goo blog サービス終了のお知らせ 

日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

日本酒雑感--NO5

2008-09-17 11:30:29 | 日本酒雑感

20057_030  〆張鶴と伊藤勝次杜氏の生酛

昭和50年代前半、新潟に行き始めた頃と記憶しているのですが、今でも忘れられないことがあります。
仕込みの時期に村上市上片町にある〆張鶴を”見学”させていただいたときのことです。
私は、故宮尾隆吉前社長自らのご案内で蔵の中を見せていただいておりました。
時期的に、出品吟醸酒の造りがピークに差し掛かったころだったと覚えているのですが、
蔵の中に藤井正継杜氏を見つけられた宮尾隆吉社長は、
「まだいたのか。すぐに帰りなさい、杜氏がいない間は皆んなでカバーするから安心して帰ってきなさい」と、声を掛けられました。
藤井杜氏は、その当時の私には”ちんぷんかんぷん”の、吟醸酒造りの”ある工程”が終わったら帰らせてもらいます-------と答えられたのですが、その返答をお聞きになった宮尾隆吉社長は、本当に”困った”ような表情を見せられました。

故宮尾隆吉前社長には、八海山におられた南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)に紹介していただき、最初に宮尾酒造に行かせていただいたときから、親切な”対応”をしていただいておりました。
以前にも書かせていただいたように、私の酒販店としての”素養の無さ”を心配して早福酒食品店早福岩男社長(現会長)を紹介していただいたのも、このときすでに販売可能な数量に余力が無くなっていた〆張鶴のほとんどすべてをその双肩に担っていたため、
「数量の少ない形ばかりの取引では小売店にとっても蔵にとってもプラスは少ない」とのお考えから、新規取引には慎重にならざるを得なかった宮尾行男専務(現社長)との”交渉”の最後に”助け舟”を出して下さったのも、宮尾隆吉社長でした。
そのような経緯があったため、今思うと大変申し訳なかったと反省しておりますが、
おそまつで能天気な私にとって宮尾隆吉社長は、プレッシャーをあまり感じずにお話を伺える方で、質問をしやすい方でもありました。

蔵の中から事務所に戻ってきてからも、ご多忙の宮尾行男専務(現社長)に代わって、宮尾隆吉社長はしばらく私に付き合って下さいました。
私は、自分のことながら今振り返ると「なんじゃそれは。馬鹿じゃないのか」と私自身が思うような”質問”を宮尾隆吉社長にしました。
「吟醸酒を造るというのはどうゆうことなのでしょうか」------思い出すと今でも”穴があったら入りたい”心境になる質問を私はしてしまったのです。
宮尾隆吉社長は、僅かに苦笑されましたがすぐにそれを消されて”質問”に対する答えを私に提示して下さいました。

「吟醸酒に限らず酒を造るのが杜氏や私の仕事ですが、突き詰めていくと私達が造っていると思うのはちょっと”違う”のではと感じることがあるんです。
本当に酒を造っているのは”自然の摂理”とも言えるし、”酒自身”だとも言えるかなぁ-----。
醸造技術の進歩もあり杜氏の経験の積み重ねもあり、この方針で行けば概ねこんな風な方向の酒になるのではというところまでは把握できても、それ以上のことは分からないしそれ以上のことはできないのです。
本当のところ、私達にできる仕事は”酒自身が酒になる”ための”手伝い”だけなのかも知れません。
出品吟醸は余裕の無いぎりぎりの造りのため、そんな印象をより強く感じます。
明日をも知れない重病人を、祈るような思いで必死に”看病”する------そういう気持が強ければ強いほど酒が応えてくれるような気がします」

この説明で分かりましたか、もう少し説明しますかと宮尾隆吉社長はさらにおっしゃって下さったのですが、私は思わず「よく分かりました」と言ってしまったのです。
限界ぎりぎりの”拡大解釈”をしてもこのときの私は、噛んで含めるような宮尾隆吉社長の説明の”意味”のごく僅かしか分かっていませんでした。

「藤井杜氏も至急家に帰らなければいけないことが起きたのに、出品吟醸の醪が心配で心配で堪らずなかなか帰れないようだったので、先ほど声を再度掛けたのですが帰る気になったかどうか-------」

宮尾隆吉社長とお会いした回数はけして多くはありませんでしたが、お会いするたびにに私は”何か”を得ていたような気がします。
その”何か”が何であるかをその時点では理解できなかったのですが、いつもかなり後になってからその”何か”に”助けられて”いたようです。
何回も書いていますが私は平成3年に業界を離れました。
たぶん新潟にも蔵にも行く機会はあまりないだろう------会社員になった私はそう思っていました。 そう思って3年が過ぎました。
4年目に入ったとき宮尾隆吉社長が亡くなられたことを、人を介して私は知りました。

私は新潟に行きたい”気持”が、自分で思っていた以上に強いものであることは自覚していましたが、”敵前逃亡”に近いような”離脱”をしてしまったため、実際に”新潟行き”を実行するのは”ためらい”がありました。
しかし宮尾隆吉社長の訃報が、その”ためらい”を跡形もなく吹き飛ばしてくれました。
葬儀からはかなり遅れたのですが、せめてお線香を上げさせていただくために私は”行動”を起こしたのです。
そしてその”新潟行き”では、〆張鶴の宮尾行男社長も、千代の光の池田哲郎社長も早福岩男さんも、そして鶴の友の樋木尚一郎社長も以前と変わらぬ態度で接していただけたのです----------私の”ためらい”が私の独り相撲であったことを知ることができたのは、宮尾隆吉社長の訃報のおかげだったのです。

私は宮尾隆吉社長から得ていた”何か”に、その最初から最後まで助けていただいたと思われます。
そしてそれは私が当時感じていたよりも”大きなもの”だったことを、今の私は、改めて実感しています。

