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伊勢 松名瀬の佐波氏

松名瀬の佐波氏記録を纏めたブログです。

1 伊勢(三重県松阪市)松名瀬の佐波氏(系図 、濱神社(現在の松名瀬神社)、佐波九郎左衛門之忠)

2024-12-01 16:36:05 | 記録
<佐波家系図> 久留米藩「御家中略系譜 巻21佐之上」(有馬文庫)には第4代以降~15代までが記載されている

   澤(佐波)九郎左衛門之忠(澤城主:奈良県宇陀市、達磨山館主=永山遺跡)を初代とし佐波家の起源としている。
   紋は丸之内三ツ蔦
   解説:鎌倉時代、春日大社、興福寺の所領の庄官として地元の土豪が任用された。澤(佐波)氏は、宇陀三人衆(澤、秋山、芳野氏)とし て台頭、武士化
した。奈良県宇陀市の伊那佐山・澤城を拠点とした。1353年頃、伊勢国司・北畠氏の影響下に入り、その後、伊賀・伊勢方面に勢力を伸ばす。

   達磨山館は三重県松阪市松名瀬町にあり、海から侵入する敵への防衛拠点、現在、遺跡指定される。

   2代-佐波九郎左衛門之廣 (達磨山館主)
   3 -佐波九郎左衛門之道  (  〃   )   
   4 -佐波十兵衛之治     (  〃   )
   解説:4代 十兵衛之治から「久留米藩御家中略系譜 第21佐之上」に勢州松名瀬に浪人とある
   5 -佐波半兵衛之信    (豊臣秀次、福島正則家臣)
   解説:北畠氏没落(1569年)後、豊臣秀次に奉公。秀次生害(1593年7月)後に浪人。1599年、尾州清州(愛知県清須市)にて福島正則仕える(秀次に切腹
の命を伝えに高野山に行ったのが福島正則だった)。関ヶ原の戦(1600年10月)後、広島藩(広島県:安芸藩と備後の半分)に国替え

   6 -佐波(澤)助左衛門之正(福島正則、有馬豊氏家臣)
   解説:福島備後守の大扈従として使える。備後守に「初代が奈良県榛原の澤城主だった」ことを話した折、命により佐波を澤に改めた(久留米藩略系譜よ
り)。福島正則改易後、1621年浪人。1622年、久留米藩の有馬氏に仕える。

   7 -澤四兵衛供之 (有馬家家臣 久留米藩士)
   8 -澤半右衛門之仲(  〃  )
    9 -澤四兵衛之直 (  〃  )
    10 -澤助左衛門之重(  〃  )
    11 -澤四兵衛之綱 (  〃  )
   12 -澤熊吉之恒  (  〃  )
    13 -澤四兵衛之意 (  〃  )
    14 -澤四兵衛之高 (  〃   )
    明治維新(1868年)時、有栖川宮大総督府直属の御使番として出陣、精勤につき下賜(太政官日誌、明治2年第62号に記録)
     明治2年久留米藩分限帳には、御馬回56番 430石 公事奉行副役
     明治4年(1871年)廃藩置県

     のち佐波半平と改める
    明治11年没
   15 -佐波保輔之直(14代の長男)
   解説:明治14年福島県郡山市の開墾事業に25歳で参加、明治23年山梨県南部に引揚。警察官任官、明治31年42没 

  <有馬文庫 久留米藩「御家中略系譜 巻21佐之上」第4代~15代までが記載される。水害により傷みが激しい>


  16 -佐波潔之家 (15代の長男)
  17 -佐波簡之輝 ( 〃 2男)
   埼玉県の警察官に任官。その後、浦和で写真館経営
  18 -佐波紳夫  (17代3男)大日本帝国陸軍主計少尉
  19 -佐波喜九緒 (18代長男)令和4年没 
20 -(17世男子分家の意。その子?)
    17世は5男4女を儲け、一族の繁栄を切望したが、意気に燃えるもの無く、ただ絶えるのみか
     古今東西、歴史上の栄華を極めることの難しさをつくづく実感する今日この頃

<佐波(サワ)>
 松阪・伊勢では佐波姓をサバと読むのが一般的。初めて松阪市黒部町の意非多神社(オイタ)を調査目的で訪れた際、サワ(佐波)の縁者と名乗っても、当初は話が一致しなか
った。佐波(サバ)→澤(サワ=第6代 助左衛門の項参照)→佐波(サワ)となった。三重県松坂市の電話帳には佐波(サバ)姓が多数掲載されている。また「サナミ」という読
み方もある。
 
