サトタビ!

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歴史の皮肉。

2011年03月31日 | 県外
先日のO先生のメールにこんな一節がありました。


『福島県民は今、復興ための「坂の上の雲」を見失いつつあります。
災害に見舞われても、そこに「山は青きふるさと、水は清きふるさと」があれば、
復興への気力が湧くと思います。
一時疎開をしていても、いつかはふるさとへ、という希望が持てるでしょう。
しかし、見えない毒素に覆われたふるさとしか残らないとしたら・・・ 
幕末の会津藩と同様、運命の皮肉を感じます。』



その中の「幕末の会津藩と同様の運命の皮肉」とは。

今日は少し会津の歴史について書いてみたいと思います。


O先生は私がK高校に入学した年、遠く福島から赴任して来られました。

先生の赴任は、福島と鹿児島との交流の一環だったと記憶しています。


O先生が鹿児島に赴任すると決まった時、

周りの人に「あそこは敵の地ぞ!」と言われたことがあるそうです。


高校生の私には、なぜ福島からわざわざ先生が来たのか、

福島の人が鹿児島を敵視しているのか、さっぱりわかりませんでした。


時代は遡って明治、戊辰戦争に話を移しましょう。

大政奉還によって徳川幕府の治世は終焉を迎えました。

会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、薩摩・長州と対立することになります。


薩摩・長州を中心とした新政府は、幕府方の首謀者として会津藩の追討を開始。

軍力にまさる薩長軍は旧幕府軍を次々と撃破します。

最後まで残った会津は孤軍奮闘の甲斐なく敗北。

この戦いでは、少年部隊である白虎隊の自決など様々な悲劇が生まれました。


中でも悲惨だったのが、新政府軍による遺体埋葬の禁止です。

新政府軍は、戦死者・犠牲者を賊徒として埋葬を許さず、

戦いに破れた兵士や犠牲者の亡きがらは葬られることなく、

風雨にさらされ、鳥獣に食い散らかされたそうです。


藩のために最後まで戦った仲間や犠牲となった家族の亡きがらが

見るも無残に捨て置かれた心境は察してあまりあるものです。


その後、敗れた会津藩は領地を没収され、斗南藩(青森県下北半島)に移されます。

斗南は不毛の地であり、そのため生活は過酷を極め、

飢えと寒さで命を落とすものが続出したそうです。


慣れ親しんだ故郷を離れ、苦しい生活を余儀なくされる。

家族や仲間の亡がらを埋葬することもままならない。

原発事故によって、福島県民が今まさに置かれている状況と同じと言えます。


先生のおっしゃった「幕末の会津藩と同様の運命の皮肉」とは

こういうことを指しているのだと思うと、言いようのない切なさがこみ上げます。


このような時代背景が会津の人達の怨恨、

ひいては薩摩は敵の地、と言われる所以でしょう。


しかし、先生の交流にも見られるように、

歴史的な対立感情は現代ではだいぶ薄れているようです。

実際「薩摩は敵の地」というのもちょっとした冗談でしょうし、

福島県民と鹿児島県民がいい関係を築けるのはいうまでもありません。


しかし、薩摩っこは福島県民の恨みを買ったことなんかさっぱり忘れ、

後世に伝えることすらしていないのも現状です。

だからこそ私は、薩摩の歴史を受け継ぐものとして、

歴史的な背景も踏まえた上で、

福島に何かできることはないかと思案する毎日です。


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福島よりの便り③

2011年03月29日 | 人々
東電をはじめ、警察、消防など多くの人が毎日奮闘を重ねている福島第一原発。

電気が通れば万事収まると思っていた私の認識は甘かったかもしれません。

通電したという報道でほっと一安心していたのに、

それからも原発はなかなか終息に向かいません。


少し心配になった私は、近況報告も踏まえて、

再度福島のO先生にメールをしました。

以下、O先生からの返事をご紹介させていただきます。



『ご心配いただきありがとうございます。
こうしたメールをいただくのが一番の励ましです。
こちらは物流は回復してきましたが、ガソリンはまだ駄目で、
3000円分入れるのに2時間から3時間待ちます。
正常化するにはあと1週間ぐらい必要かもしれません。