宮尾行男社長も故宮尾隆吉前社長も、「真面目が背広を着ている」と言われるほど真面目で穏やかなお人柄の方ですが、30年以上変わらない〆張鶴 純 のバランスの取れた酒質を支えてきた、舌に感じるやわらかさとは裏腹の”剛直”とさえ言える”酒の芯の強さ”と同じように、穏やかなお人柄の根底には容易には動かせない”強い意志”が存在していると私は感じてきました--------(鶴の友について-2--NO7より抜粋)

私は伊藤勝次杜氏の”生酛”に出会う前の数年間、1年に4~6回新潟に行かせていただき〆張鶴、八海山、千代の光を自分の目で直接見て自分の耳で聞き自分の舌で味わうことを繰り返していました。
おそまつで能天気な私は知識も能力も無かっため、”現場”に通うことを繰り返しそのとき分からないことを”現場の人に”質問をし教えてもらって、知識を向上させようとしていたのですが、そのうちに蔵に行くこと自体が”楽しいこと”になってしまいました。
その中でも〆張鶴は、宮尾行男専務(当時)、宮尾隆吉社長(当時)との”面談”だけではなく、蔵自体も私にとって興味深く行くたびに”発見”がある楽しい存在だったのです。

近年、早福酒食品店に定期的に通う私の知り合いの酒販店が、私のことを早福岩男会長に尋ねたそうです。
「Nか、Nは昔から新潟の蔵によく来ていて、昔から蔵のことをよく知っていたし蔵のことをよく分かっていた」------私に恥を欠かせまいと早福岩男さんは、”最大限の過大評価”をして下さったようですが、実際は蔵に行けば行くほど面白さと楽しさが拡大し、喫煙と同じように止められなくなっただけなのです。

書画、骨董でも”初心者”に対するアドバイスとして、
「知識や理屈に頼らず、本物を見ることから始めたほうが良い。良いものを長く見続けていると本物と違うものを見たとき、何が違うのかが分からなくても、”何か”が違うという”違和感”を感じるようになる。その”違和感”を解明しようとするときに知識や理屈が”ツール”として必要になってくるだけなのだから-------」と、教えられると聞いたことがあります。
結果として、”酒”においては私は、このアドバイスどうりの”道”を歩いてきたように思うのです。
私が最初に出会った蔵は、八海山でした。
当時の八海山は、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の徹底した指導の下、越乃寒梅で育った高浜春男杜氏が全力投入し八海山の”酒質ピーク”へ向かって前進し続けていた時期で現在とはだいぶ”雰囲気”の違う、本物を本気で目指していた蔵でした。
前述したように、その八海山の南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)の紹介で、ほとんど同時というタイミングで〆張鶴と出会っていました。
その最初から私は、〆張鶴と八海山を”同時並行”で比べられる”環境”に恵まれたのです。
知識も能力も無い20歳代前半で、今よりはるかにおそまつで能天気だった私が頼りにできたのは、新潟の蔵を隅々まで知る早福岩男さんの”客観的判断”と、自分自身が感じる”肌の感覚”だけでした。

新潟の蔵に出会った私は、最初の数年、多いときには年間6回少ないときでも4回は新潟に出かけていました。
そんな時間の中で、私は八海山より〆張鶴に強い興味と愛着を感じ始めていたような気がします。そして”酒”や蔵を自分なりに判断する際に、無意識のうちに〆張鶴と比べていたようにも思えるのです。

村上市にある〆張鶴、宮尾酒造を訪ねる回数が多くなるにつれ”酒の素人”である私も少しずつ慣れてきて、以前には見えなかったものがほんの少しずつ見えてきました。
蔵には存在していたのに私には見えていなかったものが見え始めた------という意味での”発見”が数多くあり、それが私には楽しくて堪らなかったのだと思われます。
「醪の温度をジャケット式タンクや、タンクにプレートコイルを巻いて冷却水を通して0.5度の単位で調節しようとしているのに、蔵の中の温度が4度も5度も変化したのでは正確が期せないと思うので空調をかけていますが、灘の大手のように三期醸造や造りの期間を延ばすのが目的の空調設備ではありません」
私の住む北関東の県より冬場の低温に”恵まれ”、朝晩の温度変化もはるかに少ないと思うのになぜ空調設備が必要なのでしょうか-----という私の”質問”に対する宮尾行男専務(現社長)の回答でした。
またこの時期〆張鶴は約3500石(一升瓶換算35万本)でその需要に対して”パンク状態”にあり、酒質に影響を及ぼさないようにゆっくりと時間をかけながら5000石前後をめどに設備や機械を更新したり導入し、増産余力の向上を計っていました。
そのせいもあり〆張鶴に行くたびに蔵の姿が微妙に変わっていて、私の興味を捉えて離さなかったのです。
しかもこの時期〆張鶴の酒質は、向上はあっても後退を感じることなどまるで無かったのです。

陸上の100mに例えて言うと、初めて見た選手が10秒00の”厚い壁”を突き抜けた9秒台のレースをする選手で、なぜ”厚い壁”を突破できるのかをその選手の日常やトレーニングの姿をできるだけ見ることで、(知識や理屈を持っていなかったので)自分自身が感じる”肌の感覚”を積み重ね”帰納法的”に探ろうとしていたのかも知れません。
そんな数年が、おそまつな私なりの、100mのレースを計る”ものさし(メジャー)”を造ってくれたのかも知れません。
〆張鶴という”ものさし”を手にした私は、基本的には共通の”基盤”を持ちながらも
10秒00の”厚い壁”を突き破る”方法と個性”に違いのある、千代の光、そして鶴の友を知ることになります。
〆張鶴という”ものさし”のおかげで、何の先入観念も予断も無く9秒台のレースをする千代の光、そして鶴の友の”凄さ”が、素直に実感できたからです。
そして私は、千代の光、鶴の友においても、「見て分からないことは、どんなに初歩的なことでも聞く」ことで”肌の感覚”を積み重ねていくことに終始したのです。
その結果、少しですが”ものさし”の精度も向上し、〆張鶴という”ものさし”への私自身の理解も進んだような気がします。
〆張鶴という”ものさし”の根幹にあるものは、派手さやけれん味とはかけ離れた「真面目さ」であり、それが〆張鶴を〆張鶴たらしめている------私はそう感じるようになっていったのです。
そしてその「真面目さ」は、状況が許す限り”変えてはいけないものは変えない”ということにつながる「真面目さ」だったのです。

