[内紛]日本聖公会よ、どこへ行く?

児童に性的虐待を加えた司祭原田文雄を保護する京都教区(主教高地敬)を追求する。
児童虐待、裁判、

ブログ - 考えよう、主張しよう 8/20より転載

2009-09-01 13:33:20 | Weblog
漂う妖気

2009年8月18日の京都教区審判廷にかんする、村岡利幸氏報告(2009年8月19日19:10)です。後半は堀江静三氏の報告(2009年8月19日22:25)です。 


報告を聞く限り、古賀久幸司祭も高地敬主教も一般の犯罪ならば心神耗弱で統治能力・責任能力がないといわれる状態である。審判廷が初めてであるから進め方が素人流儀になるということではない。それなら、法規をよく知っている人とか弁護士を招致して、相談しつつ進めればよい。結論を決めておいて関係者を誤魔化しているとしか思えない。正義と和解の演技をしている。もう演技では通らない。

武藤六治主教、原田文雄司祭、古賀久幸司祭、高地敬主教、ここでは敢えて名前を挙げないけれども、ウィりアムス神学館で学んだ人たちと同僚教師は万死に値する。聖職者としての道は破綻している。


改行などで読みやすくしただけで、内容には手を加えていません。


(村岡報告)
第3号 古賀司祭懲戒申し立て審理、概要報告 (このメールの巻末)
8月18日13時から16時ごろまで

申立人   鎌田司祭 村岡
被申立人 古賀司祭 浦地司祭
証人 岡橋さん  村岡  武藤主教は欠席
(傍聴者は、いつもより多いとの事)


審判廷審理の大まかな結果は巻末の通りでしたが、その後、重要な出来事が起りました。



高地主教が、岡橋さんに立って話しかけていたのです。
目線を同じくして謝罪する基本姿勢にもかかわらず、
身長が高い高地主教から、背の低い岡橋さん対して、そこに古賀司祭夫婦が岡橋さんを取り囲み、3対1の密室状態(刑法で言う)です。

もしや、おかしいと思って、近寄ってみると、岡橋さんに対して、高地主教が、またもや上からモノをいう言葉を使っている状況でした。

高地主教は、「あの時は、謝罪広告を新聞社に載せられなかったので、記者会見をしたのです。」として、岡橋さんを抑え込もうとしていました。

岡橋さんは、、「武藤主教と古賀先生が抑えつけてきて・・・」
高地主教の詭弁に、岡橋さんはそうではないと言いたげでしたが、詭弁を覆すことができずにいました。

そこで、村岡が密室状態に割り込み「要するに、岡橋さんと百済教会の名誉回復する措置をとればよいことなのですよ。」と解説がてら、ひとこと発言をしました。

すると、それまで謝罪の態度を示していた古賀司祭の妻が、突然、興奮状態。「今は高地主教と2人が話してるのです!」と叫びました。

岡橋さんもその場で、高地主教の話を拒否、高地主教の上からの抑え込みを止めました。


高地主教は、岡橋さんの父親とさえ、示談してしまえば、何事もしなくて済むのだとでも思っているのでしょうか。

むらおかアイデアですが、
京都教区謝罪ビラを100万枚ほど作って、奈良や京都中心に日本全国、日本聖公会信徒が自らの手で全戸配布して、誠意を示そうとも考えないのでしょうか?


これこそ理屈ではなく、時代に適した本物の宣教ではないでしょうか。

主の平和がありますように!

****************
むらおか としゆき  村岡利幸
大阪市中央区糸屋町2丁目1番6号
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この日の審判は、開廷当初から紛糾しました。被申立人の古賀司祭の本人尋問をめぐって。
あろうことか、審判廷は、審判代理人からこの日に本人尋問を指摘されるまで、気が付かなかったようです。

この日の3時間の間の審理中、何回も激論。

古賀司祭に宣誓をさせて本人尋問を行うように審判代理人が要求
審判廷は宣誓は不要だとか言い出し、被申立人弁護人は、黙秘権があるはずだと意味不明な発言をしだす始末。

結局のところ、
時間制限を加えられましたが、古賀司祭に宣誓させた上で、一部分の本人尋問を行うことができました。
父と子と聖霊のみ名によってアーメン、神に宣誓します。といった内容で、教会審判廷独自の宣誓でした。


証人に対する主尋問時間を15分間に制限するとか
双方の言い分を聞いて示談交渉を進めるのが審判だと思って真理の探求を回避しているのか、
宣誓させなくても、古賀司祭に発言(規則上は野次と同じ効果)させれば良いとか、
審判長は尋問内容を今決めろとし、時間が来れば打ち切るとか、
ローマ帝国の裁判をはるかに下回る独裁的高圧的、かつ形式的な審理を進めようとするばかりでした。

審判代理人が、審判廷規則を守って審理を進めるように要求しても、なかなか守る態度を見せません。

審判代理人は、
不正な審判廷審理や審判てい規則違反の運営が行われるのであれば、管区審判廷に不服申し立てをすると、幾度も警告までしたのですが、審判長の答えは「決定しました。」として押し切るばかりでした。

