤整備とは異なるがゆえに、早晩町工場に連なる人々からは支持を得られなくなるのかもしれない。都市再開発はそれまでの工場街にマンションの進入を許し、そうやって後から入り込んだ人々がやがて権利を主張しはじめるのである。都心の工場街がそうやって拡散を余儀なくされてきたのが、いわば東京の外縁的拡大のもうひとつの側面であった。日本的な文脈におけるジェントリフィケーションはこのように進行するのである。
つまり、これまでは中小零細の製造業が下支えし、建設業によって補完されていた都市の社会的な体制が大きく崩れ、これまでのような「住民」から「市民」へと持続的な上昇が望めなくなる可能性がないとはいえまい。ホームレスの顕在化はその確かな兆しなのである。だとすれば、溶解した二つの地域は再度もうひとつの地域を生み出していくのかもしれない。いずれにせよ、二一世紀を迎えて、日本の都市はどこへいくのだろうか。(P273~P275)

この町に代々住み続けている家族は、確かにまだまだ健在である。そのことがこの町の良さを支えている。新しく住むようになった人が指摘するこの町の住みやすさも、多くは彼ら彼女らの存在に負うている。小さな店がたくさんあるのも、日頃はそうでもないのにいざとなると親切であるのも、治安がよいのも、彼ら彼女らが時間をかけて歴史的に築いてきたものである。しかし、彼ら彼女らの今はまだ同居しているすでに成人した息子や娘たちは、はたして結婚してもこの町に住み続けることができるのであろうか。また、いずれにせよ先細りになる彼ら彼女らの後を継いで、この町に新たに定着していく人々は現れるのだろうか。だとしたら、その人たちはどのような背景をもち、どこから来るのだろう。そして、その人たちもまた地域班を出ないとうるさくいわれる活動として維持していくのだろうか。それとも、過去はすべて忘れ去られて、また新しい人々が一からつかの間の歴史をつくるだけのことになるのだろうか。
アメリカやイギリスの大都市では、かつて堅実な労働者としてその初期の発展を支えた人々が暮らした都心に程近い住宅地が、長く続いた製造業の不振にともない荒廃し、スラム化してしまうというインナーシティーないしインナーエリアの問題が顕在化した。ところが、八〇年代以降の情報化とサービス経済化によって都市居住を求める共働き世帯や専門職従事者を新しく招き入れるジェントリフィケーションの過程が進められていくことになる。こうしてかつて堅実な労働者の町としてビクトリア調の外観を誇っていた住居が再生され、それまでスラムであったインナーシティーが再開発によって生まれ変わるという事例が報告されている。
東京の八〇年代以降の都市再開発が、欧米でのこのような華々しい成果を意識したものであったことは明らかである。しかしながら、八〇年代に至ってもなおかつ堅実な成長を保ち、世界を席巻したのは日本の製造業であった。そして、その発展を支えた労働者たちは、この町の事例にあったように、ある者は町工場の主になって安くて質の高い部品を生産する下請けの零細企業群を形成し、ある者は商店の主に転じ広く市民の都市生活を支えることになる。重要なのは、そのいずれもが都市自営業者層としてそれなりの経済的地歩を築きえたということである。もちろんそのまま労働者としての人生をまっとうし、首尾よく子どもを大学にやりサラリーマンにした人もいれば、さまざまに出会うことを余儀なくされた不運のために路頭に迷うことになった人もいただろう。しかし彼ら彼女らにも創価学会のような場が存在し、日本の都市は少なくとも八〇年代までは欧米的な意味でジェントリフィケーションの対象になるようなインナーエリアをもつことはなかった。同時にそのことが次の時代のIT化やサービス産業化への対応を遅らせることになり、バブル崩壊後の困難をもたらすことになったわけだが、しかしまたいまだ根強い東京の製造業と建設業が町を支えていることも否定しがたい現実なのである。
二一世紀を迎えて、再びまみえることになった都市自営業者層と創価学会の会員たちは、表向きはこれまで通りの町内社会を支えることで、都市を中心とした日本社会の政治的社会的安定に寄与しているように見えるが、彼ら彼女らに支えられた自民党と公明党による政府の進める政策は、はたして都市のローカル・コミュニティをどこにもっていこうとするものなのだろう。いったん、安定したかに見える状況は、次の時代の大きな変動の予兆にすぎないのかもしれない。
いずれにせよ、都市のたえざる成長と変動にともなって、ちっぽけなローカル・コミュニティであっても、いずれ変わっていかなければならない。この本はただそのことを示したにすぎない。事実、そのことの予感がこの時点でこの物語を書き下ろしてしまおうと筆者に決断させた直接の理由であった。しかし、その変動が必ずや先達の思いや努力を引きずったものになるであろうこともまた、この物語が語りかけているものである。よいものも、わるいものも含めて、人間が歴史を引き継ぐとはどういうことなのか。それは高尚な思想や法や制度のみならず、身近な都市や町の空間に刻み込まれた人々の生きた証しを通して、先達の思いと社会的に繋がっていくということなのである。この意味で今いる人ともういない人とがつくり出すもうひとつの社会が、ローカル・コミュニティには息づいている。そのことを見出し、理解し、尊重することによって初めて、今いる人たちの社会は自らの存在意義と進むべき道を自覚しえるのである。(P276~P278)