私は伊藤勝次杜氏の”生酛”に出会う前に、このような”ものさし”を持つに至っていました。
その”ものさし”で、〆張鶴の「真面目さ」に通じるものを感じさせる伊藤勝次杜氏の”生酛”を見させていただき、「ぜひエンドユーザーの消費者に”生酛単体”で提供すべき」------------私個人の”ものさし”では当然の帰結と思える”要望”を出したのですが、蔵の上層部は”まったく違うものさし”で伊藤勝次杜氏と”生酛”を判断しており、”違うものさし”がゆえの
「長く激しい闘い」が待っていたのですが、またもや”前置きの話”が長くなってしまったので、
日本酒雑感--NO6に書きたいと思っています。


日本酒雑感--NO4

2008-08-27 17:33:22 | 日本酒雑感

博物館

20057_007_3

嶋悌司先生が、「酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」と言われたことがあります。
 かつて日本酒という日本の文化を体現している伝統的な飲み物がありました。これはその貴重な現物ですので、手を触れないようにしてください-----このような ”説明文”付きで ”博物館”に展示してあるようになったら、それこそ ”お終い”ですが一部の蔵元や地酒専門店は ”博物館化”を志向しているように、私には思えてなりません。
 ”能”や”狂言”は日本の誇る伝統芸だし文化ですが、(”博物館”に入っているとは私も思っていませんが)残念ながら ”庶民”にとって日常的で身近とは言えない存在です。
「今週は五日見たから、今日は休む」と言うほど見ている人も周囲にはいないし、「テレビでたまに中継しているのは知っているけれど、難しそうだし興味も無いし自分にはどちらにしても関係ない」-----これが ”庶民”の平均的反応だと思われますが、活字マスコミやネット上で語られる ”日本酒”は ”庶民の酒飲み”にとってこれに近い存在になりつつあるような気がしてなりません。

活字マスコミの ”日本酒の蔵特集”を読むと、日本酒の特集じゃなくて ”家元や宗家”の特集ではないかと思うときがあります。
”大吟醸流純米派家元”、”大吟醸流生酛派宗家”や”健康流無添加派”の話ばかりで、”酒は庶民の楽しみ”的部分はいったいどこにいってしまったのか-----それが私の率直な感想です。
また、”健康流無添加派”のはずの記者がワインの特集のときに、日本酒のアルコ-ル添加の ”罪”が「軽犯罪法違反」なら、”極刑”にあたいする ”重大な罪”の酸化防止剤の添加に、なぜ一言も触れないのかが私にとって解明不能な ”疑問”です。(ちなみに私は、日本酒のアルコ-ル添加自体は ”罪”とは思っていません)
糖類を添加せざるを得ない大量のアルコ-ル添加は ”大罪”ですが、本醸造の規格内の適度なアルコ-ル添加は、むしろ酒質を向上させ酒質の保存という点でもきわめて高い効果があります)  もちろん私も、吟醸酒の魅力と価値は十分に分かっています。
この28年間で、ありがたいことに、本当に素晴らしい吟醸を見せていただいてきました。 昭和50年代の関信局の鑑評会で、春、秋連続で 「首席第1位」に輝いた ”淡麗辛口の極致”と言える ”水の如くさわりなく飲める”吟醸酒”の味を、私はいまだに忘れられないでいます。
しかし、残念ながら、このレベルの吟醸酒はきわめて少ないのです。

前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。
吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。
「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。
私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRXSTIを普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。
ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが----------。  

また、40年以上も生酛を人知れずに造り続けた(平成元年にはその生酛で仕込んだ量は、約4000石という気の遠くなる量に達していました)、平成8年に亡くなられた南部杜氏の長老 ”IK杜氏”の”遺言のような、平成元年に発売された、「純米生酛大吟醸生酒」も私は忘れることができません。
たしか、四合びんで150本ほどの発売で、1本1本にナンバ-が打たれていました。 私には6本が割り当てられたと記憶していますが、私は1本も販売しませんでした。
「吟醸会」の仲間達と飲んだり、店での試飲にそのすべてを費やしました。 この酒は私が独り占めしてはいけないと感じたからです-----そう感じざるを得ない事情がその以前にあったのです。

「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。

人知れず ”IK杜氏”は、速醸酛で造った酒に ”厚みと安定感”を与えるブレンド用として生酛を造り続け、伝統を受け継いできました。
その生酛があまりに惜しく、「生酛を単体の本醸造として出して欲しい」と蔵のT営業部長と ”激しい交渉”を2年越しで行いました。
ようやく1500本の生酛が出ることになったとき、そのスム-ズなデビュ-を促すため、最初で最後の1回限りの ”お願い”を池袋のK店主にしました。
「吟醸じゃないけどあれだけ美味くて、価格も安いから皆大歓迎だよ」と心良く引き受けてくれたK店主のおかげで、生酛は「M会」の主力メンバ-の店頭に並ぶことになったのですが、K店主達の好意を ”逆なで”するような ”状況”が生じ、私は困り果てました。 この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。

それは、「純米で生酛を造って欲しい。ス-パ-ドライを見て分かるように、残念ながら酒としていくら凄くても、”切れ”が悪ければ評価されず飲んでもらえない。純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。

