から回りシンドローム

やること、なすこと、から回り。。それでも地球は回ってる。1分間に、45回転のスピードで。。。

ハム史 その13(1968~1969年)

2006-01-31 12:19:17 | 北海道日本ハム
「ファイターズ史」 第13回


1968(昭和43)年

水原茂監督が去ったフライヤーズに、
「青バットの大下」が戻ってきました。

大下弘氏、監督就任です。

かつてフライヤーズ在籍時に首位打者、本塁打王を各3回も獲得した大下氏。
この名選手の采配に注目が集まりましたが、現実は厳しいものでした。。

開幕から伸び悩んだフライヤーズは迷走を続け、
80試合を終えた時点で30勝46敗4分(勝率.395)という危機的な状況。

そしてなんとここで、大下弘監督はシーズン途中にして退任してしまうのです。

飯島滋弥氏に監督をバトンタッチされたもののチーム状況に変化はなく、
この年の最終的なチーム成績は、135試合を51勝79敗5分(勝率.392)。
首位の阪急からは29.0ゲームも離され、チーム史上初の最下位に沈んでしまいました。

チーム力が低下しているときにたまたま監督就任してしまったのか、
それとも大下氏に監督としての資質が備わってなかったのか。
それはわかりません。

ただ、戦後のプロ野球を支えてきたかつての名選手が、
このような形でユニホームを脱ぐことになってしまったというのは残念でなりません。。

なおこのシーズンのタイトリストは張本勲外野手のみ。
打率.336で2年連続3度目の首位打者を獲得し、9年連続のベストナインに選ばれています。

日本シリーズは巨人が4勝2敗で阪急を下してV4。


1969(昭和44)年

前年ついに最下位となってしまったフライヤーズ。
松木謙治郎氏(主に戦前、大阪タイガースで活躍)を監督に据え、新たなスタートです。

しかし・・・どうにもこうにも成績は上向きません。

水原監督時代を支えた投手陣の弱体化は著しく、尾崎行雄投手は前年に続いて0勝止まり(2敗)。
2年前の新人王、高橋善正投手は3勝11敗の誤算。
4年目の森安敏明投手(第1回ドラフトの1位指名選手)は、
毎年コンスタントに2ケタ勝つものの、それ以上に負けて負け越し続き(この年は11勝15敗)。

ルーキーに頼らざるをえないような布陣では、低迷もいたしかたないところでしょうか…。

この年のチーム成績は、130試合を57勝70敗3分(勝率.449)で、
首位の阪急(3連覇)から19.5ゲーム差の4位に終わっています。

それでも張本勲外野手は打率.333で3年連続となる首位打者を獲得し、
実に10年連続となるベストナインにも選ばれています。
そして大杉勝男一塁手も2年ぶりにベストナイン獲得。

日本シリーズは、巨人が阪急を4勝2敗で下してV5達成!!!!!
3年連続同じカードで、同じ勝敗数という奇遇。

またこの年の10月8日、
西鉄・永易將之投手の八百長事件(いわゆる「黒い霧事件」)が発覚しています。

永易投手は1964~67年まではフライヤーズに在籍しており、
‘65年シーズンには2ケタの10勝あげています。
そんな投手が八百長に手を染めるとは・・・
非常に残念な出来事です。。。

夜景

2006-01-29 20:09:59 | 短歌
月曜が憂鬱です…。カラニシです。

久々にベタな短歌でも一首・・・



闇空の 下にまばゆく 輝ける 明日の光 君の微笑み



昨夜たまたま夜景を堪能しましたよ。。

美しかったです。。。


夜の暗闇があってこそ、輝くことのできる光がある。

だから・・・
暗く沈んだ気分のときこそ、笑顔で頑張るべきなんじゃないかなぁ?

強がりでも、作り笑顔でも構わない。

その笑顔の輝きを、見てくれている人がきっといる…。

ところで夜景って、
1つ1つの小さな光が連なって大きな芸術を生み出してますよね。


みなさんのたくさんのステキな笑顔。

僕は見ています。。


ってことで、、

今週も一緒に頑張っていきましょ~~!!


