The Diary of Ka2104-2

「西洋音楽の歴史」東京書籍と「西洋美術史」美術出版社ー同時並行での読み物2冊

はじめにお断り:classicの原義は、古いといった含意は一切なく、「第一級」というのがそうです。また、ヨーロッパの、という前提はなく、世界共通言語です。起源をいうなら、ヨーロッパ美術の印象派以降は日本に起源をもつもの色濃く、誰もが既知の事実です。

私はいつぞやから西洋音楽史と西洋美術史の2つのジャンルにまたがるけれど同時に同じ芸術分野の書籍を、2冊同時並行で、くるくる回しながら読み進めてきました。

「西洋音楽の歴史」東京書籍

中世(含むゴシック)、ルネサンス、バロック、古典派(含むロココ)とやって来て、今は「19世紀市民社会の音楽」の項を読んでおります。紹介がてらそこから抜粋すると、たとえばこんな言葉が書かれています。

(19)芸術歌曲の発展ーリートとメロディ ※オペラやオペラアリアはバロックや古典派の頁に出てきます。

詩と音楽と~

19世紀は、音楽が他の芸術分野(特に文学)への関心を極度に高め、出来ればその境界線を越えて他分野への浸透を望んだ時代である。標題音楽が出現したのも、ヴァグナーが「総合芸術作品(他の章ではオペラに見られるような)」という概念を展開したのも、音楽外的な要素を積極的に音楽に取り入れようとした結果であった。歌曲が注目を集めるようになったのも、同じ精神からである。音楽(歌)と文学(言葉)の弁証法的総合を目指して、作曲家がこれほど歌曲に没頭した時代は他にない。この傾向を促進したのは、第一にピアノが改良され表現力をつけ、ロマン派の心情を語る楽器に急成長したこと、第二にドイツ叙情詩の復活によってロマン派の詩人が文学的な歌詞を提供したことである。ゲーテを筆頭に(ゲーテ含めその原語綴りは以降わかりません)、ハイネ、アイヒェンドルフ、リュッケルト、そしてメーリケなど数多くの抒情詩人がロマン的情趣溢れる詩を書き、作曲家はこれらの詩が提起する想念をいかにして声とピアノで表現するかに腐心した。個人的感情を中心に置いた、愛、悲しみ、眠り、黄昏、夜、月、星、郷愁、時空間的に離れたものに対する憧憬、非現実で神秘的な世界への傾倒、これらこそがこの時代の詩や音楽を貫いている主題であった。これら説明しがたい感情を音楽で表現しようとした結果、従来の歌曲(歌曲に対する関心は既に18世紀に高まっており、歌曲を大量に書いた作曲家が何人も出た。しかし彼らの歌曲は基本的に「誰もが歌える単純な歌」を理想としており、ロマン派におけるような音楽的充実はまだ見られない。ベルリン・リー派に属するライヒャルトやツェルターはゲーテの詩に多く付曲したが、依然として詩に従属する傾向が強い)を支配していた有節形式(詩の各節に同じ旋律を繰り返し付ける形式)や単なる音の支えとしてしか機能しなかった楽器伴奏のあり方が大きく変化することになる。

ロマン派リートの誕生日~

1814年10月19日、シューベルト(フランツ・シューベルト[1797~1828]は630あまりの歌曲を作曲。その内ゲーテの詩には80曲ほど作曲。[美しき水車小屋の娘(1823)][冬の旅(1827)][白鳥の歌(1828)]が三大歌曲集として特に有名)は初めてゲーテの詩「糸を紡ぐグレートヒェン」に曲をつけた。・・・・※私、石川勝敏も冬の旅(Winterreise)の内の菩提樹(Der Lindenbaum)をYoutube上で何度か歌っております。カウンターテノールで唯一成功した分が1つだけ中に埋もれております。

「西洋美術史(図版付き)」美術出版社

原始美術と古代オリエント美術から始まり、ギリシア美術とローマ美術、中世Ⅰ(初期キリスト教美術・ビザンティン美術・初期中世美術)、中世Ⅱ(ロマネスク美術・ゴシック美術)、イタリア初期ルネサンス美術・15世紀の北方美術、イタリア盛期ルネサンス美術・マニエリスム・北方ルネサンス美術と来て、更にバロック美術・ロココ美術を超えて、近代Ⅰ(新古典主義・ロマン主義・写実主義)の項を私は今読んでいます。最近のを抜粋します。

絵画ーフランス~

・・・・革命勃発と共にダヴィッドは美術関係の制度の改革に携わるかたわら[テニスコートの誓い]素描や[マーラーの死]などの革命の視覚的記録としても重要な作品を描いた。帝政開始と共に「皇帝の主席画家」の称号を与えられた彼は大作[皇帝ナポレオンの聖別式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]を制作した。・・・・ダヴィッド自身の弟子たちの世代の作品には新古典主義が次第に変質してゆく様子が見られる。弟子の中の最大の存在はグロとアングルであるが・・・・アントワース・ジャン・グロは・・・・王政復古期には亡命したダヴィッドの後継者と目されたが師の古典主義的な教えと自分のロマン主義的な資質との板挟みになって自殺した。・・・・グロに代わって七月王政期のアカデミズムの指導者になったのはジャン・オーギュスト・ドミニック・アングルであった。・・・・テオドル・ジェリコーは帝政末期に大陸軍の兵士や馬を描くことで画家として出発し、1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の政府の責任による難破事件という時事的なテーマを大作に描き上げて論議を呼んだ。・・・・ジェリコーの作品が新時代の美意識のマニフェストとすれば、ウジェーヌ・ドラクロワはその完成者であった。・・・・彼は[サルダナパールの死]で対角線構図にまとめられた東洋的主題、輝くような色彩、粗いタッチによる動感表現という完璧に反古典主義的な、つまりロマン主義的な作風を示した。・・・・アングルやドラロージュのように文学的あるいは歴史的テーマを描くことが主流であった19世紀前半の画壇でバルビゾン派の画家たちはパリ近郊のフォンテーヌブローの森などのありふれた風景を制作した。なかでもテオドール・ルソーは自然に及ばされる光の効果の表現に優れている。ジャン・バティスト・カミーユ・コローの風景画も自然の観察に基づいているが、古典主義的端正さをもつ構図や対象の形態を幾つかの面に還元する方法は理知的なものを感じさせる。・・・・彼は人物画にも優れ、瑞々しい多くの婦人像を残した。1830年代から世紀中葉にかけてのこれらの風景画はロマン主義的な自然愛好の心情から出発し、写実主義への道を開いた。1850年前後にオノレ・ドーミエ、ジャン・フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベの写実主義絵画を代表する三人の画家が相次いで登場した。・・・・当時の前衛であったこうした写実主義の流れから世紀後半に印象主義が生まれることになる。※カミーユ・コローについての記述は私、石川勝敏の見解とは異なっています。

二本、指を突き出しているのは、二刀流を意図していず、ピースサインです。ウクライナに平和を。


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