その純米の生酛は素晴らしい酒でした。
純米で造った生酛の市販酒でこれほど ”凄い”ものは現在に至るまで見たことがありません。
”素養”に欠けた私でも、自分が受け継ぎ自分が改良を加え確立してきた ”生酛”にかなりの ”変更”を ”IK杜氏”が行ったことが感じとれました。
酛には一ヶ月以上かかるが醪は高温で短い造り方を見直し、醪を低温で長く引っ張り酒を造っていると言うより ”粕”を造っているという造りを前提に、その中で酵母がよく働くと同時に ”働き過ぎない”ように酛を変更する-----それは、蒸し、製麹の変更も含み、どうしても変えられないもの以外は ”ぶち壊した”ことを意味していました。
生酛が ”家元”でもなく、”宗家”でもなく、「博物館入り」していない、身近にある ”庶民の楽しみ”であることを ”IK杜氏”は証明してくれたのです。
「純米生酛大吟醸生酒」は、その延長上の ”究極の生酛”でした。 それゆえ、私は一人でも多くの人に味わってもらいたかったのです。(”IK杜氏”の生酛は、飲んだ人間の”記憶”の中だけにしか存在しない”本当の幻の酒”になってしまいました)

活字マスコミやネット上で、その”中味”が「博物館入り」しているかどうかではなく、まるで ”絶滅危惧種”の動物のように、”造り方”にのみ関心が集まる現状を見て、どのような”感想”を持ったのか、”天国にいるIK杜氏”にぜひ聞いてみたいと私は思っています。

上記は、私が2005年8月に書いた”日本酒エリアN”の最初の記事の、
「長いブログのスタートです」の一部です。
( http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

生酛や山廃の、生酛系の絞ったばかりの”ふなぐち”を、飲んだことがある人はあまりいないと思われます。
たぶん、その”ふなぐち”を飲まれたら、舌がしびれるような”ビリビリしたごつい味”に、
「かんべんしてよ----」と弱音を吐くか、二度と飲もうと思わなくなるのかの、どちらかなのではないでしょうか。
しかしその”同じ酒”が、熟成期間を経て秋になると、不思議なことにきわめて丸くやわらかくなります。
その”丸みややわらかさ”は、新潟淡麗辛口と対照的なものです。
ごつくて硬い長い岩を、やすりとサンドペーパーで長い時間をかけて削って磨いて造った”柱”が感じさせるような、滑らかで存在感のある”丸みとやわらかさ”なのです。
味の幅もあり、厚みもありますが、”切れが良い”ので重さやくどさはまるで感じず、ましてや荒さやごつさもまったく残っておらず、”丸くてやわらかい”としか言いようのない酒-------もちろんひやでも美味く、冷やしても美味く、熱めの燗にすると”丸みややわらかさ”に包まれていた”強いもの”が現れ、”丸みややわらかさ”を強固に支え崩さない-------それが私を強く引き付けた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なのです。

日本酒雑感--NO3の続き

私は、「生酛単体の発売」を目指して動き始めました。
伊藤勝次杜氏のいた蔵の営業で、私の店の担当だったS課長を通じて”要望”を蔵に出しました。
直接話しをしている時間も長く、國権の存在を教えてくれたS課長は、この”提案”に好意的だったように感じたのですが、S課長を介してもたらされた返事は、「慇懃ではあるが無礼ではない拒絶」でした。
「これで諦めるようなら”要望”など最初から出しません」------再度S課長に、なぜ”生酛”の単体での発売が必要かを、”慇懃丁寧”に、しかししぶとく説得し、蔵に伝えていただくよう依頼しました。
S課長が月に1~2度私の店に来店されるたびに、この”行事”は繰り返されたのです。

今思うと、S課長も私と会社(蔵)の”板ばさみ”の立場にあり、できることなら私の店には立ち寄りたくなかったのではないでしょうか。
S課長は最後まで”意図的に”立ち寄ることを”回避”することはありませんでした。
それが”仕事”だからだけではなく、自社の杜氏だからだけでもない、伊藤勝次杜氏の”仕事”へのリスペクトの思いが”回避”させなかった------今の私にはそう思われます。

S課長ご自身にとっても、蔵にとっても、私の店は長い付き合いがあるにせよ”販売数量”は多くなく、取引を失っても”痛くも痒くもない”程度の取引先でしかありませんでした。
しかしS課長は福島県外をも担当するという”営業職の特性”のため、この蔵の皆さんの”平均”より広い”視野”を持っておられました。
その”視野”が私に國権の存在を教えてくれたのですが、そのポテンシャルからすればまだまだ起こす”波紋”が小さかったため、東北の蔵の方々が「できるだけその影響を弱く見たい」と思われていた新潟淡麗辛口の”可能性の大きさ”をも、S課長の”視野”は捉えていました。
自他共に認める”苦戦”の中にありながら、新潟淡麗辛口の”将来”には何の疑問も待たない私の”動き”から、新潟淡麗辛口の潜在能力と影響力の”巨大さ”をも、S課長の”視野”は捉えていたはずです。
近い将来、S課長の蔵の”営業成績”に多大な影響を与えかねない新潟淡麗辛口の”攻勢”に、自らに残された有効に対処できる”武器”は、伊藤勝次杜氏の”生酛”しかないことも、S課長には見えていたはずです。
結果から振り返ると、この時期このような”視野”をS課長が持ちえたことは、伊藤勝次杜氏と蔵にとって大きなプラスでした。
もし”生酛”の発売が3~4年遅れていたら、久保田の発売が”起爆剤”となった新潟淡麗辛口の”大攻勢”の中で、生酛も純米生酛もその魅力を”市場”で発揮できずに埋没したと思われるからです。
このタイミングだったからこそ”大攻勢”に耐えうる基盤を”市場”に造り出す時間を、伊藤勝次杜氏の”生酛”は持つことができたのです。

