そういやなんでジャイアンツなんだろ・・・。
あ、「侍ジャイアンツ」か。古いなあ。
やだやだ、おっさんは。
しかし今頃正月映画のレビューだもんなあ・・・。
我ながらあきれかえってヒヨコが生まれそうだぜ。
まあいいや。こればっかしだが。今に始まったこっちゃないし。
そんなわけで『ラスト・サムライ』。
とりあえず、面白い。いろんな意味で。
吉野の国にヤシの木が生えてるとこから始まって、ぜってー日本じゃねー的風景にとりあえず大笑い。
まあ、それはいいや。風景キレイだしね。
『ブラック・レイン』なんかでも同じような風景的違和感があったけど
消化力としてはリドリー・スコットの勝ち。
ハンパなんだよなー、開き直り方が。
なまじっか半チクに桜だの雪だのちゃらちゃら見せて
「ほーれ、ニッポンですよ~」みたいな描き方するからアホな絵面になっちゃう。
R・スコットの場合、日本だろうがアフリカだろうが撮ったトコは全部「俺様世界」。
サボテンが生えてよーがニシキヘビが出てこよーがお構いなし。
字幕なんか入れない。
キューブリックなんかもそんな感じだな。そのあたりの差か。
笑いながらも見ていたが、だんだん笑えなくなってきた。
それは単に、負けた勝元が切腹しない、とか亭主のカタキの毛唐を面倒見るあり得ない武士の妻、とか
足軽に到るまで鎧兜だとか、明治時代なのに銃一丁持ってないで決戦する反乱軍とか
戦術戦法が子供だましの白兵戦とか唐突に忍者とか(くどいね)
そんな設定上の大雑把加減が、なんか微妙に内容の視点と関連してる気がしてきたからだ。
ほかのレビューでもケヴィン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や
リチャード・ハリスの『馬と呼ばれた男』を思い出した、つー記事があったが
同じ印象は確かにある。
インディアン虐殺の回想シーンなんかでは、『ソルジャー・ブルー』
なんかを思い出したりしたが、歳かな(ちなみにこっちを思い出した人も、もう歳だ歳)
そこにあるのは「ネイティブ」を見つめる「自称・文明人」のまなざしだ。
言っちゃなんだが、そこには常に
慈愛と傲慢さと勘違いがある。
「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かるものなり。」と、直茂公仰せられ候。
本気にては大業はならず。気違ひになりて死狂ひするまでなり。
又武士道において分別出来れば、はや後るるなり。
忠も考も入らず、武士道に於いては死狂ひなり。
この内に忠孝はおのづから籠もるべし。(葉隠)
ある種、偶像化された「サムライ」の死にザマは
ロマネスクな色でカリカチュアライズされた「ネイティブの生き方」なんだろう。
ガトリング砲の連射の前に打ち倒されていくネイティブたち、という
倒される人種と倒す武器が違うだけの、かつて何度も見た同じ場面を眺めながら思った。
そこには勝海舟の老獪さも西郷隆盛の計算も、徳川慶喜の打算もない。
これがあんたらにとってのサムライなわけだな。ふーん。
軍国主義のプロパガンダとして好んで用いられた『葉隠』のエッセンスは
ヒートアイランドの時代を通り過ぎたころ、コンクリートの下で
いつの間にか「サムライ」そのもののメタファにすりかわっていたりすることに
当の日本人すら気が付いていないうちにとっとと21世紀は来ている。
その是非なんかをどうこう言うつもりはない。
まあ、エンタティンメントは面白けりゃ勝ちなんだし。
ただ、すべてのネイティブを描いた映画には、多分にそんな罠が潜んでいるのだ、
ということは今回、改めて気づかされたな(遅いか)。
「彼はどうやって死んでいったのか?」
「どうやって死んだかよりもどうやって生きたかを話しましょう」(本編より)
死を選ぶサムライと生を選ぶサムライの
どちらが「最後のサムライ」なのか、という問いに
なんで「死んだインディアンだけがよいインディアンだ」という誰かのセリフがダブるんだろ。
我ながら根性ひねてるような気もする。
「大義」や「忠義」が絵空事ほどの説得力も持てず
儒学のまぼろしの中にノスタルジアすら見出すことのできない時代にとって
結局、最終的に説得力を持つのは
「腹いっぱいの飯のために戦う」という至極単純な動機なのではないか、などと
「サムライ7」なんてものを見ると思ったりもする。
しかし好きだね、「セブン」。
案外黒澤明の影響力とは関係ないのかもしれないな。
「エウレカセブン」とか。
「ワイルド7」に「エロティカ7」、「ナターシャセブン(古!)」に「女性セブン(待)」に
なにはともあれお約束の
ウルトラセブン!
