一句一会

萱吹 興の俳句道場へようこそ。

玉蜀黍丸かじりして明日待つ

2008年09月22日 | Weblog
「詩がわからない」ということをわかるために

・ 自分の感情を美しい言葉で書けば詩になるのではない。本来的な詩を書くということは、この宇宙の中で一回限りの己の人生を、深く、そして静かに見つめることのできるものだけができるのである。
・ 詩とは認識への焦慮なのです。それが詩の願いです。(ブロッホ)
・ 詩作は一種のわがままである。(ゲーテ)
・ 世間の普通の人は詩など読まない。一体何のために書くのだ。(ノサック)
・ 詩人の不幸ほど甚だしいものは無いでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるだけでなく、それらを解明するという義務も負うているからです。(レイナルド・アレナス)
・ 芸術家は自分のために‐自分のためにだけ‐創造するのだということを知らねばならぬ。(リルケ)
・ ポエジーとは想像力である。つねに新しく自己を世界の中で、世界を自己の中で経験し、再認する能力である。だからこそどのポエジーも、その本質において「擬人観的」なのだ。さもなければ、それはポエジーではない。そして正にこの理由において、ポエジーとは子供らしさと同族なのである。
・ 子供の文は、みな散文詩である。
・ ポエジーとは日常的な表現や意味を超えて、言語の可能性を開こうとする試みである。
・ 詩は音楽に憧れる。精神が凝縮された意味の結晶体である。
・ ポエジーとは新しい言葉の結合のもたらす新鮮さ、新しい言葉の意味空間の創出である。
・ 詩は新しい関係を発見することである。(西脇順三郎)

 以上、詩とは何かについて、インターネットを検索してみた。出典がわかるものもわからないものもあるが、大体のイメージが掴めたように思うので、これらを基に自分なりに、この問題について考えておきたい。
 若いときから詩や詩人たちと無縁ではなく、ランボオやボードレールに浸らなかったわけではないにせよ、小説や音楽ほどには深い感動を受けたという記憶はない。一応は表面をなぞっても、よく理解していたとはいい難いようである。つまり詩は私にとって、理解の届かない高嶺の花のようなものだった。それ故、詩集は買っても書棚の最上段にひっそりと女神のように鎮座していただいていた。自分の原点がそこにあるかのようなのだが、触れざるべき聖域として‥‥‥。
 最近は俳句を少しかじるようになって、広い意味で同じ詩の世界だとは思うのだが、俳句には定型と季語という約束事があり、はじめから共有言語空間をもっているので理解しやすいともいえる。しかし、ここでは難解といわれる自由口語詩、特に象徴主義を通過した現代詩をイメージして考えてみたい。
 詩は言葉に新しい意味の空間を付与しているとするなら、その意味空間が広ければ広いほど、深ければ深いほど、我々には理解が困難になる。理解できるのは、ほぼ同じ言語空間を共有している詩人のみという負の表現活動になる。アインシュタインの当時の最新理論も、理解できるのは世界に十指に満たないといわれていた。これはもちろん数学的技術力が劣っていたというようなことではない。時間が伸びたり縮んだり、光が曲がったりするという結論を、当時の世界観ではどうしても受け入れ難かったということであろう。そういう意味で百年、二百年後の人がわかってくれるといって、夭折した山本陽子という詩人も同じような存在かもしれない。
 リルケのいうように、自分のためにだけ創造するという詩は、他を拒絶することにもなる。しかし活字表現をも拒絶しないのは、その認識をしたものに限るといっているようだ。自分のためであればあるほど世界と繋がり、ホワイトホールに抜け出るように新しい高次の意味が生じると逆説的にいっているわけだ。この意味で、活字化される詩というものは、大変な重い活動の結果ということになる。言葉の新しい意味の提示であり、世界の進むべき方向の示唆ともなる。もちろんすべてが、バイブルとなるわけではない。「世界のことなど知りはしない、自分は己のためにだけこれを書く」と覚悟した詩人のみが成しうることである。
 散文や論文と違い、コンテクストあるいは共有される意味空間が作者と読者で異なるのであれば、難解なのは当たり前である。散文でこれをやれば、誤解や混乱の元になり、論文でこれを行えば飛躍となる。詩だけがこれを許されている。だからこれを利用しない手はない。しかしその全人性を判断する尺度を、我々は持ってはいない。文学賞等も一般論として評価されたということだけであり、本質的にこの問題を解決しているわけではない。
 いいたいこと、あるいは書きたいという衝動がまずあって、いや時に、言葉とともにいいたいことも発生しているという気もするのだが、それにふさわしい言葉の選択が次にくるということならば、普通にわれわれが歌や俳句、また作文において行っている方法である。しかし詩の世界にあっては、言葉はまず詩によって新しい意味の空間が付与される。そして言葉が現実化して世界を作っていく。やはり「初めに言葉ありき」である。鶏と卵の話ではない。この意味で詩人とは実は、奇跡的ともいえる独自の方法で世界に意味と方向を与える、創造主=神に最も近い導者なのである。
 詩についていろいろ考えてみたが、随筆というほどには文学的ではなく、論文というほどには厳密ではない中途半端な雑文になってしまったようである。しかし私は、そのどちらも書きたいとは思わない。私もまた、認識を深めるために、自分のためにだけ書いている。‥‥‥さあ、詩がどんどん面白くなってきた。