幕末に横浜で起こった外国人殺傷事件といえば生麦事件が有名だが、それとは別に井土ヶ谷事件というのがある。
これは、文久3年(1863年)9月、現在横浜市南区にある井土ヶ谷で、フランス人の将校が殺傷された事件である。その跡地を歩いてみた。
井土ヶ谷は、京急の鈍行しか止まらない駅周辺にしては意外と規模が大きな町である。
パチンコ屋や商店、小さな家やマンションなどが雑然と並ぶ街並みは横浜の下町という印象である。
※井土ヶ谷交差点付近
井土ヶ谷駅から歩いて10分ほどしたら「井土ヶ谷事件の跡」の碑があった。庚申塚と一緒に並んでいる。
井土ヶ谷事件というのは、フランスの士官カミュ少尉ら3人が、保土ヶ谷宿に行くため乗馬して移動したところを、
3名の浪士風の男に襲撃されてカミュ少尉は斬殺、他の2人は逃走したというものである。カミュ少尉はまだ21歳であった。墓は山手の外人墓地にある。
生麦事件はどちらかといえば出合い頭の、偶発的な事件であったが
この井土ヶ谷事件はフランス士官の通り道を知った上で待ち伏せしていたところからすると
下見を重ねた計画的な犯行だったと思われる。
下手人はとうとう捕縛されず、犯行声明もなかったことから、幕府に嫌がらせをしたかった勢力が仕組んだものだったのだろう。
実際、幕府はフランス政府に多額の賠償金を支払うはめになっている。
幕府は攘夷派沈静化のための窮余の策として「横浜鎖港」を打ち出し、外国奉行池田筑後守(長発)を正使とした横浜鎖港談判使節団をフランスに送るが
交渉は難航し、この井土ヶ谷事件の件でフランスに謝罪したこと以外の成果は上げられずに帰国している。
なお、この使節団はフランスに行く途中にエジプトに寄港し、初めてピラミッドを訪問した日本人として名前を残している(スフィンクスの前で撮った記念写真も残っている)。
実際のカミュ少尉殺害現場は、碑より少し離れたこの付近だったらしい。寒くて小雨が降っていたためか、人通りがなかった。
帰りは井土ヶ谷交差点の少し先にある「陳記」という小さな中華料理屋でタンタン麺を食べたが美味だった。
横浜は中華街以外の中華料理屋の方がおいしい店が多い。