  ・西日本NTTハローページ(2009.8.3現在)から「佐波」を抽出した結果:
   三重県の内訳(読み方の違いは電話帳の前後姓から判断した)
    サワ姓 : 1件
    サバ  :89件(うち松坂市内55件、伊勢市内21件)
    サナミ :22件
   (今後、携帯電話普及等で電話帳登録は減少へ)
 

 
<三重県松坂市松名瀬を発祥とする佐波(サワ)氏の系図>

  <濱神社> =佐波氏の氏神様 
   
   かつて飯野郡西黒部村に濱神社あり、明治41年 村社に合祀された無格社(現在は松名瀬神社となる=歴史:西暦1203年八
   王子社創建、1870年宇気比神社と改称、1908年宇気比神社に境内神社の須賀神社、世古の根晋神社、北出の濱神社、松世
   崎の山神社を合祀し、松名瀬神社と改称し今に至る)
   ・三重県の合祀済神社明細帳には「当社は当村佐波某と申者一族にて往古よ祭り・・・・・」との記述あり
   祭神は素戔嗚尊
   境内:86坪(284平方メートル)         
   社殿:桁(左右 77cm)、梁(奥行 56cm)
   信徒:166人
   神社跡の住所:松阪市松名瀬町字北出921(明治33年作成の和紙図に記載あり)



   明治初期の大日本伊勢国飯野郡西黒部村字松名瀬 神社の図(下写真 ダブルクリックで拡大)  

   コメントには「濱神社は塩土神に坐(いま)して、佐波という氏族の特に持斎(もちいつ)きし御社にて字北出(地名)に鎮り、ここを守り坐す神なり」とある

   

※※※

<ご縁の始まり>
 叔父が生前の母に送った1冊の本が長い間、遺品の中に埋もれていた。この本は澤に関する書籍。ある時、何の気なしにその本を開いた。全文が相当ページあり、本来ならそのまま閉じてしまう。が何故か、この時は巻末の解説だけを読み、先祖の系譜を調べてみたくなった。当初は国会図書館等での文献調査が主、次に現地での文献調査等を重ね、2012年に完成させ、配布を済ませた。それにしても記録が残っていたことに深謝。
 
 ・調査期間 約2年
 ・主な調査施設は東京都5(国会図書館、防衛研究所、成蹊大学等)、福島県1、埼玉県2、山梨県1、三重県 11、奈良県5、広島県1、福岡県8箇所
 ・調査費用は約60万円
 ・A3用紙 約340ページ/冊のファイル
 

<ブログ作成の経緯>
 少子化等で松名瀬の佐波氏記録が歴史の荒波に埋もれてしまうことを恐れた。私を可愛がってくれた祖父 簡(イサム)や母の意志でもあった。先ずは松阪の公共施設にファイルの寄贈と思い電話してみたところ、あっけなく断られ悔しい思いをした。そこでウィキペディアに投稿しようと思ったが使用等に疑問が残り、これも敢え無く断念する。複数の言葉を組み合わせてGoogle検索をするとブログの「伊勢 松名瀬の佐波家」が上位に表示されることを知り、佐波氏専用ブログを立ち上げ世間に広く知ってもらうこととした。


 

9 伊勢 松名瀬の佐波(澤)氏 縁者を捜しています

2024-12-01 16:19:21 | 記録
 
①<澤家分家>
 澤剛太郎 明治28年5月29日没------→A
  妻     明治45年3月31日没

               →A:長女:みねの元治元年6月19日生
                  2女:いね 慶応3年1月11日生
                  長男:亀太郎      ---------→B
                  3女:すへ      

                              →B:澤孝好   明治28年7月8日生→?
                                 澤鶴年雄 明治31年3月生→?
                                  頼子  明治35年9月15日生→? 
                                   清子  明治41年1月22日生→?
                    


②<澤四兵衛の弟>
 澤熊蔵 明治3年12月15日没------澤楠次郎→?
                         澤秀之進慶応3年10月21日生→?
                         澤泰助 明治3年 9月25日生→?  

③<澤四兵衛 改:佐波半平の子供>
 長女:駒 →久留米田主丸の林田家に嫁ぎ、改名:林田古満(関係者:林田周次郎、林田広太)→? 
 2女:乙世→福島の太田家に嫁ぎ、改名:太田乙代→?  