結局、審判長はこの日で審議を打ち切りました。
果たして、懲戒処分の結果のみならず、審判の正当な理由付けができるのか甚だ疑問です。
審判廷で審議をつくすのは、審判理由と共に後世に結果を残して教訓とするため、2度と同じような事件が起こらないようにするためで、こういった意思が京都教区審判廷にあるのかどうか、甚だ疑問でありました。



証人尋問の中で、いつかの明らかなことが出てきました。

1、高槻市の精神科医は、原田司祭の精神状態ではなく、古賀司祭が被害女性の精神状態を聴きに来たと語っていたこと。

2、古賀司祭は、原田司祭のために裁判が起きる前から動きをしていたと、ある牧師は岡橋さんに語っていた。

3、古賀司祭をはじめ常置委員の誰もが、被害者側である岡橋さんの話を聞くことを行わなかった。

4、教区の態度を告発、「牧師は子羊を狼に教わらせる態度」であったと岡橋さんは証言。

5、古賀司祭は、2人目3人目の被害者が出たとき、初めて騙されたと分かったと証言。

6、騙されたと分かった後も古賀司祭は、常置委員や委員長として果たすべき役割を果たさなかったのではないかの質問に対し、昨年、「教区に全て報告あとは主教が行う」旨の発言をしたことを認めた。

7、昨年、なすべきことをしなかったとの問いに対し、古賀司祭が、「処分された、奈良の教会から平安に移され、小浜にされた」旨の発言したはことを認めた。

8、昨年、原田司祭が退職を撤回した経緯について質問されたとき、古賀司祭は、武藤主教と原田の間で行われたこと、その場にいなかったとして、経緯も知らないと発言したことを認めた。

古賀司祭への本人尋問は、時間が来たとして審判長から打ち切られました。反対尋問、審判の尋問もありませんでした。

審判長は、とにかく、時間、時間というばかりで時間制限を加えました。
(ただし、審判結果を出すのは相当期間先になると発言、時間の余裕があることも示しました。)

武藤主教から、わいせつ事件の教区での処理についての陳述書が提出されましたが、
主要な部分につき、審判代理人が証拠を立てて、陳述内容が事実と食い違うことを証明しました。

            早々



(堀江メール)
聖公会ほか関係者へ一斉メール

8月18日京都の審判廷がアグネス聖堂で開廷されました。
私は12時半過ぎに到着しました。
石の階段4,5段を上り、敷居をまたぐと信徒用の連絡棚があり、その前にパンフレット類が並べてあります。
左端に聖公会神学院だよりとウイリアムスニュースが並べてあったので、一枚づつ頂きました。
帰宅してウイリアムスを開くと、2頁にパウロ内海信武(北海道札幌ミカエル教会)さんという中年の方の聖職候補生の写真入りで「神学館での1年間を終わって」が目に入りました。

この記事中に管区人権新任者研修会出席とありましたので、早速北海道に電話をいれました。
万良く本人が出られたので、こちらの氏名を告げ電話の用件目的を伝えました。目的は審判廷開廷をご存知かどうか、原田事件をどう思うか、です。

18日の開廷は知っておられました。
原田事件の本題に入ると応対が変わり、腰を引き、構えるような感じを受けました。少し説明しだすと、HPも読んでいます。手紙(メールのことか?)も読んでいます。説明していただかなくても全て知っています。というようなことをいわれ、それがどうしたと言いたげな様子に受け取れました。

最後に私に何をせよとおっしゃるのですかともいわれました。

皆さん、ウイリアムスの対応が想像できませんか。
吉田館長や大塚君は生徒に事件のことについてどのような説明をしているのでしょうか。

聖職候補生に事件を避けて通ることを教え、聖職者の粗製乱造をする「ういりあむす」には一体どんな魔物が住み着いているのでしょうか?

京都教区の退職司祭の岡田重人司祭は「ウイリアムスこそ悪の根源だ、伏魔殿だ」といわれて途中退職されたのです。彼とは同志社の同期です。

私はこの内海候補生に事件について沈黙するなら、牧会の資格はありません。せっかく配属されたでしょうが他の就職を探しなさいと言おうとしましたが、その前に電話が切られました。

京都教区の全聖職者は教区の許しがたい事件対応、即ち被害者を精神疾患患者と呼んだ清算を済ませていないこと、現在も被害者家族を第3次、4次、5次と虐待し続けていることに声を上げ大義の旗を掲げ、主教の責任を追及してほしい。

さもなければこの教団組織は怪物教団、魔物教団といわれても仕方がないであろう。
父親は子羊を守るどころか教区や牧師は狼になって子羊に襲い掛かった
絶対許せないと18日の審判廷で必死に証言されました。
糾す会SH2009年8月19日

以上です。
日本聖公会の信仰が問われているということである。