カラニシでした。

血脈 その12(テイトオー、アサデンコウ)

2006-01-28 18:43:14 | 競馬
「戦後のダービー馬の血脈」シリーズ 第12回


1966(昭和41)年

馬券の売上げ総額が1000億を突破し、日本経済の高度成長もみるみる加速。
「カラーテレビ、自動車、クーラー」が、新三種の神器としてもてはやされました。

この年のダービーを制したのは、

テイトオー(1963年生)。

このテイトオーの父は、Solonaway(ソロナウェー)(1946生)。

これは前年のダービーを制したキーストンの父と一緒。
ソロナウェー産駒(さんく)のダービー連覇です!!

ソロナウェーの父(以降、矢印のみ表示)が Solferino(1940生)
→ Fairway(1925生)
→ Phalaris(1913生)※Kalanisiの7代父
→ Polymelus(1902)
→ Cyllene(1895)
→ Bona Vista(1889)
→ Bend Or(1877)
→ Doncaster(1870)
→ Stockwell(1849)
→ The Baron(1842)
→ Birdcatcher(1833)
→ Sir Hercules(1826)
→ Whalebone(1807)

Whaleboneからは3代遡ってEclipse
そこからさらに4代遡って「ダーレーアラビアン」につながります。


では、テイトオーの母はいうと、マナスル(1951生)。

マナスルの父は、シマタカ(1944生)。
そしてシマタカの父が・・・プリメロ(1931生)ですよ。。
ホントに根強いプリメロの血。

もう何度も登場しているのですべての血脈は辿りませんが、
プリメロの父はBlandford(1919生)で、
プリメロの13代父が Eclipse(1764)
そこからさらに4代遡って「ダーレーアラビアン」につながります。



続きまして・・・
1967(昭和42)年のダービーを制したのは、

アサデンコウ(1964年生)

アサデンコウの父は、Si Furieux(シーフュリュー)(1957生)。

シーフュリューの父(以降、矢印のみ表示)が Sicambre(1948生)
→ Prince Bio(1941生)
→ Prince Rose(1928生)
→ Rose Prince(1919)
→ Prince Palatine(1908)
→ Persimmon(1893)
→ St.Simon(1881)
→ Galopin(1872)
→ Vedette(1854)
→ Voltigeur(1847)
→ Voltire(1826)
→ Black lock(1814)
→ White lock(1803)
→ Hambletonian(1792)
→ Eclipse(1764)

ということで・・・

シーフュリューから15代遡ってEclipseに辿りつき、
そこからさらに4代遡ってダーレーアラビアン辿りつきます。


そしてアサデンコウの母は、ニユーベツシー(1949生)

ニユーベツシーの父(以降、矢印のみ表示)が、トシシロ(1940生)
→ ダイオライト(1927生)
→ Diophon(1920生)
→ Grand Parade(1916生)
→ Orby(1904)
→ Orme(1889)
→ Ormonde(1883)
→ Bend Or(1877)※Kalanisiの11代父
→ Doncaster(1870)
→ Stockwell(1849)
→ The Baron(1842)
→ Birdcatcher(1833)
→ Sir Hercules(1826)
→ Whalebone(1807)
→ Waxy(1790)
→ Pot 80‘s(1773)
→ Eclipse(1764)

ということで・・・

トシシロから17遡ってEclipseに辿りつき、
そこからさらに4代遡ってダーレーアラビアン辿りつきます。

ヤァ!ヤァ!ヤァ!

2006-01-27 17:46:32 | 音楽(洋楽)
音楽史(1966~1967)


1966(昭和41)年

この年の夏、日本全土はリヴァプール色に染まりました。

ザ・ビートルズ、来日。

もはや全米にとどまらず、全欧→全米→全世界へと勢力を拡大していったビートルズ。
何度も噂されてはいたものの実現していなかった来日公演ですが、
この年の6月から予定されていたドイツ、アメリカ、カナダへのライヴ・ツアーの一環として…
ということでオファーをかけたところ、バタバタと決定したようです。

「満を持しての…」というよりは、「おまけ的」な日本公演だったのでしょうね。。

公演の会場として日本武道館を使用するに際し、
「日本武道の伝統を損なう」といった意見が出て散々もめたというエピソードも、
日本全土を巻き込んだ当時の過熱ぶりをうかがわせます。