会社員となって16年になる今の私には、当時は見えなかった、このときのS課長の”苦しみ”がよく分かります。
当時の私の店の”方向”からいって、”生酛”が発売されたとしてもプラスはあまり無く、”要望”を自分のために出し続けてるわけではないことは、S課長も十分に分かっておられました。
そして私の”要望”が、蔵ご自身の感じ方がどうであれ、”市場”から「手堅いが平凡な県内の量産メーカー」と思われていた”評価”を大きく変える可能性を持つ、蔵にとって「得はあっても損のまったく無い提案」であったことも、S課長は十分に理解されていました。
しかしそのS課長の”感覚”は、蔵の上層部の”理解”を得られないものでした。
上層部の”理解”の得れない”要望”を再三に亘って上げ続けることは、”組織の一員”としては大きな”リスク”を抱えることに他なりません。
最悪の場合、上層部の”不興を買って”それが自分の身に及ぶことを覚悟せざるを得ません。
S課長が、”リスクの分散”を計りながらも”要望”を上げ続けた最大の理由は、伊藤勝次杜氏のお人柄をも含めたその”仕事”への、S課長の親しみと尊敬の気持だったと私は思っています。
私もS課長も、置かれた立場も見えている状況もまったく違いましたが、伊藤勝次杜氏を始め蔵人の皆さんの”思いとご苦労”の詰まった”生酛”を、エンドユーザーの消費者に理解し評価してもらいたい-------その一点では一致していたと思えるのです。

私はS課長との”長い交渉”から、さらに前に自分自身が進まない限り”要望”の実現が難しいことを感じていました。
予想以上に硬い”上層部の壁”を、たとえ私が前にさらに前に進んだとしても”突破”できるとは私自身もとうてい思えませんでしたが、次のステップ(S課長のすぐ上の”上層部”)へ進まなければ”要望”の実現の可能性がゼロである以上、前に進まざるを得なかったのです。

日本酒雑感--NO5に続く


日本酒雑感--NO3

2008-08-20 12:11:00 | 日本酒雑感

伊藤勝次杜氏の醸し出した”生酛”について、私は何回も書かせていただいています。
たぶん、生酛系の酒に詳しい方なら伊藤勝次杜氏のいた蔵の名前は特定されているのではないかと思われます。
それにもかかわらず私が蔵の名前を”書かない”のには、それなりの”理由”があるからなのです。

私が伊藤杜氏の”生酛”を初めて知った昭和50年代前半、
伊藤杜氏の”生酛”は、「存在はしていましたが、存在しているとは言いがたい状況」にありました------そしてそれは、伊藤杜氏のいた蔵の方針でもありました。
その時期”生酛”に、日本酒業界にもエンドユーザーの側にも関心も興味もまったくと言っていいほど無い状況で、”生酛”に関心があった私は、「博物館の展示物のようなものが好きな変わった人間」と、その時期日本酒業界の人達には思われていたようです。
そのときから30年近い月日が流れ、”生酛”や山廃の生酛系の酒は当時と比較にならないほど認知され評価されています。
ナショナルブランド(NB)の灘、伏見の酒の品揃えにさえ山廃がある現在では、庶民の酒飲みのとっても生酛系の酒は「珍しくない存在」になっています。
それは私にとっては、専用の競技場も”持てずに”おこなわれていたきわめて弱く人気もまるでなかった時代のサッカーの日本リーグを見ていた人間が、現在のJリーグの試合を見ているようなものなのです。
しかしそれは喜ばしいことであると同時に、私に、強い”違和感”をももたらしています。

私が初めて伊藤勝次杜氏の”生酛”を知ったころ、これは今思っても驚きなのですが、3000石(一升瓶換算で30万本)以上造られていましたが、”生酛単体”の販売された酒としては誰も飲むことはできなかったのです。
なぜなら当時福島県の量産メーカーとも言えた1万石に近い販売数量があった銘柄の酒質の根幹を支えるものとして、すべての”生酛”は通常の速醸酛で造られた酒とブレンドされていたからです。
とんでもない数量の、非常に手間がかかる”生酛”を造り続けていた伊藤勝次杜氏は、そのため杜氏としての”晩年”になるまで”大吟醸”を造ることができなかったのです--------。

伊藤勝次杜氏の”生酛”は、上記の理由から、エンドユーザーの消費者はおろか日本酒業界の関係者にさえほとんど知られていなかったのです。
私にしても、國権について--NO2に書かせていただいた大木幹夫杜氏のお話を聞いていなかったら、たぶん伊藤勝次杜氏の”生酛”に関わることは無かったと思われます。

私は大木杜氏のお話を伺ったあとで、伊藤杜氏の”生酛”がブレンドされた酒を飲んでみました。
当時明らかに日本酒の最先端を走っていた、〆張鶴、八海山、千代の光を売らせていただき、鶴の友も見させていただいていた私の目には、何の先進性も感じられない”古くさい”あまり魅力のない酒のように映りましたが、新潟淡麗辛口にはあまり無いと思われる”部分”も確かに存在していました。

スーパードライの大ヒットによって倒産の危機から救われたアサヒビールの例が示しているように、この時期は日本人の食生活が大きく「ライト&ドライ」へ動いていました。
新潟淡麗辛口は、市街地でも一般道でもシャープに走りワインデイングロードのコーナーを最小限のパワースライドで軽快に気持良くクリヤーしていく、ロードスターに代表される、FR(後輪駆動)のライトウェイトスポーツのような楽しく時代にマッチした先進性のある存在------私はそう感じていました。
それに対して”生酛”がブレンドされた酒は、従来の、手堅く造られてはいるが重厚で重たくエンジンのレスポンスも良くない、安定はしているが楽しさの欠けらもない鈍重なコーナーリングしかできない車のような印象を全体として感じたのですが、ロードスターにはない点も見つけていました。

