アーサンのネーチァーワールド

春は山菜、夏は沢、秋紅葉、冬は樹氷を求めて・・・・・!

2011年3月11日メルトダウン余波・・・・①

2011年07月22日 | 日記
前回の福寿草ブログから4カ月超えてしまった。

原発被災地・被災者となったわが家・故郷の記録を残すために

ようやく再開します。

私は2月末から3月2日まで福島にいたが

その後は大阪で仕事していたため被曝しなかったものの・・・

親戚やお隣はばらばらになってしまった。



  4月2日帰省時の福寿草


 3月11日ブログアップして、仕事に出る前に東日本大震災が起こり

ニュス―を見ながら、家族に電話してもつながらず・・・・

ヨメの仕事場は福島原発から4Kmぐらいの所だったが

その時は地震の被害しか頭になかった・・・

道路は亀裂が入って寸断状態で、いつもの通勤道路は帰れず

遠回りして5・6倍の時間をかけて帰ったらしい。


息子も仕事に出かけてその日のうちに帰ったが、

仕事場は地震の影響を受けていた。


 明けて12日水素爆発のニュースで様相はさらに一変

政府の発表を待たず・・・


・・政府は事の深刻さを把握していなかったことと、

周辺自治体には東電で働く人が多かったので

リアルタイムに事故の重大さが伝わっていたようだ・・・


原発に近い市街地に住んでる町民が

原発から20Km以上離れているわが居住地域に押し寄せ

(原発から北西方向にあり、もっとも深刻な放射線量を浴びている)

近くの小学校や、中学校、公民館、

隣の保育所にも人があふれていると連絡が入った

(被災当時でも、AUの携帯は通話ができていた・・

回線が混むとだめだが、

余震があると電話を切るので?つながるという状態の繰り返し)

道路も車の列が続いていて、

市街地近くに住んでいるいとこが我が家に向かっていると連絡が取れた。

いとこ家族を含め23人の避難者を受け入れた我が家は雑魚寝状態・・

 4月2日帰省時の我が家
         
息子は、近くの公民館に炊き出し隊で参加

病人用のミキサー食を受け持っていると・・・

13、14日になると防護服をつけた見知らぬ人が車で通り抜け

「早くここから逃げろ~・・・・」と行って過ぎていくとヨメの連絡があった

そろそろ避難時かと・・話すも

息子は「ここに残る・・病人残して行けない・・」と

15日になって、町の判断でわが地域から二本松市にさらに避難するとの指示・・

全員避難なので、(この時政府は屋内退避指示・・・・)

「もう十分やったから・・ひとまず大阪に避難することにしたら」

ようやく避難することになった家族は、農機具からガソリンを抜き、

普通車は置いて、燃費のよい軽自動車で移動することになった。

まず、被ばく検査を郡山市で受け、

着衣は被ばくのため着替えるように指示されビニール袋に入れた・・

そして夜、三人は(ヨメ、息子とマッチャン~豆芝雑種犬:マツコ)は

地道国道4号線で南下して大阪に向かった。


 大阪で娘と待機連絡を取りながら様子をうかがっていたが、

極度の疲労があると思ったので・・

婿の実家の車を借り、運転を変わるため、まず岐阜中津川市に向かって

私は夜十時大阪を発った。

翌日、義弟と長野に向かって走り、駒が岳SAで二人に落ち合った。

16日は、中津川市の儀姉宅にて休んで・・・

17日、帰途名神高速道路で雨が雪に変わり

借り物の車はノーマルタイヤで、私は怖い思いをしながら走行・・・

ともかく、私と三人は無事大阪に帰った。

 マッチャン~大阪にて

7月11日時点で、浪江町の積算線量推計値は、

高いところですでに97ミリシーベルト

わが家近辺は19.8ミリシーベルト・・・・






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