Summing Up?

歴史散歩と風景印収集

元町に貝塚があった

2012-12-08 00:27:43 | 日記

横浜の元町に行ってみたら、アメリカ山公園に「元町貝塚」というプレートがあった。

アメリカ山公園。元町を見下ろす高台にある。

元町貝塚のプレート。

プレートにはこう書いてある。

「元町貝塚は、昭和49年(1974)に外国人墓地の北東斜面で発掘された縄文時代中期初頭(おおよそ5,500年前)の貝塚で
貝とともに土器が見つかっています。
平成18年(2006)年にアメリカ山公園の建設に先立って、台地の東側で発掘調査が行われ、ここにも貝塚があることがわかりました。

この貝層からは縄文時代前期末~中期前半の土器をはじめ、石器や骨角器・貝製品など、
縄文時代の人びとが使っていた道具がみつかりました。また、貝塚を構成する貝は
ハマグリやアサリ・マガキ・アカニシ・カガミガイ・オキシジミ・バイ・ツメタガイなど
多くの種類が見られ、当時この周辺の海がとても豊かだったことがうかがえます」

無断引用したら怒られるかもしれないが、特に禁止されていないので書いてみた。

貝塚というのはだいたいが海を見下ろす高台にあり、縄文人もさすが一等地を選んで住んでいたのだというのがわかる。
三陸で津波被害のあと、高台に住宅建設しようとしたら貝塚があってなかなか建設が進まないという話も聞いたことがある。
でも元町と貝塚というのは全然イメージが一致しないし、
横浜市民の僕もこの場所を通りがかるまでこんなところがあるなんてまったく知らなかった次第である。

外国人墓地。僕がこどものころは「外人墓地」といっていたが
いつのまには「外人」という言葉は使われなくなってしまった。



 


信州柏原 小林一茶の旧宅と墓所

2012-11-03 09:57:02 | 日記

ちょっと古い話になったが、9月末に北信越を旅行した際に、小林一茶の旧宅があると知って寄ってみることにした。

僕も俳句についてはそれほど詳しいわけではないが

・雪とけて村いっぱいの子どもかな

・名月をとってくれろと泣く子かな

という句は情景が目に浮かぶようだし

利根川の洪水のあとに詠んだ

・夕月や流れ残りのきりぎりす

という句も面白い句だなあと思う。

小林一茶は、信州柏原村の農家に生まれて、10代の頃に江戸に奉公に出て渡り奉公をするなど今でいうフリーターのような生活をしつつ
俳句を作り始めていたらしい。そのため、若いころの一茶についてはほとんど何もわかっていない。

50歳近くなって故郷に戻り、そこで俳句を作りながら結婚もし、子供も作った。
精力絶倫だったようで、これはいろんなところでネタにされているが、結局成人した子供は死後に生まれた女の子だけだった。

柏原村は現在住所表示でいうと長野県上水内郡信濃町大字柏原になる。四方を山で囲まれた風光明媚な、冬は寒そうなところである。写真は柏原から見る黒姫山。

小林一茶の記念館があったので中に入ってみた。小林一茶の書いた書状などが展示されているが、たいへんなメモ魔だったようだ。
この記念館は近所の猫がたびたびひなたぼっこに来るそうで「館長よりマメに来る」とのことで「ねこ館長」に指名されている。
僕が行ったときは残念ながら「ねこ館長」は不在だった。猫だから気まぐれらしい。

記念館の裏には「俳諧寺」という堂があり、一茶の像もある。

俳諧寺から少し歩くと小林一茶の墓があった。周囲にあるのは小林一族の墓らしい。手を合わせる。

そこから車で5分ほどのところに一茶旧宅があった。旧宅といっても、火事で焼け出された一茶が仮住まいで済んだ土蔵の跡である。
最近再建されたものなので、見てもあまり面白くない。ここは5分ほどで引き払った。

信濃町のマンホールのふた。馬と雀の子。一茶の俳句の世界である。

信濃町郵便局の風景印。これも一茶がモチーフだが、マンホールに比べたら地味なデザインである。

帰り、中野から見た風景。秋の信州である。

 

 

 


The Beach Boys Live at QVC MARINE FIELD,Chiba,JAPAN - Aug,16.2012

2012-08-26 12:35:47 | 日記

ブログのテーマとは関係ないのだが、僕は高校生以来のビーチボーイズのファンであって、ということはかれこれファン歴30年近くになってしまうのだけれども
ブライアン・ウィルソンの単独ライブは見たのであるが、ビーチボーイズとしてのライブは見たことがなかった。

今回、結成50周年と記念してマイク・ラブ、アル・ジャーディン、ブルース・ジョンストン、デビッド・マークス、それにブライアン・ウィルソンの5人で再結成され
新アルバムもリリース、そして来日!