④祖父は5男4女を儲け、佐波一族の繁栄を夢見たが意気に燃えるもの遂に現れず空しく、ただ絶え果てるのみか。(2024年) 

8 新日本建設の礎 (その2)  佐波 簡   昭和24年8月10日発行

2013-01-28 11:04:47 | 記録
佐波家 17代 当主 佐波 簡(イサム) 著

 幾多の困難を打開することも、あらゆる矛盾を無くすることも決して不可能ではありません。それには人類が今日まで繰り返してきた、一切の過誤を根絶すること以外、他に方法がありません。そして、お互いに今日以降、新しく生まれ変わった人間になることに精進することが肝要であります。これは即ち、一大精神革命でもあり、あらゆる指導者を生む母胎の改善を促すものであります。私たち一人ひとりが神に感謝し、万物に感謝し、さらに報恩の誠を捧げることが出来るようになりますれば、ここに人類の醜悪なる闘争も根絶されます。そして和衷協力の精神が天下に横溢すれば万古不動の基、即ち新日本建設の礎が出来上がることを疑いません。
 このようなことは確固不動の信念に基づいて実行する時は絶対に可能であります。政治家も、教育者も、宗教家も、官史も、民衆も速やかに醜悪なる闘争を中絶すべきであります。
 人生の行路とは即ち天道に基づいて唯一直線に人道を進むことであります。決して急いではなりません。また道草を食ってもなりません。
 学問をすることも、仕事をすることも、修養を積むことも、一生を通じての大事業であることを忘れてはなりません。私たち人間は春夏秋冬、年々歳々、自然を友として自然を愛し、また自然を語って、楽しい人生を送ることが出来ます。時には天変地異の災厄を被ることもありますが、それは極めて稀な出来事でありまして普遍的かつ連続的の脅威ではありません。むしろ人間社会における矛盾から起きるあらゆる迫害の如きものは、悉く人為に基づくものでありまして、しかも持続的に人間の生活を脅かして停止することのない悪魔の存在でありますから極力これが排除に努力しなければなりません。
 人間社会からこの悪魔が退散しない限りは人は皆、子々孫々に至るまで永遠に苦悶せねばなりません。敗戦後、民主主義を唱える者が果たして自ら民主主義を実践していましょうか、自由と平等を履き違えてはいないでしょうか。真の民主主義、絶対的自由平等などの如きものは人の真心から湧き出づる清らかなる愛情でなければなりません。これら一切の発露を促すものは宇宙の大生命を司る神力によって生じることを確信致します。即ち神の精神に基づいて行動する時に、ここに初めて世界の人類に共通して誤りなき絶対的安全地帯とも称すべき自由平等の規範が確立されます。この上に立って人類社会に貢献する一切の言動が真の民主主義であることを忘れてはなりません。
 私のいうところは、カネを儲けるな、モノを増やすな、そして、ただ平凡に人生を送れと主張するものではありません。個人の経済が成立しないところに如何にして国家の繁栄が望めましょうか。人は皆強く正しく働いて、そして公平に生存するためにあらゆるモノも、カネも、これを独占したり死蔵してはならぬと主張するものであります。さらに懈怠を戒めて精進すべきことを望むものであります。ここに政治、教育、宗教、社会、経済の各部門が道義的に、即ち日本的民主主義に立脚して進歩改善を見ることが出来ますれば、敗戦以来、国歩艱難の道は開拓されまして経済復興の下に国民生活が安定することになります。国民は生活が安定すれば何人も将来に対して希望を持つことになります。
 やがて遂に講和条約が締結されます時は独立国家として文化的平和国家を誇ることも可能であります。私たちの念願する人類永遠の幸福は近き将来に於いて必ず実現することを確信するものでありますが、万一、八千万同胞がさらに反省することもなく迷路を辿る時は人間として万物の霊長たる存在を失って遂に禽獣にも劣る人間社会が無限に展開されてゆくことも敢えて疑わざるところであります。
 時は流れて停まりません。朝に紅顔の美少年も夕に白骨となって、空しく朽ち果てるものであります。これは人生の常であります。今日は人の身の上も、明日は吾が身に迫って来るものでありますから決して対岸の火災視してはなりません。