私はいつまでも暗く過ごしていても仕方がないと思い、
高速道路が再開通したので、息子を送りかたがた、家族で千葉旅行をしてきました。
被害のあっ た銚子市は避け、九十九里浜をドライブしてきました。
ヤシの木も生えていて、のんびりとした良いところでした。
ガソリンを満タンにできる幸せも感 じてきました。
千葉市内の夜の町は、千葉大学の卒業式があったせいで大混雑!
暗くなった世相を変えるには、こういう若者のパワーが必要ですね。

S津先生はなつかしいです。私がPCでメールを初めて出した相手がS津先生です。
まだ古いメアドが残っているかもしれません。元気でいるとお伝えください。
スガさん帰鹿もよい選択だと思います。あの計画停電というやつはなかなか曲者で、
落ち着いて生活できないと思います。なにしろ水も出ななるわけですから。


福島は原発事故のおかげで大混乱です。
30キロ圏内は、地震による倒壊家屋の撤去も、津波の犠牲者の捜索もできません。
岩手・宮城に比べて地震津波の死亡者の数が少ないのは、
捜索自体 ができていないからです。
風評によって、いわき市などは物資が入らず食糧不足が深刻で、
水道の復旧工事もできません。
水の汚染はどこまで、いつまで続くのか。
農作物は出荷規制より重い「摂取規制」ですから、農家は大打撃です。
自分で育てた野菜を自分で食べること ができないわけです。
消費者も輸送料金を上乗せした価格で、他県産の野菜を買うしかありません。
海産物もだめでしょう。福島ブランドは、今後しばらくブラックブランドとして
市場から排除されていくことになるのでしょうね。

学校は、建物自体に被害の出たところもあるし、今でも避難所になっている所も
多いので、いつ始めることができるのかわかりません。
JR東北線も福島県と宮城県での被害が大きく、
部分開通を積み上げていっても5月に正常化するかどうかというところで、
さしあたって生徒の足がありません。毎日が流動的です。

福島県民は今、復興ための「坂の上の雲」を見失いつつあります。
災害に見舞われても、そこに「山は青きふるさと、水は清きふるさと」があれば、
復興への気力が湧くと思います。
一時疎開をしていても、いつかはふるさとへ、という希望が持てるでしょう。
しかし、見えない毒素に覆われたふるさとしか残らないとしたら・・・ 
幕末の会津藩と同様、運命の皮肉を感じます。』




私はこのメールを見てしばらく考え込んでしまいました。

報道で被災地の大変さを知っていたはずなのに、

被災者の苦しみをたくさん見てきたはずなのに、

先生からの生の声を聞いて、

想像以上に困難な状況であることを初めて実感した気がします。


愛する郷土がこんなにもつらい状況におかれていることに、

先生はとても胸を痛めておられるのでしょう。


私にできることは何かあるのだろうか。

できることは数少ない。

何もできないに等しい。

何か役に立ちたいのに、もどかしくて悔しい。。。


せめてできることは、祈り、案じ、思いを届けること。

先生、落ち着いたらまた福島を案内して下さいね。



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横浜からの避難民。

2011年03月26日 | 人々
地震の影響がいろんなところに出ています。

遠く離れた鹿児島のスーパーでも水がこの通り。





すっからかんです。

鹿児島から親戚縁者に水を送る人も多いでしょう。

うちの近くのスーパーでは、こんな状態でしたが、

あるコンビニではまだ水がたくさん置いてあって、

「お水の在庫はまだあります。東京にも発送できます。」

と書かれてありました。


この地震の影響は、水以外の思いがけないところにも。

お昼に横浜のスガさんからメールが来ました。

「今日の夜、話せる?」

横浜も大変だろうになぁ。水が欲しいとかのお願いかな?

と思って、久しぶりの長話を楽しみに電話を待っていました。

そして夜、携帯に電話がかかってきたので勇んで出たところ、

スガさん、少しにやついた声で、

「S美、ピンポンしていい?」

と言うではないですか!

「はい?ピンポン?どこを??」

「S美んち(笑)」

「え~~~っ!!」





全くこの子は、私を驚かせるために、

鹿児島に帰ってくることを内緒にしていたのです!

