諸田玲子著 「ともえ」
膳所の義仲寺、義仲、巴、芭蕉、智月尼、四つ巴の魂の邂逅の物語。諸田玲子氏の小説的想像力が、芭蕉が近江を終焉・永眠の地に選んだ謎に挑む。
有ると無き 二本さしけり けしの花
わが年の よるともしらず 花さかり 智月
旅の果て しばし近江の 小春かな 佐亭(管理者)
和野和夫著 「風狂の人 菅沼曲水」
芭蕉が「幻住庵記」で、「勇者菅沼曲水子」と呼んだ近江蕉門の重鎮にして膳所藩の重臣・菅沼外記定常の激烈な最期を描く。
三河以来の誉の家の断絶を覚悟してまで、俳諧の筆ではなく、鎗で描いたこととは・・・。
おもふこと だまっているか ひきがえる 曲水
蕉門とは、思えぬ句だが、よほど武家勤めで、鬱屈したものが有ったのか・・・。
この事件の余波がなければ、膳所は、今の松山のように蕉門以降の俳句が栄えた俳句の聖地になっていたかもしれないと悔やむ説がある。
しかし、それは、今からでも遅くはないのではないか。
この事件は、芭蕉が亡くなってから二十年近く後のことだが、芭蕉も生きていたら、世俗の争闘から身を引いた彼も、惜しみ悲しむことはすれども、「勇者曲水、武士道、やむにやまれず」と、曲水(曲翠)を非難することは、なかったかもしれない。
しかし、それにしても膳所藩では、菅沼家および菅沼翠事件は、抹殺されたのか・・・膳所での菅沼曲翠の名誉回復いや、存在痕跡承認?は、昭和後半になるまで実に約二百五十年間、なされることはなかった。
昭和四十四年(1969)
七月、膳所不動寺筋(現・中庄一丁目)の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑建立。
昭和四十八年(1973)
義仲寺境内に「曲翠墓」建立。没後、実に二百五十七年、初めての建墓である。