ビーチ・ボーイズは、バンドをとりまとめていたカール・ウィルソンが亡くなってからはメンバー間の不和が決定的になり、ビーチボーイズの名前で活動したマイク・ラブとブルース・ジョンストン組、ソロで活動したブライアン・ウィルソン、ビーチ・ボーイズ・ファミリー・アンド・フレンズというなんだか情けない名前のバンドを作って活動したアル・ジャーディンと、完全にメンバーが分裂してしまっていた。
その経緯を知るファンにとっては実質的な再結成自体がサプライズである。
ちなみにデビッド・マークスというのはビーチボーイズ結成後のごく初期に「素行不良」で解雇されたメンバーである。ビートルズがピート・ベスト(リンゴ・スター加入前のドラマー)を加えて再結成するようなものである。
平均年齢が70歳になるメンバーの年齢を考えると、「これは見ておかないと、もう二度と見る機会がないかも」と思わざるを得ない。そこで、さる8月16日に遠い幕張まで見に行くことにした。

で、感想だが、いやー、感動のライブだった。演奏面ではサポートメンバー主体であったが、1時間40分が怒涛のように過ぎて行った。

QVCマリンフィールド。海浜幕張駅から15分ぐらい歩いた。暑くてこの時点で汗が噴き出してくる。

客層は、同年代かそれ以上のオヤジ世代も多かったが、若い人もいた。女性もいた。アメリカ人の一家も家族総出できていた。
ロックのコンサートなんて来たことないんじゃないか、というようなおじいさんもいた。

前座が星野源。僕はこの人を知らなかったが、すごくよかった。
なんといってもユルい雰囲気がいい。
本人は飄々としていたが、バックバンドはビーチボーイズに負けるか!と気合が入っていた。

星野源の次はAmerica。「名前のない馬」のアメリカである。
え、彼らが前座なの?とちょっとビックリした。
演奏も手抜きなしの熱演だった。

そして、いよいよ主役の登場である。

開演前のスクリーン。

キターっ!
メンバー紹介でBrian Wilson!と呼ばれるとひときわ大きな歓声が起こる。

一曲目のDo It Againから総立ち状態。Hey Now,Hey Now,Hey Now・・・っとサビの部分を一緒になって歌う。
まさかビーチボーイズと一緒になってハモれる日が来るとは。至福のひと時である。

僕の大好きなSail On Sailorではブライアン・ウィルソがメインボーカルだった。
実はブライアン・ウィルソン、キーボードの前からじっと動かず、たまに両手を上げたりするので起きているな、というのがわかったが
このステージの中でもポツンと孤高の存在であった。動きはなかったけれども、存在感は圧倒的であった。

ステージは休む間もなく続く。
単なる懐メロバンドの再結成ライブにならなかったのは、久しぶりの再結成であるにも関わらず息の合ったハーモニー、隙のない演奏とセットリストと現役感バリバリだったからだろう。
特に新曲のThat Why God Made For Radioが素晴らしい。こんな新曲が出せるならあと数年は大丈夫だと思う。

Kokomoではクリストファー・クロスがゲストで参加した、身体が大きくてゴツい感じだが、声がナイーブな高い声である。
地はこういう人なのかもしれない。

ライブを締めくくったのはFun,Fun,Funであった。これも最後のコーラスの部分を一緒になって歌った(笑)

欲を言えばSurf's UpをやってほしかったしDisney Girlsも聞きたかったが、Boysが見られてだけでよかった。

 

ライブが終わって数日間はビーチボーイズのことを考えて幸せな気分になっていた。
これが最後といわず、また来年も来てほしいとつくづく願う。

 

 


三浦按針墓(横須賀)と屋敷跡(日本橋)

2012-08-11 14:55:52 | 日記

京急線の金沢文庫駅と横須賀中央駅の中間あたりに「安針塚」という駅がある。
この駅名は、徳川家康の外交顧問だった三浦按針の墓所があることから名づけられている。
休暇だったので行ってみることにした。

安針塚駅は小さい駅で、駅前には民家があり、交番があるが、それ以外は何もない。なんだか寂れた感じがする。
車一台分が通れる狭い道を歩くと、高台に高層マンション群が見える。
京急線沿線は権利関係のややこしい駅前開発を後回しにして
その周辺にマンションや住宅地を作っているところが多い気がする。