さてさて、そんな顛末もあったものの、
6月30日~7月2日の3日間にかけて、計5公演が開催されました。
(初日は夜のみ、2、3日目は昼夜2公演)

公演の司会はE・H・エリック氏が務め、
前座として内田裕也、ブルーコメッツ、さらにはザ・ドリフターズらも舞台に上がったというのは有名ですね。

そして全公演通して統一された演奏曲目はというと・・・



1. Rock And Roll Music
2. She‘s A Woman
3. If I Needed Someone
4. Day Tripper
5. Baby‘s In Back
6. I Feel Fine
7. Yesterday
8. I Wanna Be Your Man
9. Nowhere Man
10. Paperback Writer
11. I‘m Down



どおですか?

私は地味に感じてしまいますが…。

またライヴ・パフォーマンスそのものも、
音程は外れるし、マイクも良くないしで、決して褒められたものではなかったようです。

やっぱり、「おまけ的」なやっつけ仕事な要素が強かったのでしょうね。。

というより、彼らはこの時期にはライヴ活動自体にヤル気を失っていたようで、
この日本公演直後にあたる1966年8月のアメリカ公演を最後に、ライヴ活動を行なっていません。

そう考えると、、
最初で最後の日本招聘チャンスをつかんだ日本サイドのプロモーターの尽力は称えられるべきであるし、
最初で最後の生ビートルズを見届けることのできた日本のファンは、
この上なく幸せであると言えるでしょう。。

今現在、どれほど「大物」と言われるアーティストが来日したところで、
これほど日本全土を巻き込んだ騒ぎに発展するとは思えないだけに、
ビートルズの偉大さをあらためて感じるところです。。。

主婦規則

2006-01-26 18:28:07 | その他
惚れさせる呪文を考察中。(え?)

カラニシです

さてさて。今日は小話でもひとつ・・・


1月22日(日)、私はいそいそと小倉競馬場に赴いておりました。
冬の小倉開催が始まったのです。。

久々に観るナマ馬の躍動感を楽しみつつ、
馬券もそこそこ・・・

と思っていたのですが、
これが全然当たらねぇ~~(泣

そうこうしている間にもう各場メインレース(11R)の時間帯。
(この日は他にも中山、京都で開催)

小倉のメインは、「太宰府特別」。

「太宰府(だざいふ)」といえば・・・

“学問の神” こと 菅原道真(すがわらみちざね)が奉られていることで有名です。

まさにこの時間帯にセンター試験真っ最中だった私の妹のためにも(?)、

「なんとしてもこのレースはゲットしなければ・・・」と心に誓った兄なのであります。。

(なお、私の妹に関しては、こちら → http://blogs.yahoo.co.jp/peintre1997celebre/10012193.html )

そしてここで出走メンバーをザザッと新聞で見渡したところ・・・

ある1頭の馬の名が私の目に強烈なアピールをかけてきました。

その馬の名は・・・


シュフルール


「自称・主婦の友」な私の目の前に、
よりにもよって「主婦ルール」ですよ!!

そしてなんといっても、この馬の父が・・・

パントルセレブル

なのです。
そう。私が勝手にIDネームに使用させてもらってる、「Peintre Celebre」です。
(※gooでは使っておりませんが。。)

いやぁ、、もう、、

おおげさにいうと「運命」ですね。
私が買わずに誰が買う!(笑)

しかも、「シュフルール」はまったくの人気薄。
これさえ来れば、高配当は間違いなし。

私は迷うことなく、この「シュフルール」を軸にした馬券を数通り購入し、
意気揚揚と発走時間を待ちました。

そして15:30、各馬一斉に・・・スタート!

「シュフルール」は軽快に飛び出す…はずが…馬郡の中段をトボトボと追走。。

あれ!?

