
信じられない。信じたくない。
言葉が浮かばず、舞台のあれこれが浮かぶ。
これから見たい役をいくつもいくつも挙げることができる。
松王や実盛なんかも良くなっただろうな。
大蔵卿なんか最高の持ち役になっただろうな。
でも右京や法界坊は飽きることないよな。
もちろん新作の再演もやらないとね。
まさかこの人がいなくなるなんて、考えたこともなかった。
大病されてもケロっと戻ってくると勝手に思ってた。
少し時間がかかっても、多少声が衰えたりしても、それを
またチカラにして新しい歌舞伎を見せてくれるのだと。
そして自分がこれほど勘三郎を愛しているとも気づかなかった。
歌舞伎座に通い始めてすぐ、納涼歌舞伎の復活だった。
戦前からの名優が相次いで亡くなり、歌舞伎の未来が不安視されて
いた頃。児太郎、八十助、勘九郎、橋之助、浩太郎らが「若手」で
必死に舞台を役を掴み取ろうとしていた頃。
こちらも観るものすべてが目新しく、どの役者も輝いて見え、
歌舞伎座の3F・4Fへの階段を軽々と駆け上がっていた。
平日の3Fなんてガラガラで、一度入ってしまえば2Fの後ろにさえ
動くことが出来たし、前後左右を気にせず前のめりに芝居を観る
ことも出来た。声掛けおじさんたちとも顔見知りになったなあ。
あれから20年以上。当時の若手は中堅となり、中でも勘九郎は
十八代目勘三郎を襲名して歌舞伎界の中心になった。
勘三郎が出る芝居は連日どこでも満員、簡単にチケットを取る
ことも難しくなった。
今回の訃報に接したとき、勝手ながら、同志というか同世代(実
年齢は全然年上なんだけど)というか、同じ時間を過ごして来た
役者の一人、という思いが強くなった。
だからあちこちで「名優」なんて枕詞が付いていると
「おいおいそれはまだ早いよ」と泣きながら苦笑してしまった。
「名優」っていうのはもっとお爺さんの役者に付ける感じなんだ
もの。勘三郎には(そもそもまだ「勘九郎」気分)早過ぎる。
いや、この先もずっと「名優」なんて思えない。
ともに走った「仲間」なんだ。
だからこの人がいなくなるなんて考えたこともなかった。
これからもずっと私たちの先頭を猛スピードで走り続け、笑わせ
泣かせてくれると思ってた。
平成中村座の「夏祭」のラストシーンみたいに、走って走って、
そのまま駆け抜けて行っちゃった...。
仁左衛門さんが訃報に寄せたコメントで、少し微笑みながら
「今頃、ルンルンしてるんじゃないですかねえ。
あちらには憧れの先輩たちがたーくさんいるでしょう。
闘病のつらさからも解放されてねえ」
と話していた。
勘三郎が目指して走り続けた先は結局そこだったんだろうか。
今頃また少年に戻って板の間に正座して、六代目から始まって
江戸の役者たち、ついには阿国にまで会いに行ってるんだろうか。
それでね、あのおっちょこちょいはね、
「面白かったよー、昔のひとはああやってたんだね。
よし、次の芝居に取り入れてやるぞー」
なんてニコニコしてね、先代に
「バカ、お前はもうこっちにいるんだよ」
とか言われて初めて愕然としてるんじゃないかと思うんだよ。
亡くなった日の夜、建設中の歌舞伎座に行った。
百合の花束が手向けられ、そっと手を合わせる人もいた。
あえてこの場所に来ることを避けてきた。もちろん開場したら
観に行くし、この先もずっとずっと通うつもりだけど、まだあの形を
受け入れられる心の準備が出来てなかったから。
でもこの夜は足を向けた。
私が旦那にサヨナラ言えるのはここしかないもんね。
病床から解放されてまっしぐらにここに来たと思う。工事中の舞台や
楽屋を自在に走り回ったと思う。
そしてあの人は「いいねえ、これ」と笑って言うと思う。
「ここに魂を入れるのは、俺たちだよね」と。
だからね、中村屋の旦那、私たちがあなたの分まで、新しい歌舞伎座に
熱い息吹を入れるよ。次の世代に、未来にこの劇場を繋いでいくよ。
言葉が浮かばず、舞台のあれこれが浮かぶ。