  古歌に
   「若きとて末を遥かに思ふなよ
    無情の風は時をきらはず」 

  と申されてあります。如何に人間が力を発揮することが出来ましても人力には限りがあります。彼の広大な限りなき世に比すれば人生は実に短いものであります。
 何人も一度は生まれ来る喜びと死に逝く悲しみを知らぬ者は無い筈であります。いたずらに人を苦しめ、人を傷つけ、人を殺し、人の生存を危くし、そして唯独り己のみあるものを独占して、これを他人に施すことなく、以って快楽する者は人間として誇るべき存在ではありません。 このような暴挙は、やがて子々孫々に必ず禍するところが多いことも人類の歴史がこれを証明しています。
 世の中は常に走馬燈のようなものであることも疑いなき事実であります。今日の社会が暗黒であっても明日の社会が光明でないと断言することは出来ません。人間の血潮は常に赤く、絶えず流動して停まりません。実に純潔であります。これが神力に基づくところの真心であります。この真心こそ偉大なる大事を達成する原動力であることを忘れてはなりません。
 今、私は暗黒の世に新日本建設の礎として、ここに貧者の一燈を点じるものであります。幸いに多数の同胞が協力して各々一燈を捧げることが出来ますれば世は移り変わりて八千万燈の光明に輝くことを確信して疑わざるものであります。敗戦以来、今日に至るまで私は新日本建設のため微力を致して、先ず第一に憲法の改正に際して衆議院議員に書を送り、さらに貴族院に改正意見書を呈し、また食糧問題、生活改善などに関して内閣に進言致し、ある時は農林省官房農政記者倶楽部に於いて座談会を開いて協力を求め、或いは思想の善導に政治知識の啓蒙に、民主教育の刷新に、あらゆる機会を利用して運動に挺身致して来ましたところ、幸いに効果を奏したことを密かに感激しています。
 そして今日まで私一人の力でも相当な効果が認められますが将来、私一人の力では無駄であります。必ずや八千万の協力が万事を達成すべきものであります。そして、その源泉はお互い一人ひとりの力であることを忘れてはなりません。
 最後に申し述べたいことは、私たちは如何なる艱難にも耐えて日本の国に生まれたことを感謝しなければなりません。             このように申しますと多数の人は、それは矛盾であり暴言であるといわれるかもしれませんが私たちは最も冷静に沈着に反省したいのであります。建国以来、発展して来た日本は不幸敗戦によって今や興亡の岐路に立っていますが、眼を転じて世界の情勢を観察する必要があります。
 それは戦勝国である英仏や敗戦国である独伊、或いは中国、朝鮮の民衆が現在、如何なる生活を営んでいるかということであります。
 日本の場合、本土が戦場にならなかったことは何よりの幸せであります。例え占領治下にありましても、米軍の好意によって日本の民主化が促進されている限り新日本建設に寄与するところも甚大であることを確信致します。
 私たちが世界の平和に貢献するためには一日も早く独立国となることが肝要であります。
 日本人として日本の伝統を覆すことは祖国を滅亡の淵に追い込むことになります。祖国亡びて、何処にか文明を求めることが出来ましょうか。
 文明なく野蛮にして渾沌たる社会が続く限り永久に平和を望むことは出来ません。天は地を蔽い、地は天を載せて永久に安泰であることは明らかであります。昔より根を枯らして枝葉の栄えた例えは絶対にありません。



6 伊勢 松名瀬の佐波/澤氏(澤 四兵衛之高)

2012-07-22 19:41:16 | 記録
<澤 四兵衛之高(佐波半平)>
  ・「久留米人物誌」
    馬廻組500石。通称は四兵衛。後に佐波半平と改称。慶応3年6月奥羽出張を命ぜられ、明治元年4月大総督宮(有栖川熾仁)に従って使番となり、
    弾雨の中を駆け廻り、衆目を驚かした。
  ・「明治初期 官員録職員録集成1」(自慶応4年5月 至明治元年12月)
    軍務局 御使番  澤 四兵衛
  ・「久留米人物誌」
   明治元年 
    3月27日:関東出張の朝命 有栖川宮熾仁親王の命令下に入る
      28日:筑後隊350名 京都発
    4月18日:芝 増上寺に到着
    5月15日:上野で彰義隊と交戦、残党掃討
    7月 1日:奥羽出兵命令
    7月26日:江戸出発
    8月11日:仙台領菅谷で激戦
    8月16日:仙台領駒ヶ嶺城址の激戦(下記参照)
    9月17日:仙台藩降伏
    10月 1日:仙台城下に入城
    10月27日:引揚命令、仙台藩主以下8名を護送
    12月14日:京都に凱旋
   明治2年
     1月10日:久留米城凱旋 


     
  ・「明治戊辰の役久留米藩出兵紀念編」明治2年論功行賞摘録(伯爵有馬家の奮記に拠る)
    5月15日発表の分
    澤 四兵衛
    大総督府御使番精勤に付奮知130石下賜