まぁいい・・・。

最後の直線に入れば、
怒涛の末脚(すえあし)を…披露する…はずが…サッパリ伸びない。。。

・・・ゴール。

シュフルール・・・10着。。(16頭中)


まぁ、こんなもんですよ。。

短い時間(1分50秒あまり)だったけど、夢をありがとう…。


ここで今回は、川柳でも一句詠んでみましょう。。



カラニシや シュフを追いかけ 主婦に泣く



泣く・・・。

ちなみに「シュフルール」(Choufleur)とは、

フランス語で、『かわいい花』という意味らしいです。

う~~ん、、「かわいいオッサン」な私にますますピッタリ!(笑)

よし!これからもシュフルールの出走するレースはチェックして、
追いかけまくるぞっ!!

そしてドロ沼へ・・・^^;


あっ、ちなみに私の妹、おかげさまでセンターの出来はそこそこよかったみたいです。。

兄は必死にシュフルール。
妹は試験に受かる~る。


あらら・・・。
やっちゃいました?私??


兄がブログでスベってあげたから、
妹は滑らずにいておくれ・・・。^^;

ハム史 その12(1966~1967年)

2006-01-23 21:44:27 | 北海道日本ハム
「ファイターズ史」 第12回


1966(昭和41)年

ビートルズ来日公演に世間が沸いたこの年。
4年ぶりのV奪回を目指した水原フライヤーズですが・・・

136試合を70勝60敗6分(勝率.538)で、
首位の南海(3連覇)から9.0ゲーム差の3位に終わります。

優勝時の投の柱、久保田治投手は巨人にトレードに出され、
‘61~’64年の4年間で計87勝もあげていた土橋正幸投手が、
この年はわずか6勝。
優勝後もそれなりのチーム成績が続いていただけに、
戦力の若返りをうまく進めることができなかった弊害が出てきたのでしょうか。。

それでも張本勲外野手は、この年もベストナイン。(7年連続)
そして毒島幸一外野手も実に8年ぶりにベストナインに選ばれています。

日本シリーズは巨人が4勝2敗で南海を一蹴でV2。
ルーキーながら開幕13連勝をあげる等した堀内恒夫投手の活躍が目立ったシーズンでした。


1967(昭和42)年

前年から明らかに主力のパフォーマンスの低下傾向が見えてきたフライヤーズ。
この年には投手陣最後の砦ともいえる尾崎行雄投手までもが、
肩の故障もあって6勝14敗と低迷。
優勝時の遺産を食い尽くした感のなるフライヤーズのこの年の成績は、
134試合を65勝65敗4分で勝率.500。
首位の阪急から10.0ゲーム差の3位で、Aクラス死守がやっとの状態でした。

ちなみに阪急は球団創立32年目での初優勝!!

そして11月25日。フライヤーズ球団フロントは、水原茂監督の解任を発表。

監督在任7年間の通算成績は、
983試合 526勝 429敗 28分 (勝率.568)。
1度の優勝をはじめ、在任中の順位はすべて3位以内のAクラス。
ファイターズ史上最高の監督として、誰も異論のないところでしょう。

ところでこの年は、フライヤーズにとって暗い話題ばかりでもありませんでした。

2次ドラフト1位指名で入団した高橋善正投手が、
15勝11敗、防御率2.46の好成績で新人王。
同ドラフト2位で入団した大下剛史遊撃手も、
ルーキーながら133試合出場の活躍でベストナイン。
他にも、3年目の大杉勝男一塁手が.291、27本、81打点で初のベストナイン。
そしてこの人。張本勲外野手は打率.336で6年ぶり2度目の首位打者を獲得。
当然のようにベストナインにも選出されています。(8年連続)

以上のような怒涛のタイトル・ラッシュで、明るい兆しも見せてはいたのです。

なお、日本シリーズは巨人が阪急を4勝2敗で下してV3達成!!!