これから見たい役をいくつもいくつも挙げることができる。
松王や実盛なんかも良くなっただろうな。
大蔵卿なんか最高の持ち役になっただろうな。
でも右京や法界坊は飽きることないよな。
もちろん新作の再演もやらないとね。
まさかこの人がいなくなるなんて、考えたこともなかった。
大病されてもケロっと戻ってくると勝手に思ってた。
少し時間がかかっても、多少声が衰えたりしても、それを
またチカラにして新しい歌舞伎を見せてくれるのだと。
そして自分がこれほど勘三郎を愛しているとも気づかなかった。
歌舞伎座に通い始めてすぐ、納涼歌舞伎の復活だった。
戦前からの名優が相次いで亡くなり、歌舞伎の未来が不安視されて
いた頃。児太郎、八十助、勘九郎、橋之助、浩太郎らが「若手」で
必死に舞台を役を掴み取ろうとしていた頃。
こちらも観るものすべてが目新しく、どの役者も輝いて見え、
歌舞伎座の3F・4Fへの階段を軽々と駆け上がっていた。
平日の3Fなんてガラガラで、一度入ってしまえば2Fの後ろにさえ
動くことが出来たし、前後左右を気にせず前のめりに芝居を観る
ことも出来た。声掛けおじさんたちとも顔見知りになったなあ。
あれから20年以上。当時の若手は中堅となり、中でも勘九郎は
十八代目勘三郎を襲名して歌舞伎界の中心になった。
勘三郎が出る芝居は連日どこでも満員、簡単にチケットを取る
ことも難しくなった。
今回の訃報に接したとき、勝手ながら、同志というか同世代(実
年齢は全然年上なんだけど)というか、同じ時間を過ごして来た
役者の一人、という思いが強くなった。
だからあちこちで「名優」なんて枕詞が付いていると
「おいおいそれはまだ早いよ」と泣きながら苦笑してしまった。
「名優」っていうのはもっとお爺さんの役者に付ける感じなんだ
もの。勘三郎には(そもそもまだ「勘九郎」気分)早過ぎる。
いや、この先もずっと「名優」なんて思えない。
ともに走った「仲間」なんだ。
だからこの人がいなくなるなんて考えたこともなかった。
これからもずっと私たちの先頭を猛スピードで走り続け、笑わせ
泣かせてくれると思ってた。
平成中村座の「夏祭」のラストシーンみたいに、走って走って、
そのまま駆け抜けて行っちゃった...。
仁左衛門さんが訃報に寄せたコメントで、少し微笑みながら
「今頃、ルンルンしてるんじゃないですかねえ。
あちらには憧れの先輩たちがたーくさんいるでしょう。
闘病のつらさからも解放されてねえ」
と話していた。
勘三郎が目指して走り続けた先は結局そこだったんだろうか。
今頃また少年に戻って板の間に正座して、六代目から始まって
江戸の役者たち、ついには阿国にまで会いに行ってるんだろうか。
それでね、あのおっちょこちょいはね、
「面白かったよー、昔のひとはああやってたんだね。
よし、次の芝居に取り入れてやるぞー」
なんてニコニコしてね、先代に
「バカ、お前はもうこっちにいるんだよ」
とか言われて初めて愕然としてるんじゃないかと思うんだよ。
亡くなった日の夜、建設中の歌舞伎座に行った。
百合の花束が手向けられ、そっと手を合わせる人もいた。
あえてこの場所に来ることを避けてきた。もちろん開場したら
観に行くし、この先もずっとずっと通うつもりだけど、まだあの形を
受け入れられる心の準備が出来てなかったから。
でもこの夜は足を向けた。
私が旦那にサヨナラ言えるのはここしかないもんね。
病床から解放されてまっしぐらにここに来たと思う。工事中の舞台や
楽屋を自在に走り回ったと思う。
そしてあの人は「いいねえ、これ」と笑って言うと思う。
「ここに魂を入れるのは、俺たちだよね」と。
だからね、中村屋の旦那、私たちがあなたの分まで、新しい歌舞伎座に
熱い息吹を入れるよ。次の世代に、未来にこの劇場を繋いでいくよ。
あちらでは大旦那達が
「おまえ、ずいぶんと遅かったね」
って笑って迎えてくれているのでしょうか
中村屋を見守る背中が懐かしい