  ・「明治戊辰の役久留米藩出兵紀念編」
    此時太政官ヨリ大総督府下参謀タリシ木村三郎氏に金500両 澤四兵衛 磯部鹿之進両氏ヘ金400両宛下賜アリタリ  
  ・「太政官日誌」 明治2年 第62号 
            東京城第25 賞典5
            ○6月2日壬寅
            御沙汰書写
    昨年賊徒掃之攘(=払いのける)砌(=時)、軍務勉励(べんれい=勤め励む)候段、神妙被思食(おぼしめ)、伋為 基慰労目録之通下賜候事
           澤 四兵衛


参考:
<第二次駒ヶ嶺攻防戦> (出典:Wikipedia旗巻峠の戦い)
 駒ヶ嶺を失った仙台藩は駒ヶ嶺北の坂元に集結していたが、駒ヶ嶺を新政府の手から取り戻すべく、奪還のための出兵を軍議において決定する。旧幕軍の春日左衛門の指揮する陸軍隊6小隊も加わり、約3,000名となった仙台藩の戦力は3隊に分けられた。駒ヶ嶺、曹善堂、今泉を同時に攻めて新政府軍を釘付けにした上に、旗巻峠の鮎貝太郎平の兵を動かして駒ヶ嶺の後方から新政府軍拠点の相馬中村城へ攻め込むという戦略を意図していた。攻勢の開始は、部隊編成が整う8月16日と定められた。
 新政府軍総督の四条隆謌は「仙台追討総督」の役目をもって仙台藩と交戦していたが、8月13日、大総督府から「奥羽追討平潟口総督」という新たな役目を受けた。これは仙台藩のみならず、奥羽列藩同盟を戦略目標とする方針転換[26]であった。大総督府はその役目を果たせるように全20回、総勢10,000名におよぶ大規模な兵力増強を決定したが、この時期はいずれも編成途中であり、新政府軍は現有戦力のまま仙台藩の攻勢を迎え撃つこととなった。
<戦闘> [編集]
 8月16日、かねてからの予定通り仙台藩兵は坂元から駒ヶ嶺に向けて出陣した。3隊に分かれて前進する様子は駒ヶ嶺北の新地を哨戒する新政府軍の斥候の知るところとなり、新政府軍もそれぞれ配置につく。この日、前線にいた部隊は熊本藩と久留米藩であった。駒ヶ嶺東、海側の藤崎には熊本藩が入り、久留米藩は駒ヶ嶺の陣で防御を固めた。しかし久留米藩の兵力では駒ヶ嶺の西の山側の地域に配置できず、駒ヶ嶺の西1kmから先には兵が配置されていなかった。 3隊にわかれた仙台藩のうち海側の部隊は、藤崎の熊本藩と交戦する。藤崎は低地であったため熊本藩は上からの射撃を受けたが、熊本藩は胸壁や樹木に隠れ、後方からの援軍を待つことにした。降り始めた雨によって火縄銃を中心とした仙台藩の火力が落ちたのも、熊本藩を落ち着かせることにつながった。一方、駒ヶ嶺の久留米藩は仙台藩の2部隊の襲撃を受けて苦境に陥っていた。仙台藩の山側の部隊が駒ヶ嶺よりに進路を変えたため、元から駒ヶ嶺を目指していた中央部隊とほぼ並列して前進。殺到した2部隊によって、久留米藩は一時陣地の保持が難しい状況となる。仙台藩の先陣を行く西山権弥の隊は駒ヶ嶺の番所を抜き、外郭を制圧、火を放って久留米藩兵の一部が潰走を始めるなど駒ヶ嶺の奪取まであと一息のところまで迫ったが、折りしもの雨はこの頃には大雨となっていた。火勢はたちまちに弱まり、仙台藩の火縄銃、大砲を中心とした火力は激減[27]。降雨の影響を受けない後装銃を用いた新政府軍はかろうじて陣地を維持した。午後3時頃、到着した長州藩良城中隊、岩国藩精義隊中隊が援軍として久留米藩を支援。長州藩は駒ヶ嶺に増援に入り、岩国藩兵は西側を回って仙台藩の側面を突く動きをみせる。岩国藩の横撃は仙台藩の反撃を受けて押し返されたが、駒ヶ嶺は長州藩の到着によって盛り返し、仙台藩は二面に敵をもったことで動きが鈍る。そこへ新政府軍に鳥取藩兵2小隊が到着し、これを機に久留米藩、長州藩は攻勢に移ると、仙台藩は堪えきれずに潰走。駒ヶ嶺の北北西4.5kmの福田にまで追い立てられ、その日の軍事行動を断念した[28]。
 一方、参戦が期待された仙台藩の旗巻峠方面軍だったが、旗巻峠の鮎貝太郎平は派兵の要望を受けたものの、守兵1,200名を総動員しての攻撃には難色を示していた。結局、旗巻峠を守る役目を優先し、この戦闘に参戦させた兵力は細谷直英に率いさせた数小隊(兵数未詳、200以下?)だけであった[29]。この鮎貝の判断に対して、補訂戊辰役戦史の著者大山柏は「駒ヶ嶺方面に呼応して大軍を動かすべきなのに、義務を果たすためだけの少数の出兵を出した」と指摘している。8月16日、細谷の率いる部隊は旗巻峠の麓にある初野へ向けて軍を進めたが、旗巻からの攻撃に備えて配置された鳥取藩2小隊と相馬中村藩2小隊に遭遇、交戦を開始する。仙台藩の細谷は鴉組を率いたゲリラ戦で新政府軍を苦しめた経験がある戦巧者であり、初野に新政府軍を見つけるや、高地に登って上から攻撃した。新政府軍4小隊は一方的に射撃にさらされて初野を放棄。東に約700mに退いて高地に登り、再び仙台藩を迎撃しようとした。細谷は初野に火を放った後に再び新政府軍へ向けて前進。その攻勢に押され、鳥取藩、相馬中村藩とも一時は再度後退の瀬戸際に立たされる。しかし、新政府軍に鳥取藩の4小隊が増援が到着。8小隊と倍増した新政府軍は踏みとどまった。さらには、これに加えて初野の東にある黒木から広島藩が増援に到着した。だが、広島藩は急ぎのあまりそのまま平地に部隊を展開させたため、細谷はこれに攻撃を指示。広島藩の前進も阻まれて、新政府軍苦戦の戦況は変わらなかった[28]。この予想外の苦戦に新政府軍は素早く対応する。津藩兵は駒ヶ嶺への増援のために北に進んでいたのだが、黒木の北に進み出たところで初野の細谷隊への攻撃命令が下り、転進。期せずして回り込む形で細谷隊の左側面に進み出て、一斉に射撃を浴びせかけた。細谷隊は不意をつかれ動揺。雨脚が強くなっていたことから反撃もままならず、結果、多数の死傷者を出しながら旗巻峠へと撤退していった。
 この戦闘による戦死者は新政府軍が3名に対して仙台藩は38名。仙台藩が優勢に戦いを進める局面もあったが、仙台藩の火器は射程と殺傷力で劣るために新政府軍に接近して使用せねばならず、常に死傷者が続出した。また、新政府軍には蘭方医関寛斎を始めとした治療のための人員が随行していたため、戦傷からの死者をある程度抑えることができた。仙台藩の場合、戦傷者は後方の拠点仙台まで連れ帰って処置する必要があり、前線に張り付いたまま適切な治療を施されずに死亡する藩士もいた。