血脈 その11(シンザン、キーストン)

2006-01-22 19:43:26 | 競馬
「戦後のダービー馬の血脈」シリーズ 第11回


1964(昭和39)年

東京五輪が開催され、東京が世界に通じる大都市として認知されたこの年。
日本競馬界にも、世界に誇れるほどの名馬が誕生します。

その「世界に誇れる名馬」とは・・・

この年のダービーを制した

シンザン(1961年生) です。

1963年11月にひっそりと京都競馬場でデビューしたシンザンは、
デビューから連勝を重ねるものの、勝ち方が地味なことからさほど注目を集める存在ではありませんでした。

しかし初の東上となったスプリングSを6番人気ながら完勝したことで認められ、
続く皐月賞は1番人気で勝利してデビュー6連勝とします。
これでまず一冠。

次戦のオープン競走で初の敗北(2着)を喫して連勝はストップしてしまいますが、
ダービーでは1番人気に応える見事な勝利。
これで二冠。

この後夏場を休養に充てたシンザンですが、くしくもこの年は記録的な猛暑。
シンザンは夏負け(夏バテ)にかかって調子を落としてしまいます。

復帰戦となったオープン競走、そして次戦の京都杯と相次いで2着に敗れたシンザン。
もう三冠は無理かと思われたのですが、、
2番人気に落ちた菊花賞では底力を見せて貫禄の勝利。

見事、 戦後初の三冠馬  に輝きます。

シンザンは古馬(こば)になった後も天皇賞、有馬記念に勝利し、
史上初の五冠馬 として、今も語り継がれています。


さてさて・・・
そんなシンザンの父は、Hindstan(ヒンドスタン)(1946生)。
ヒンドスタンの父は、 Bois Roussel(1935生)。
で、Bois Rousselの父(以降、矢印のみ表示)が Vataut(1926生)
→ Prince Chimay(1915生)
→ Chaucer(1900)
→ St.Simon(1881)
→ Galopin(1872)
→ Vedette(1854)
→ Voltigeur(1847)
→ Voltire(1826)
→ Black lock(1814)
→ White lock(1803)
→ Hambletonian(1792)
→ Eclipse(1764)

ということで・・・

Bois Rousselから12代さかのぼって、
Eclipseに辿りつき、
そこからさらに4代遡ってダーレーアラビアン辿りつきます。


では、シンザンの母はいうと、ハヤノボリ(1949生)。

そのハヤノボリの父は、ハヤタケ(1939生)。※1942年の菊花賞馬
→その父が、Theft(セフト)(1932生)
→そのまた父(以降、矢印のみ表示)が Tetratema(1917生)
→ The Tetrarch(1911生)
→ Roi Herode(1904)
→ Le Samaritain(1895)
→ Le Sancy(1884)
→ Atlantic(1872)
→ Thormanby(1857)
→ Windhound(1847)
→ Pantaloon(1824)
→ Castrel(1801)
→ Buzzard(1787)
→ Woodpecker(1773)
→ Herod(1758)
→ Tartar(1743)
→ Partner(1718)
→ Jigg(1701)
そして・・・ → Byerley Turk(1680)

ハヤノボリから19代さかのぼって、
Byerley Turk(バイアリーターク)に辿りつきます。



続きまして・・・
1965(昭和40)年のダービーを制したのは、

キーストン(1962年生)

キーストンの父は、Solonaway(ソロナウェー)(1946生)。

で、ソロナウェーの父(以降、矢印のみ表示)が Solferino(1940生)
→ Fairway(1925生)
→ Phalaris(1913生)※Kalanisiの7代父
→ Polymelus(1902)
→ Cyllene(1895)
→ Bona Vista(1889)
→ Bend Or(1877)
→ Doncaster(1870)
→ Stockwell(1849)
→ The Baron(1842)
→ Birdcatcher(1833)
→ Sir Hercules(1826)
→ Whalebone(1807)

Whaleboneからは3代遡ってEclipse
そこからさらに4代遡って「ダーレーアラビアン」につながります。


そしてキーストンの母は、Little Midge(リットルミッジ)(1957生)

で、リットルミッジの父(以降、矢印のみ表示)が Migoli(1944生)
その父が、 Bois Roussel(1935生)

これは先述のシンザンの父(ヒンドスタン)の父でもありますね。

Bois Rousselから12代さかのぼって、
Eclipseに辿りつき、
そこからさらに4代遡ってダーレーアラビアンへ辿りつきます。

コロンボ

2006-01-21 20:01:10 | 音楽(洋楽)
音楽史(1964~1965)