地震やら計画停電やら品薄やらで、

母体にはとてもストレスな状況でしょうから、

思う存分鹿児島でゆっくり静養して下さい。


それにしても、こんなサプライズ久しぶりでした(笑)

地震の影響はいろいろな所に出ていますが、

私はおしゃべり仲間が鹿児島に帰ってきてくれて、

ちょっと嬉しかったりもしました。


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ハッピーウェディング。

2011年03月24日 | 人々
こんにちワン。

さて、3年前に「嫌な気持ちを我慢するのは精神衛生上よくない!」

と前職をえいやと退職したわたくし。

現代の若者にありがちな行き当たりばったりの転職活動はすぐに困窮し、

藁にもすがる思いで、ハローワークの職業訓練に応募をしました。

そこの会計スペシャリストというクラスで出会ったのが、この素晴らしい仲間です。





(一人、会スペ以外の人も含まれていますが)

この仲間の特徴は、平均身長の圧倒的高さです(笑)

私、一応162㎝はあるのですが、このメンバーの中に入ると

とたんにちっちゃくなってしまいます。


この仲間の中から、紆余曲折周りの思惑なんのそので、

めでたくカップルが誕生しました!!






新郎新婦の出会いの場になったということで、

会スペのみんなでハンドベルの余興を致しました。

曲はいきものががり「ありがとう」


N姉さんがピアノ伴奏をし、他のメンバーでベルをリンリン鳴らし、

難しい所は歌を歌って盛り上げる、という女の子らしい余興です。

(初めははりきってKARAを踊るつもりでしたが、

さすがに縁起が悪かろうと断念。。。)


私は下手に場数を踏んでいたのが悪かったらしく、

大勢の前に立っても緊張らしい緊張をせず、

新婦が感極まって涙を拭いている姿などが目に入ってしまいました。

あ、やばい。

予想はしていたけれど案の定、公衆の面前でぽろぽろともらい泣き。。。


歌いながら泣くという姿を大勢の前で披露してしまったことを後から反省。

震災の件もあって、涙腺が弱っていたのでしょう。

歳をとると、涙もろくなるとも言いますが、

もともとがすぐ感情移入する方なので、

泣き虫なのは歳のせいばかりではありません。

なにせ私は生まれつき「感情」先行型だそうですから。


この結婚式には、はるばる群馬からAちゃんも来てくれました☆

群馬で出産したAちゃん。みんなに請われて子供を二次会に連れて来てくれました。





荒川しずか似のクールビューティーAちゃんと、

沖縄の血を引くちょっと濃い目の旦那様の

どちらに似るのか今から楽しみです☆

H君は人見知りもせず、

みんなにかわりばんこに抱っこされて大人気でした。


結婚式は何度出席してもいいものですね。

二人の新しい門出に最大の祝福を!!!


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兄弟すれ違い。

2011年03月22日 | 人々
地震で混乱している中、のっぽのお兄さんが東京から帰ってきました。

福岡で同僚の結婚式があるということで、のっぽさん久々の帰省です。

(Rちゃんは妊娠中のため今回は東京でお留守番です)


弟は金曜の夜に帰ってきて、土曜・日曜滞在し、

月曜の朝に帰るという日程だったのですが、

土曜は弟が結婚式、日曜は私が結婚式、ということで、

久しぶりに帰ってきたのにお互いすれ違いで

兄弟の会話はほとんどできませんでした。。。


弟は若さも手伝って、結婚式4次会まで出席し、

夜中の3時まで飲み、朝7時の新幹線に乗って帰ってきたそうです。

は~、アラサーの私にはこんなことできません。。。





ほぼ徹夜の状態で帰ってきて、翌日もいろいろ連れまわされたらしく、

私が結婚式から帰ってきた夜はこのような状態でした。


帰った時くらい何か話をしようと思い、いろいろと会話を試みるのですが、

もともと口数は多くないのっぽさん。

疲れていたこともあってか、会話のキャッチボールが続きません

いいボールが返って来ないと、投げる方もだんだんつまらなくなるもので、

あっという間に球数が尽きてしまいました。

Rちゃん、彼と毎日一体どんな話をしているのですか!?


遠くにいても、会話が続かなくても、

家族が無事で元気にいてくれればそれで良いのです。


のっぽさんは、あっという間に東京へと戻って行きました。

東京での暮らし、くれぐれも気をつけてね。


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