<参考>:①「太政官日誌」明治2年 第62号 東京城第25 賞典5(賞典1~3は公家、大名が対象、賞典4は西郷吉之助を筆頭に大将・参謀格39名、賞典5の軍務勉励に付きまで61名が挙げられる)
②当時の石高:加賀(前田)102万石、薩摩(島津)72万石、仙台(伊達)62万石、尾張(尾張)61万石、紀伊55万石、熊本(細川)54万石、筑前(黒田)47万石、広島(浅野)42万石、長州(毛利)36万石からして、仙台藩との戦の勝敗には重要な意味があり、駒ヶ嶺に於ける四兵衛の奮闘が賞典に結び付いたと思われる
             



5 伊勢 松名瀬の佐波氏(久留米藩 御家中略系譜)

2012-07-22 14:20:53 | 記録
「久留米藩 御家中略系譜21」(篠山神社文庫版)

澤 初め佐波       紋 亀甲丸の内蔦      屋敷久留米城内
   禄四三〇石        丸の内三つ蔦

①十兵衛
    勢州(伊勢国/三重県)桑名郡※松名瀬で浪人をしていた
                                       ※注:松名瀬は飯野郡で桑名郡は現在の桑名市
                                       ※①~⑪はこの系図上の家系継承者
                                       ※青字=有馬文庫原本より追加記載
                                       (  )内は筆者注記した
                                       ?は判読不明文字    
②半兵衛之信(ユキノブ)
   妻 富田左近将監殿 家中 服部次左衛門 女
    勢州松名瀬生まれ 豊臣秀次公へ軽き奉公相勤める    秀次公、ご生害(自害)のあと浪人
    慶長四年 尾州清須に於いて福島正則に仕え、小禄賜る
    関が原の陣 相勤める
    慶長五年 芸州廣島へ国替え後三三〇石賜る
    慶長十七年(西暦1612年)子八月八日没 七十三歳 
・十兵衛
    勢州桑名郡松名瀬住人 
    子孫勢州に在り