‘60年代半ばより、
世界の音楽シーンは英国からの大きな2つの異なるビッグ・ウェーブに呑み込まれます。

1つの波は、リヴァプールから発生したザ・ビートルズ。

そしてもう1つの大きな波が・・・

The Rolling Stones (ローリング・ストーンズ)です。

良くも悪くも、何から何まで比較されたこの2グループ。

おおまかな特徴としては、

ビートルズ = 純粋な優等生

対して、 ストーンズ = 粗暴な不良

といった具合に分けられていたといってもいいでしょう。

統一された衣装、髪型で陽気に音を奏でるビートルズの面々に対し、
不統一な若干乱れた衣装、髪型で、ミック・ジャガーがブルースをがなりたてるストーンズ。

両者のイメージはざっとこんな感じでしょうか。


そして音楽性においても、
両者はやや対象的な面を持ち合わせます。

大きな違いは、ストーンズの音楽は黒人音楽をルーツとしているということ。

デビュー曲の「Come On」からして、チャック・ベリーのカヴァーですしね。

ビートルズにもチャック・ベリーをカヴァーした曲はありますが、
何というか、黒人音楽特有の「スピリチュアル」な面にまで入り込んだ曲はさほど扱ってないように思われます。

そんなこんなで、
ストーンズは黒人ミュージシャンからも敬意を受ける数少ない白人バンドとして認知されているようです。


では今回は、1965年に全米No.1に輝いたストーンズの名曲、

(I can‘t get no)Satisfaction (サティスファクション)

を取り上げてみようと思います。


デッデー デデデー デデデデデ デッデー デデデー デデデデデ・・・


というキース・リチャーズによるギターリフがあまりにも有名なこの曲。

このイントロ部分だけがピックアップされがちで、
「inter(インテル)」のCMでも長らく使用されていたかと思います。

歌詞から少し見てみましょうか・・・


****************


I can‘t get no satisfaction
I can‘t get no satisfaction

Cause I try and I try and I try and I try
I can‘t get no , I can’t get no

When I‘m drivin’ in my car
and that man comes on the radio
and he‘s tellin’ me more and more
about some useless information
Supposed to fire my imagination

I can‘t get no , oh no no no
Hey hey hey , that‘s why I say


***************


おっ!
「can‘t」と「no」で二重否定になってますね。

ってことは、満足しちゃってるのか?

というと、決してそんなことないですよね。

ミックの歌いっぷりからして不満タラタラだし、
満足してるのに、さらに何度も「try」する必要もないでしょう。

もうこれは、
まったくもって満足なんかできない!

というダメ押し的な完全否定と捉えた方がよさそうですね。


まぁ、推測ではありますが、、
少々ヒットしたところで、どうせビートルズと比較されるだけ。。

だから、オレたちは満足なんかせずにガンガン「try」し続けてやる・・・。


そのような気概を強く感じるところであります。。


こと私も、、

みなさんのおかげでなんとか円滑なブログ運営を続けさせていただいてるわけですが、

感謝こそすれど、決して満足することなく、

よりよいブログにするため努力していきたいと思うしだいでございます。

何卒、今後ともよろしくお願いいたします。。。


カラニシでした。

OPEN1000

2006-01-20 16:01:55 | プロ野球全般
2006年 プロ野球オープン戦の日程が発表されました。

(詳しくはこちら → http://www.npb.or.jp/preseason/2006open.html )

実は私、オープン戦って好きなんですよ。

オープン戦は、公式戦と比べると
確かに「息づまる攻防」のような緊迫感をなかなか味わえないのは残念ではあります。

しかし、、
公式戦ではなかなかお目にかかれない選手のプレーを見られたり、
公式戦では「ありえない」投手リレーが見られたり、
・・・といった特典(?)があるのはオープン戦ならではです。

キャンプからガムシャラに頑張ってきた若手の、
「何が何でも1軍に残ってやる…」といった具合な闘志あふれるプレーなんか見られたら最高ですね♪

それにオープン戦には、ステキな思い出
→ http://blogs.yahoo.co.jp/peintre1997celebre/8696756.html
もありますし・・・。

そして私の中でいちばん楽しみにしているオープン戦のイベント(?)はというと、、

「選手名鑑デビュー」。

んん??