けして楽しくもない鈍重なコーナリングですが、路面状況の変化(悪化)による影響はロードスターよりはるかに少なく、むしろ悪化するほどその”安定感”が際立ったのです。
しかしその”安定感”は、残念ながら、ごく僅かな人しか理解できないものでした。
その当時の私は”生酛”については何も知りませんでしたが、強く興味を引かれ”生酛造り”を実際に見せていただいたのです。
直接お会いした伊藤勝次杜氏は、どこにでもいる穏やかな”平凡なおじいさん”という印象でした。
麹室や酒母室を始め蔵の内部を丁寧に案内してもらったあとでお話を伺ったのですが、
淡々と当たり前のふつうのことのように話して下さったのですが、当たり前ではなく平凡でもない”話の内容”に私は驚きましたが、実際に目にした”生酛”の良さがこのままではエンドユーザーの消費者に伝わらないことも痛感していました。
そして、どうしたら伝わるかを、おそまつで能天気な私なりに、考え始めたのです。

路面状況の悪化に対しても”安定感”を発揮する”生酛の特徴”を、価値として理解してもらうためには、”安定感”そのものをさらに強化拡充するとともに、不必要な部分での重厚さや重さを極力排して軽量化を計り、ロードスターとは違う形であってもそれに近いシャープな操縦性を持つことができれば、”安定感”がアドバンテージとして受け入れてもらえるのではないか------”生酛”の最大の強みである”安定感”を最大限に際立たすためには、ロードスターではなく、レガシーのツーリングワゴンの方向ではないのか、そして伊藤勝次杜氏の”生酛”ならそれが可能ではないか、と思い始めたのです--------おそまつな私なりに”考えに考えた”末に出てきた私なりの”答え”は、当たり前と言えば当たり前の、”シンプル”なものでした。

「生酛を本醸造で造り、ブレンドしないで”生酛単体”で瓶詰めして販売する」

その当時もそして今も、”生酛”を3000石造ることは”とんでもない”大変困難な作業なのです。
その”とんでもないこと”を40年間続けてきたのに、伊藤杜氏は、酒販店としても”駆け出しの若造”の私に、偉ぶることなど微塵もない真摯な態度できちんと対応していただき、今でも忘れられない”話”を聞かせていただきました。
「一度連続蒸米機を使ったことがあるが蒸しがうまくいかず、無理を言って元の甑(こしき)に変えてもらった」-------この甑は一つではなく二つです。深夜の酛摺りも自動的に”二つ分”になってしまうのです。
「生酛の酛米、麹米には五百万石が一番良い。五百万石を使った酛は”失敗”がきわめて少ない」-------低温でも良く溶ける五百万石は、同じく低温発酵で使われる10号酵母とペアで、淡麗辛口の代名詞の越後杜氏が”主力にした”酒造好適米で、この時期、南部杜氏で使っていた杜氏は珍しかったはずです。
「やっぱり麹かなぁ-----」------それが、生酛造りで一番難しいのはという私の”質問”に対する、伊藤勝次杜氏の”返答”だったのです。

私が伊藤勝次杜氏がおられた蔵を訪ねたのは、”勉強あるいは興味”のためで、”主力”で売っていこうと思ったからではありません。
私の店に並んでいた”生酛をブレンドした酒”はそれなりに売れていましたが、〆張鶴や八海山、千代の光とは”戦うフィールド”が違い、これからを戦う”武器”になるとは思えなかったのです。
事実訪ねた蔵には、〆張鶴や千代の光で”感じたもの”はまるで無く、ましてや鶴の友のような”雰囲気”は皆無で、むしろ中堅のナショナルブランドの蔵に近い”印象”でした。
しかし、伊藤勝次杜氏からはまったく”違う印象”を受けたのです。
今思うと、その”違う印象”は、鶴の友の樋木尚一郎蔵元の「変えてはいけないものは変えない」という”意志”に近いものだったかも知れません。
伊藤勝次杜氏からは、生酛という”有形の伝統の手法自体”を守ろうとしているのではなく、飲む人に飲んで楽しんでもらうためには、自分達が慣れ親しんできた”生酛造り”がどれほど自分や蔵人に負担が及ぼうとも手は抜けない、見ることのない飲む人のためにさらに一歩でも二歩でも前へ進まなければならない--------そんなお気持が、淡々とごくふつうのように話される”話”の中から、私には伝わってきたと思えたのです。

そんな伊藤勝次杜氏を始めとする蔵人の皆さんの”思いとご苦労”は、残念ながらこの蔵の”発売している酒”を通じては、客観的に見ると、エンドユーザーの消費者にはまったくと言っていいほど伝わっていない状況にありました。
私は伊藤勝次杜氏の”お話”を伺っているうちに、この方々の”思いとご苦労”を一人でも多くの”庶民の酒飲み”に分かってもらいたい------との気持が強くなっていきました。
たぶん私の店の”営業的利益”にはプラスがあまり無く、”やり難い困難さ”のマイナスのほうが大きく”労多くして”に成りかねないことは、その時点でもある程度予想できていたのですが、
せめて自分の店に来店される”庶民の酒飲み”には分かって欲しい、理解し評価して欲しいとの”気持”がだんだん大きくなっていったのです。

そして私は、「生酛を本醸造で造り、ブレンドしないで”生酛単体”で瓶詰めして販売する」
という方向に一歩踏み出すことになったのです。
予想どうりその先には、鶴の友の樋木尚一郎蔵元や早福酒食品店早福岩男会長が後に
”同情”して下さった、”闘いと困難の日々”が待っていました。

