先日のO先生のメールにこんな一節がありました。
その中の「幕末の会津藩と同様の運命の皮肉」とは。
今日は少し会津の歴史について書いてみたいと思います。
O先生は私がK高校に入学した年、遠く福島から赴任して来られました。
先生の赴任は、福島と鹿児島との交流の一環だったと記憶しています。
O先生が鹿児島に赴任すると決まった時、
周りの人に「あそこは敵の地ぞ!」と言われたことがあるそうです。
高校生の私には、なぜ福島からわざわざ先生が来たのか、
福島の人が鹿児島を敵視しているのか、さっぱりわかりませんでした。
時代は遡って明治、戊辰戦争に話を移しましょう。
大政奉還によって徳川幕府の治世は終焉を迎えました。
会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、薩摩・長州と対立することになります。
薩摩・長州を中心とした新政府は、幕府方の首謀者として会津藩の追討を開始。
軍力にまさる薩長軍は旧幕府軍を次々と撃破します。
最後まで残った会津は孤軍奮闘の甲斐なく敗北。
この戦いでは、少年部隊である白虎隊の自決など様々な悲劇が生まれました。
中でも悲惨だったのが、新政府軍による遺体埋葬の禁止です。
新政府軍は、戦死者・犠牲者を賊徒として埋葬を許さず、
戦いに破れた兵士や犠牲者の亡きがらは葬られることなく、
風雨にさらされ、鳥獣に食い散らかされたそうです。
藩のために最後まで戦った仲間や犠牲となった家族の亡きがらが
見るも無残に捨て置かれた心境は察してあまりあるものです。
その後、敗れた会津藩は領地を没収され、斗南藩(青森県下北半島)に移されます。
斗南は不毛の地であり、そのため生活は過酷を極め、
飢えと寒さで命を落とすものが続出したそうです。
慣れ親しんだ故郷を離れ、苦しい生活を余儀なくされる。
家族や仲間の亡がらを埋葬することもままならない。
原発事故によって、福島県民が今まさに置かれている状況と同じと言えます。
先生のおっしゃった「幕末の会津藩と同様の運命の皮肉」とは
こういうことを指しているのだと思うと、言いようのない切なさがこみ上げます。
このような時代背景が会津の人達の怨恨、
ひいては薩摩は敵の地、と言われる所以でしょう。
しかし、先生の交流にも見られるように、
歴史的な対立感情は現代ではだいぶ薄れているようです。
実際「薩摩は敵の地」というのもちょっとした冗談でしょうし、
福島県民と鹿児島県民がいい関係を築けるのはいうまでもありません。
しかし、薩摩っこは福島県民の恨みを買ったことなんかさっぱり忘れ、
後世に伝えることすらしていないのも現状です。
だからこそ私は、薩摩の歴史を受け継ぐものとして、
歴史的な背景も踏まえた上で、
福島に何かできることはないかと思案する毎日です。
↓↓久しぶりに歴史だ~。原点クリック!
『福島県民は今、復興ための「坂の上の雲」を見失いつつあります。
災害に見舞われても、そこに「山は青きふるさと、水は清きふるさと」があれば、
復興への気力が湧くと思います。
一時疎開をしていても、いつかはふるさとへ、という希望が持てるでしょう。
しかし、見えない毒素に覆われたふるさとしか残らないとしたら・・・
幕末の会津藩と同様、運命の皮肉を感じます。』
災害に見舞われても、そこに「山は青きふるさと、水は清きふるさと」があれば、
復興への気力が湧くと思います。
一時疎開をしていても、いつかはふるさとへ、という希望が持てるでしょう。
しかし、見えない毒素に覆われたふるさとしか残らないとしたら・・・
幕末の会津藩と同様、運命の皮肉を感じます。』
その中の「幕末の会津藩と同様の運命の皮肉」とは。
今日は少し会津の歴史について書いてみたいと思います。
O先生は私がK高校に入学した年、遠く福島から赴任して来られました。
先生の赴任は、福島と鹿児島との交流の一環だったと記憶しています。
O先生が鹿児島に赴任すると決まった時、
周りの人に「あそこは敵の地ぞ!」と言われたことがあるそうです。
高校生の私には、なぜ福島からわざわざ先生が来たのか、
福島の人が鹿児島を敵視しているのか、さっぱりわかりませんでした。
時代は遡って明治、戊辰戦争に話を移しましょう。
大政奉還によって徳川幕府の治世は終焉を迎えました。
会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、薩摩・長州と対立することになります。
薩摩・長州を中心とした新政府は、幕府方の首謀者として会津藩の追討を開始。
軍力にまさる薩長軍は旧幕府軍を次々と撃破します。
最後まで残った会津は孤軍奮闘の甲斐なく敗北。
この戦いでは、少年部隊である白虎隊の自決など様々な悲劇が生まれました。
中でも悲惨だったのが、新政府軍による遺体埋葬の禁止です。
新政府軍は、戦死者・犠牲者を賊徒として埋葬を許さず、
戦いに破れた兵士や犠牲者の亡きがらは葬られることなく、
風雨にさらされ、鳥獣に食い散らかされたそうです。
藩のために最後まで戦った仲間や犠牲となった家族の亡きがらが
見るも無残に捨て置かれた心境は察してあまりあるものです。
その後、敗れた会津藩は領地を没収され、斗南藩(青森県下北半島)に移されます。
斗南は不毛の地であり、そのため生活は過酷を極め、
飢えと寒さで命を落とすものが続出したそうです。
慣れ親しんだ故郷を離れ、苦しい生活を余儀なくされる。
家族や仲間の亡がらを埋葬することもままならない。
原発事故によって、福島県民が今まさに置かれている状況と同じと言えます。
先生のおっしゃった「幕末の会津藩と同様の運命の皮肉」とは
こういうことを指しているのだと思うと、言いようのない切なさがこみ上げます。
このような時代背景が会津の人達の怨恨、
ひいては薩摩は敵の地、と言われる所以でしょう。
しかし、先生の交流にも見られるように、
歴史的な対立感情は現代ではだいぶ薄れているようです。
実際「薩摩は敵の地」というのもちょっとした冗談でしょうし、
福島県民と鹿児島県民がいい関係を築けるのはいうまでもありません。
しかし、薩摩っこは福島県民の恨みを買ったことなんかさっぱり忘れ、
後世に伝えることすらしていないのも現状です。
だからこそ私は、薩摩の歴史を受け継ぐものとして、
歴史的な背景も踏まえた上で、
福島に何かできることはないかと思案する毎日です。
↓↓久しぶりに歴史だ~。原点クリック!