最後はこんなもんでございます。
いつものコトか。アハハハハハ
(笑うなよ)
あ、「侍ジャイアンツ」か。古いなあ。
やだやだ、おっさんは。
しかし今頃正月映画のレビューだもんなあ・・・。
我ながらあきれかえってヒヨコが生まれそうだぜ。
まあいいや。こればっかしだが。今に始まったこっちゃないし。
そんなわけで『ラスト・サムライ』。
とりあえず、面白い。いろんな意味で。
吉野の国にヤシの木が生えてるとこから始まって、ぜってー日本じゃねー的風景にとりあえず大笑い。
まあ、それはいいや。風景キレイだしね。
『ブラック・レイン』なんかでも同じような風景的違和感があったけど
消化力としてはリドリー・スコットの勝ち。
ハンパなんだよなー、開き直り方が。
なまじっか半チクに桜だの雪だのちゃらちゃら見せて
「ほーれ、ニッポンですよ~」みたいな描き方するからアホな絵面になっちゃう。
R・スコットの場合、日本だろうがアフリカだろうが撮ったトコは全部「俺様世界」。
サボテンが生えてよーがニシキヘビが出てこよーがお構いなし。
字幕なんか入れない。
キューブリックなんかもそんな感じだな。そのあたりの差か。
笑いながらも見ていたが、だんだん笑えなくなってきた。
それは単に、負けた勝元が切腹しない、とか亭主のカタキの毛唐を面倒見るあり得ない武士の妻、とか
足軽に到るまで鎧兜だとか、明治時代なのに銃一丁持ってないで決戦する反乱軍とか
戦術戦法が子供だましの白兵戦とか唐突に忍者とか(くどいね)
そんな設定上の大雑把加減が、なんか微妙に内容の視点と関連してる気がしてきたからだ。
ほかのレビューでもケヴィン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や
リチャード・ハリスの『馬と呼ばれた男』を思い出した、つー記事があったが
同じ印象は確かにある。
インディアン虐殺の回想シーンなんかでは、『ソルジャー・ブルー』
なんかを思い出したりしたが、歳かな(ちなみにこっちを思い出した人も、もう歳だ歳)
そこにあるのは「ネイティブ」を見つめる「自称・文明人」のまなざしだ。
言っちゃなんだが、そこには常に
慈愛と傲慢さと勘違いがある。
「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かるものなり。」と、直茂公仰せられ候。
本気にては大業はならず。気違ひになりて死狂ひするまでなり。
又武士道において分別出来れば、はや後るるなり。
忠も考も入らず、武士道に於いては死狂ひなり。
この内に忠孝はおのづから籠もるべし。(葉隠)
ある種、偶像化された「サムライ」の死にザマは
ロマネスクな色でカリカチュアライズされた「ネイティブの生き方」なんだろう。
ガトリング砲の連射の前に打ち倒されていくネイティブたち、という
倒される人種と倒す武器が違うだけの、かつて何度も見た同じ場面を眺めながら思った。
そこには勝海舟の老獪さも西郷隆盛の計算も、徳川慶喜の打算もない。
これがあんたらにとってのサムライなわけだな。ふーん。
軍国主義のプロパガンダとして好んで用いられた『葉隠』のエッセンスは
ヒートアイランドの時代を通り過ぎたころ、コンクリートの下で
いつの間にか「サムライ」そのもののメタファにすりかわっていたりすることに
当の日本人すら気が付いていないうちにとっとと21世紀は来ている。
その是非なんかをどうこう言うつもりはない。
まあ、エンタティンメントは面白けりゃ勝ちなんだし。
ただ、すべてのネイティブを描いた映画には、多分にそんな罠が潜んでいるのだ、
ということは今回、改めて気づかされたな(遅いか)。
「彼はどうやって死んでいったのか?」
「どうやって死んだかよりもどうやって生きたかを話しましょう」(本編より)
死を選ぶサムライと生を選ぶサムライの
どちらが「最後のサムライ」なのか、という問いに
なんで「死んだインディアンだけがよいインディアンだ」という誰かのセリフがダブるんだろ。
我ながら根性ひねてるような気もする。
「大義」や「忠義」が絵空事ほどの説得力も持てず
儒学のまぼろしの中にノスタルジアすら見出すことのできない時代にとって
結局、最終的に説得力を持つのは
「腹いっぱいの飯のために戦う」という至極単純な動機なのではないか、などと
「サムライ7」なんてものを見ると思ったりもする。
しかし好きだね、「セブン」。
案外黒澤明の影響力とは関係ないのかもしれないな。
「エウレカセブン」とか。
「ワイルド7」に「エロティカ7」、「ナターシャセブン(古!)」に「女性セブン(待)」に
なにはともあれお約束の
ウルトラセブン!
最後はこんなもんでございます。
いつものコトか。アハハハハハ
(笑うなよ)