日本酒雑感--NO4に続く


日本酒雑感--NO2

2008-08-09 15:04:29 | 日本酒雑感

20071026_010 鶴の友の樋木家は、日本酒の銘柄としての「米百俵」にはまったく関係はありませんが、小泉元首相が取り上げ有名になった「米百俵のエピソード」そのものには深い関わりがある------と、いろいろな方から聞く機会が私にはありました。
樋木家5代目当主の樋木尚一郎蔵元に”質問”をし、このことを直接伺ったことがあります。

以前にも何回も書いていますが、鶴の友の樋木酒造は蔵もその住まいも「文化財」に指定されており、たとえ酒造りや住むのに”不便”があっても勝手に手を入れられない状況にあります。
外観のたたずまいも、いつもお話しを伺う天井が高く囲炉裏が切られた客間も、最初に行かせていただいた30年近く前と、基本的には変わっていません。
その客間で、囲炉裏を間に挟んで樋木尚一郎蔵元と向き合いお話を伺うとき、日常的に感じている時間のスピードがきわめて”ゆっくりなもの”へ変化していくことを、いつも実感できます。

樋木尚一郎蔵元は、控えめに淡々とお話して下さったのですが、百数十年前の「エピソード」なのに伺っている私にはまるで”ちょっと昔のことの話”のようにしか思えず、「なるほど、そうだったんですか」と、あたかも樋木家の御先祖を知っているかのような”あいづち”が口から出てしまい、思わず苦笑してしまった記憶が私にはあります。
私にとって鶴の友と樋木尚一郎蔵元は、私が直接知ることのできない時代の「息吹、気分そして雰囲気」を感じ取れる”タイムカプセル”の役割も果たしていただいているのかも知れません。

樋木酒造の”たたずまい”と感じ取れる”雰囲気”は、鶴の友について-2--NO2にも引用させていただいた地元の内野育ちの”羊さん”の、

鶴の友 副題 羊の基準酒(http://blog.goo.ne.jp/merino_wool/e/f7aafb181b63cfbff5e888905327fa93
雪と鶴の友と梅(http://blog.goo.ne.jp/merino_wool/e/5be60a626868c164ae7d195de6b31418

ふたつの記事の達意の文章を読んでいただいたほうが、
私の”作文”よりはるかに良く分かります。

私の個人的な感想だけなのかも知れませんが、現在私達が普通に見かける日本の伝統的文化は、江戸時代に成立したか熟成して庶民の間に浸透していったものがほとんどのような気がしています。
もちろん明治以降の日本も現在まで続く優れた文化を造りだし、諸外国から”クールジャパン”と呼ばれ強い魅力を発散している現代の日本の文化の一翼を担っていることは、おそまつで能天気な私でも承知していますが、江戸時代に比べると”分が悪い”ように思えるのです。

かなり荒唐無稽な”仮定”ですが、もし、すでに”墓の中”入っている大正末生まれの私の父や明治生まれの祖父、曽祖父そして江戸時代中期までの”御先祖様”まで総動員して、「伝統、文化の継承」をテーマに”ディベート”を「N家限定」で開催したとしたら、曽祖父、祖父は”御先祖様”から立場が無いほど激しく突っ込まれ、父や私は”発言権が無く”肩身の狭い状態になっただけだと思われます。
私だけなのかも知れませんが、”御先祖様”がどのような人で、何を大事に思い何を残した人なのかは、私自身が直接接した祖父までしか私は分かりません。
祖父自身は、江戸時代末に生まれ育った自分自身の祖父と当然接触し話しも数多く聞いているはずですが、私はおろか父ですら何も知らず何も聞いてなかったようです。
そんな私や父に「伝統、文化の継承」がテーマの”ディベート”に発言権があるはずもありません。

江戸時代末に生まれ育った人達が、「外側の世界の変化がもたらした”内側へ変化の危機”」に対処するため、「自分達が受け継いできた変えてはいけないものを守るために、それ以外のものを徹底して変えた---------それが”明治維新の姿”ではないのかと、おそまつで能天気な私個人は感じています。
しかし仮にそうだとしても、”変えたもの”は十分伝わっていても、残念ながら”変えてはいけないもの”は私には本当に微かにしか伝わってないような気がしています。
しかし現代でも、たとえ当面の”損得、利益”を毀損しても、自分自身の”こだわりや信念”を優先し、自分自身が納得しない限り”仕事の終りが無い”職人や芸術の世界には、比較的濃く伝わっているようにも思えるのです。

物凄いスピードで状況が”変化”していく現代で、”変えてはいけないもの”を守っていく”作業”はきわめて困難な”作業”のように私には思えます。
鶴の友と樋木尚一郎社長の、”損得、利益”を毀損してでもその”困難な作業”を続ける姿を長い間見せていただく機会を与えられ、”変えてはいけないもの”の大切さ、貴重さを、おそまつで能天気な私も、ようやくほんの少し分かり始めたのです。

思いがけない”人の縁”から鶴の友に行かせていただくようになった私も、ほとんどの人と同じように、一番強く心引かれたものは、鶴の友の酒質という”有形”のものでした。
平成12年に国指定の登録有形文化財に登録されることになる樋木酒造の建物(酒蔵及び住宅)のたたずまいと雰囲気にも魅かれるものがあったと思えるのですが、最初のころの「鶴の友の酒質の不思議さ」という”有形”と、その鶴の友を自分の店の主力銘柄として「ぜひ売りたい」という”欲”に捕らわれていた私の目には、”映って”いても”見えて”はいませんでした。
新潟市内野にある樋木酒造に通う回数が増えてくると、売りたいという”欲”はそのたびに減っていきましたが、「鶴の友の酒質の不思議さ」という”有形”の秘密、本質を知りたいとの気持はますます強くなっていく一方でした。
そして、酒造技術の探求的な視点だけで”解明”しようとすることには”無理”がある、と感じるようになっていきました。
皮肉なことに、ある事情で実家の酒販店を出て”業界”を去ることになったとき、私がどうしても知りたかった”解明”が進むことになったのです。