③助左衛門之正  澤に変える
   前妻 福島殿 家中 岡田藤兵衛 女
   後妻 山崎浪之丞 女
   後妻 田中筑後守 家中 小林藤兵衛 女
    生まれは伊勢桑名郡※松名瀬
    相続三三〇石にて福島正則に仕える
    福島正則の命により福島備後守の大扈従(だいこしょう)を勤める
    備後守の命により佐波を澤に改める
    元和七年戌 福島家改易(領地没収、国替え)後、浪人  
    春林院様(初代の久留米藩主・有馬豊(とよ)氏(うじ))が久留米に入る時、渡瀬将監(わたせしょうげん、福島家家臣幹部)と同行にて久留米に来る 
    稲次壱岐の肝煎りで久留米に仕える 元和八年亥
    二〇〇石、石崎村柳原に屋敷拝領後、馬廻組(主君の馬の周囲で警護する役目の騎馬武者)
    原陣(島原の乱)の時 御国(久留米)の御用を勤める
    嫡子(家督相続する)四兵衛、名代(代理)として出陣する 寛永十六年卯 
    瓊林院様(有馬忠頼)お部屋付き 寛永二十年未 
    瓊林院様より一八〇石を賜る 手廻組、銀呉服方役にて毎度江戸にお供する
    正保元年申六月 祇園小路屋敷拝領(城下地図参照)
    正保元年十二月二日 瓊林院様、鷹狩りお帰りの際、お立ち寄り、食事を差し上げる。次男 惣右衛門がお目見えこうむる  
    正保三年戌 仰せに付き五〇石を賜り、合わせて四三〇石
    承応元年辰六月十八日没 六十九歳  
・   女 松平相模守家? 荒尾志摩内門左十右衛門 妻
・   女 阿部備中守家中 稲葉善右衛門 妻


④四兵衛供之     初太郎作
              母岡田氏
   妻 渡邉市郎右衛門 女
    生まれは安芸廣島
    父の名代で原陣(島原の乱)のお供 寛永十八年巳  御配当に召出す 
    瓊林院様 お部屋に勤務、寛永二十年未 新しい知行一三〇石。父と同役 銀呉服方役かつ小人裁判
    正保二年酉   日光普請(大規模な土建工事)の時にお供 
    慶安二年丑   ご加恩一三〇石、合わせて二六〇石
    承応元年辰七月 瓊林院様ご帰国時の道中三島に於いて四三〇石を相続、新知二六〇石返還 手廻組
    承応四年未三月 瓊林院様ご逝去後、馬廻組勘定役
    寛文六年    勘定奉行
    寛文十一年亥  侲(シン=わらはべ、ちご童子)名代
    元禄四年未六月二十日 八十七歳 病死 
惣右衛門  初市兵衛    別に系譜あり(分家)
       母 岡田氏      
       妻 永田孫之進 女
・四郎太郎  母 小林氏  早世
・養女    実小林藤兵衛 女
         樋田長左衛門妻 
・女     母小林氏 川村伝左衛門妻
・幸次    妾腹(ショウフク) 浪人 初谷崎太郎左衛門と号し、江戸に住む
       元禄五年申 病死



⑤半右衛門之仲 初孫次郎
        母 渡辺氏
   妻 明石源五兵衛 女
    嫡子にて?無属
    寛文十一年亥 父の名代で馬廻組 諸品裏判役 在方無役 五百人の者裁判在り 普請役 御用銀取立て役
    延宝六年午十一月八日 小物成役 併せ川奉行(延宝七年)
    天和二年戌六月九日  渡瀬将監三番組小頭役
    元禄元年辰八月十六日 先手銃頭
     〃四年未八月二日  跡目四三〇石
     〃十四年巳五月七日 梅林寺本堂建立の時 普請奉行
     〃十五年午正月   梅林寺成就 
    享保三年戌四月十一日 浪人奉行
     〃六年丑十月十八日 侲名代 御時服(家臣が賜る衣服)一 銀五枚拝領  侲四兵衛小寄会
     〃十四年酉十月六日没 八十三歳
・女    北川権左衛門妻
・七左衛門 川村伝左衛門養子
・市五郎  早世