京急線の安針塚駅

三浦按針の供養塔は塚山公園という公園にあった。
安針塚駅からはハイキングコースになっているようで、つまり山道を歩いていかなければならない。
事前にあまり調べていなかったので、「えっ、山登りか!」と少々ひるんでしまった。
しかたなく汗だくになって山道を上がる。シマヘビと遭遇したが、こちらの姿を見ると慌てて逃げてしまった。
案外臆病なものである。

やっとたどりついた塚山公園入口。きれいに整備されている。

 

三浦按針の供養塔。凝灰岩製の右塔が按針、安山岩製の左塔が妻・ゆきのものである。

三浦安針は本名ウィリアム・アダムスWilliam Adamsというイギリス人である。
1564年イギリス・ケント州に生まれた彼はオランダ東インド会社が派遣した艦隊の水先案内人であったが、
途中大嵐にあってしまい、彼の乗ったデ・リーフ号のみが1600年(慶長5年)に今の大分県の臼杵に漂着した。

その場で拘束され、大阪に送られたアダムスは徳川家康に面会し、
海外事情を分かりやすく説明したことから家康に気に入られ、徳川家直参の旗本になり外交・軍事顧問となる。
名前も「三浦按針」の名を与えられ、相模国三浦郡逸見村の250石の領地も与えられた。
破格の厚遇というか、いかに家康に評価されていたかがわかる。
妻のゆきは江戸日本橋大伝馬町の名主の娘だった。2人の間にジョセフとスザンナという二人の子がいる。

この安針塚駅周辺が、かつては按針の領地だったのである。
按針は結局イギリスに帰国することなく今の長崎県の平戸で没したが、
遺言により、領地の逸見村に供養塔が作られた。
墓だと思っていたが、平戸に墓があるようで、これは供養塔であるらしい。


石灯籠があり「江戸日本橋按針町」の銘が見える。その一帯の町人が寄贈したものだと思われる。

さて、その数日後、所要で日本橋を訪れる機会があったので、按針町のあった東京都中央区日本橋室町に行ってみた。
もちろん当時を思い起こすようなものは何もないが、店舗や事務所の間に小さな石碑があった。
気づかないとたぶん通りすぎてしまうだろう。

按針屋敷跡と石碑。

三浦按針の子孫は今も健在らしい。ウェブで調べたら、「どう見ても日本人」だったとのこと。

安針塚の隣駅「逸見」郵便局の風景印。横須賀港と自衛艦艇、米国海軍艦艇、カモメを図案化したもの。

 


青山霊園を歩いてみた

2012-08-04 14:51:49 | 日記

ブログの更新も久しぶりである。忙しくて手がつけられなかった。

少し前の話だが、仕事の帰りに青山霊園に寄って散策してみた。

都内の一等地にあるだけあって松方正義・小村寿太郎・浜口雄幸と日本の近現代史を彩る有名人の墓がずらりと並んでいる。

中でもひときわ大きい墓所にあるのが大久保利通の墓である。

さすがに近代日本の基礎を築いた人物であるが、墓石が亀の石の上にあるのもそういう意味なのだろうか。

地元の鹿児島では西郷隆盛を斃した人物として長らく評判が悪かったが、最近は再評価が進んでいるらしい。

大久保利通の墓。
 
その少し近くには後藤新平夫妻の墓がある。関東大震災ののちの復興院総裁を勤めて首都復旧作業を推進した。
そのため震災後は「後藤新平はいないのか」などと書かれていた新聞記事を目にすることがあった。
今後も大きな地震がある都度、この人の名前がクローズアップされてくるのだろう。
後藤新平夫妻の墓
 
鳥居があったり狛犬があったり、ちょっとした神社みたいになっているのは福岡藩主黒田家の一族の墓である。
 
まるで神社
 
小村寿太郎の墓も負けていない。
貧相な外見でネズミ大使といわれたが、日露戦争の勝利はこの人の外交手腕によるところが大きい。
 
 
ちょっと離れたところには北里柴三郎の墓があった。
 
きれいに手入れされている墓が多かったが、中には草ぼうぼうになった墓もある。
墓石を見ると従二位勲一等男爵・・・となっており、調べてみたら大審院判事を務めた人物らしいが
子孫が絶えてしまったのだろうか。諸行無常である。
 
青山霊園から見る六本木ヒルズ。