私の高祖父(曾々じいさん・ひいひいじいさん)である、奈留利右エ門帯刀(なるりえもんたてわき=写真)は当時の五島福江藩家老のひとりで長崎蔵屋敷に勤務しており、幕府や諸藩や産業界との関係業務にあたっていたが、鳥羽伏見戦勃発から最後の長崎奉行の河津伊豆守の退去により長崎奉行所の運営に参加することになった。
幕末最後の長崎奉行の河津伊豆守祐邦は、官軍の勝利を知ると、江戸城が無血開城したように、幕府の施設を幕府から切り離し、官軍の攻撃の対象とならないように奉行所を幕府以外の立場の人たちに託して江戸に戻った。
奉行所の業務は一時的に九州諸藩の長崎留守居に相当する藩士や長崎町役人たちにゆだねられた。
私の曽祖父にあたる梁瀬半六(日高は父が祖母の叔父の家を継いだ)は、廃藩置県直後に東京に移住を命じられた藩主と随従した家老たちにかわり藩政の残務運営の世話役を務めた。この業務は大幅に減った家禄予算を、藩政時代の家別の石高にかかわらず、ほぼ均等に藩士たちに分ける業務が主だったようで、つらい立場で日々を過ごしたろうと推察する。
日高の家の明治維新を経験した最後の五島家家中のIは、時代の変化になじめず、長崎に出て無気力な暮らしをしていたという。その後、日高の後嗣が絶える状況になり、家名を残すことが士族道徳の重要な価値観であった当時に、祖母の叔父にあたることから、祖母は不本意だったらしいが祖父の一存で父が幼児のころに名前だけ継がせたという。
譲り受けたものは先祖の位牌や若干の仏具と江戸時代の初期からの戒名の書き継ぎや五島家に仕える以前の由来の文書と刀ぐらいで財産に相当するものは何もなかった。逆に言えば、維新で失業しても、それだけは保持していたということか。
維新の名残を感じさせるものが、仏具の燭台に彫られた「家扶鬼塚献之」の文字。代々奉公してくれた鬼塚さんが、お別れに日高の家の仏壇に供えてくれたのだろう。
一家の遺事ではあるが、この燭台にとても強く維新期の雰囲気を感じる。