・女   同姓(澤)文右衛門妻
・女   早世
・孫次郎 早世
⑥四兵衛之直    初勘六
   妻 手塚平内女
    享保六年丑十月十八日 父名代 小寄会組 
      〃 十一月十五日 四三〇石を相続
    享保九年辰閏四月十日 大慈公(七代目頼徸よりゆき)御跡乗?  
    大慈公 御次詰御番
    享保九年江戸詰御客対
    御前様 御跡乗御寺の御代参御城へ御太刀納める 
    美世姫 御見桶後 久留米にて御次詰御番
    享保九年六月十日
 御先手物頭
    寛保三年亥三月  榎津御定番
    寛延二年巳十二月 大慈公番屋敷
    入宝暦三年酉八月六日没 六十八歳(病死)
・半兵衛      初七之助  尾関権平養子



⑦助左衛門之重   初次郎三郎  後斯中
   妻 松田伝兵衛女
    宝暦三年酉十一月十三日 四三〇石を相続 馬廻組 城番 併せ明細改方役
    天明七年未正月  老衰に付き願い出て 御役の儀御免  
     〃八年申五月  致仕(官職を辞する)
    寛政十一年未八月五日病死 七十八歳



・女  母松田氏 盲人 寛政十二年申十二月 病死
⑧四兵衛之綱   初乙七  只次   改助左衛門   又改笑雲(宗安寺墓石小)
         実松山辰右衛門二男 
   妻 養父 助左衛門女
    明和八年丑    養子
    天明八年申五月十五日  名代家督四三〇石、馬廻組
    寛政二年戌       大里加番助
     〃九年巳二月十八日  船作事奉行 並びに大里加番 複数の役目を兼ねる
     〃十二年申正月    大里本番
    文化四年卯七月九日   使番格
     〃八年未正月十二日  先手物頭
     〃九年申六月二十二日 鉄砲奉行加役
    文政三年辰二月十一日  依願侲名代老年まで相勤め候に付き銀子二枚拝領
    天保七年申六月十八日  病死
・女  養子四兵衛妻
・女  北御門兵蔵妻
・女  初西村門作前妻離別
    後松山九兵衛妻
・女  妾腹 鳥取利吉妻



・女  母沢氏  早世
⑨熊吉 母 同
   妻 土方兵蔵女離別
    文政三年辰二月十一日  名代家督四三〇石 馬廻組
     〃八年酉十二月十九日 本郷町穀?定番
  天保十五年辰十一月五日 病死    
・蔵太 初乙七
     母 同   若死
    天保八年酉十月十日 病死 


⑩市之助之意  母土方氏   改四兵衛
   妻 小河吉右衛門女
    弘化二年巳二月二十七日 跡目相続四三〇石 馬廻組 
     〃四年未三月二十日  病死



・女  母小河氏  佐藤隼人妻 年若に付き隼人死去後引取
⑪達(辰)次 母 同      改四兵衛 改之高        ※澤 四兵衛 之高=「四兵衛」を仮名(けみょう)という
   妻 島田金次郎妹
    弘化四年未七月十七日  跡目相続四三〇石 馬廻組
    明治二年巳一月十五日  大総督府使番、精勤・兵隊用兵に相成り奮励の勤労により旧知一三〇石下賜
     〃   五月十日   弟 澤熊蔵に分地願い通? 仰せ付け候
     〃   五月二十一日 公事奉行副役
・良次郎 母 同  改熊蔵別系譜あり
・宇三郎 母 同
 ・女  横山恰 妻 離別 



⑫傳   母島田氏     →保輔に改名
・女   母同   早世 
・女   母同      
・虎之進 母同   早世
・半治  母同       →武田家へ養子
・女   母同 
・女   母同 
・女   母同 
 






<澤四兵衛之高の弟>
   熊蔵
    明治二年巳五月十日  兄四兵衛知行の内一三〇石依願分地
     〃三年午十二月十五日 病死


・楠次郎 実松山信義の弟
    明治四年未二月九日 亡父の跡目相続士族
    明治十八年十二月十八日???清瀬村へ送?
・秀之進 母妾腹     慶応三年十月二十一日生
・泰助  母同      明治三年九月二十五日生






このほか久留米藩には「正徳諸士系図」(正徳元年~六年(1711~1716年))もある。(参考:明治元年=1868年)