はい。説明します。。

私がプロ野球観戦するときに欠かせないアイテムはというと、
「週刊ベースボール」の選手名鑑。

だいたい毎年2月上旬発売号の「週ベ」に付録として付いてくる名鑑が私のお気に入りで、
テレビ観戦のときも含めてプロ野球観戦のときは常備してます。
もうシーズン終わる頃にはボロボロですよ^^ゞ

で、この名鑑の「仕事始め」がオープン戦ってわけですよ。

グラウンド内で目に付いた選手を片っ端から名鑑でチェック!

「ほぉ~~、、○○高校出身かぁ~~。。ってことは、、
△△選手とチームメイトだったとか??」

ってことで、今度は△△選手のページをチェック!

「あ~~!やっぱり!!あんときの○○高校はええチームやったよな~。。
 そういや××選手もあのチームにいたような…」

すかさず××選手のページへ・・・


・・・と、↑上記のようなことを繰り返し、
「プロ野球おたく」は形成されていくのでした(笑)


さてさて、、
今回私の地元、北九州市民球場でのゲームはあるのかなぁ・・・

あった!

3月4日(土曜)14:00~

対戦カードは・・・

『横浜×中日』。

おぉ~~っ!
ソフトバンクさんのゲームじゃないんだ~。
そもそも、ソフトバンクも読売も絡まないゲームなんて九州では珍しい!

よしよし。(ソフトバンクのファンでない私にはこの方がよい)
やっぱり地元(八幡高校→北九州市立大)出身の中田賢一投手(中日)の凱旋登板とかあるのかな?

う~~ん。
俄然楽しみになってきた!

今から予定を空けておかなければっっ!!

いつだって・・・

2006-01-18 10:56:58 | 音楽(洋楽)
なぜか執筆意欲マンマン(笑) カラニシです。


今回は音楽史をお休みしまして、
大好きなペット・ショップ・ボーイズの曲を久しぶりに一つ紹介。


「ALWAYS ON MY MIND」(オールウェイズ・オン・マイ・マインド)


をお届けします。

かつてはあのエルヴィス・プレスリーが歌った名曲を
「ペットショップ節」にディスコ・ポップ・アレンジしたこの曲は、
‘87年にイギリスでリリースされ4週連続全英NO.1の大ヒット。

軽快なサウンドにおもわず心も浮き立つこの曲ですが、
果たして歌詞はどうなのか?

ちょっと見てみましょう・・・


***************


Maybe I didn‘t treat you
Quite as good as I should
Maybe I didn‘t love you
Quite as often as I could


(和訳詞)
もっともっと 優しくしてあげればよかったね
もっともっと 愛してあげればよかったね


Little things
I should have said and done
I never took the time

You were always on my mind
You were always on my mind


忙しさに追われて 優しい言葉も かけなかったけど

いつでも どんなときでも
きみだけを想っていた


Maybe I didn‘t hold you
All those lonely,lonely time
And I guess I never told you
I‘m so happy that you’re mine


きみが淋しがっている時も 抱きしめてさえあげなかった
きみと出会えてよかったと 口に出して言ったこともなかった


If I made you feel second best
I‘m so sorry,I was blind

You were always on my mind
You were always on my mind


悲しい思いばかりさせたのに まるで気がつかなかった

でもいつだって きみを想っていた


Tell me,tell me
That your sweet love hasn‘t died
Give me one more chance
To keep you satisfied(satisfied)


聞かせておくれ 愛はまだ消えていないと……
もう一度チャンスをおくれ 今度こそ きみを幸福にするよ


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いやぁ~~、、
軽快なポップである故、てっきりハッピーなラブ・ソングかと思ってたのに、
めっきり失恋ソングじゃないですか!!

You 「 are 」 always on my mind

ではなくて、

You 「 were 」 always on my mind

だったとは・・・。

でも、「もう一度チャンスを・・・」なんて言ってるくらいだから、

やっぱり、 You 「 are 」 でいいんじゃないのかなぁ??


なぁ~~んて、
細かいところは放っておこう。。

これを読んでくださってるみなさんは、私にとって間違いなく・・・


You are always on my mind


ですからね^^