「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」

何回も引用させていただいている、鶴の友に私が行く以前に、早福酒食品店早福岩男会長から伺った”言葉”ですが--------最初から”答え”は、私の前に”提示”されていたのです。
しかし私は、長い間そのことに気づかず、リンクさせていただいた”羊さん”のブログの2つの記事に書いてあったような、樋木尚一郎蔵元の、

「この樋木酒造さん、どうも造り酒屋というもの、
半公共的な性格を持つものというような考え方を
持っておられるようでありまして
詳しい事は書きませんが
世話になった人もさぞ多いでしょう。
どうやらノブレス・オブリージというもの、
この世に本当に存在していたらしい、
そう思える話があれやこれやと。
この家あって、あの酒があるのでございましょうなぁ」

半公共的でノブレス・オブリージと”羊さん”が表現された、

「羊が思うに、鶴の友というのは、
邸宅の門前に堂々とした花を咲かせるのではなく、
奥にある梅の古木より、飾らぬ門前に漂ってくる梅が香と
ちらりと覗く梅の花、
その梅の古木、根本まで見たらさぞ立派なものがあるのでしょうが、
あえて根本を露わにしたりはしない、
そういった味わいのお酒であるように思います」

押し付けがましくない”穏やかだが弱くはない持続的”な暖かさに包み込まれて、”悲壮な決意”をやんわり取り除いていただいた------という私自身の実体験がなければ、おそまつで能天気な私には、早福岩男さんの”言葉の意味”を、理解できることは無かったと思われます。

今の私は(おそまつな私個人の感想ですが)、鶴の友の本質は、江戸時代後期の樋木家の御先祖様から受け継いだ”変えてはいけないもの”を、できる限り”変えない”というところにあると思っています。
新潟淡麗辛口の最盛期に、新潟県はおろか全国の酒販店から強い取引の要望があったとしても、そしてその要望のほとんどすべてを断り樋木酒造の”営業上の利益”を大きく毀損することになっても長いお付き合いのある酒販店を最優先し、一番価格の安い鶴の友上白(表示はされていませんが本醸造で造られています)にすら、とんでもない高コストになっても酒造好適米の種類と質と精白にこだわり、”酒”に関係ないことでも”手助けすべき”だと思われればたとえ”損”でも全力投入され、事が成ってもご自分の”功績”はまったく語られないのです。
そのすべての根幹に、御先祖様から受け継いできた「変えてはいけないものは変えない」という樋木尚一郎蔵元の”強い意志”が働いている------そう思っているのは私だけではないことをを、早福岩男さんの”言葉”や”羊さん”の達意の文章が証明しています。

先日、鶴の友を長く造り続けてきた風間前杜氏が、おそらく最後の年に醸し出したと思われる大吟醸を飲ませていただく機会がありました。
私が、鶴の友に出会った昭和50年代後半、強い魅力を感じた「鶴の友の素晴らしく不思議な酒質」は樋木尚一郎蔵元の”強い意志”によって造られた今の世には在りえない”基盤の上”に、風間利男前杜氏が納得できるまで腕を振るった”芸術品”だったことを、私に改めて痛感させる素晴らしい”酒”でしたが、同時に風間前杜氏の”孫の世代”にあたる樋口現杜氏に鶴の友の”骨格”が伝わっていることも改めて実感させてくれたのです。

私は自分自身の”御先祖様”からは、まったくと言っていいほど伝わっていない江戸時代後期の方々が大切に受け継いできた「変えてはいけないもの」の一端を、鶴の友と樋木尚一郎蔵元という”窓”を通して見せていただいたことは、本当にありがたいことだったと感謝しています。
そしてそのおかげで、科学的に進歩した世界に開かれた”文明”としては現代よりはるかに劣った時代であったかも知れない江戸時代が、自分達も自然の一部であり川や山のような自然にはそれぞれに”神が宿り”、自然を敬い自然によって”生かされている”ことをごく当たり前のこととして生きていた(ある意味では大変にうらやましい)現代より自然体で生きれた時代ではなかったのか--------現代の日本人がより自然により日本人らしく生きるための重大な”ヒント”がこの時代にあるのではないか--------と、私は思い始めることができたのです。


日本酒雑感--NO1

2008-07-29 12:06:08 | 日本酒雑感

20071026_016

自分でも”長い”と思っている、鶴の友が中心の(大黒正宗も國権も含まれますが)「----についてシリーズ」は、私の周囲の人間には”不評”です。
「ずっと以前から聞いてる話を、長々と繰り返して書いてあるだけじゃないか」------というごもっともな”指摘”をよく受けます。
しかし、このような”指摘”のできるS髙研究員のような”庶民の酒飲み”はあまりいないはずです。

S髙研究員と私は約30年の付き合いがあり、お互いにお互いをよく知っています。
”酒の知識”だけではけして走らないS髙研究員ですが、新潟淡麗辛口や生酛においては、地酒屋さんでも昭和50年代の初めからやってきた人以外は、たぶん”戦わない”ほうがいい相手だと思われます。
かなり前の話ですが、出張先で暇つぶしに入った酒販店で、かなりしつこく山廃の酒を勧められ多少カチンときたS髙研究員は、
「あんたねぇ、山廃がいいと言うけど山廃という言葉が何を省略した言葉か知っている?」
と返したそうです。
それで相手は”黙って”しまったそうですが、山卸廃止酛を略した言葉だと知っていたとしても、
「じゃ山卸ってどういう作業か知っている?」とさらに突っ込まれただけだと思われます。
生酛系ではなく新潟淡麗辛口であっても、同じような”話”になったと思います。
昭和50年代後半に、故宮尾隆吉前社長に案内していただき〆張鶴が造られる現場を、南雲浩さんに八海山さんが造られる現場を案内していただいたS髙研究員を”納得”させるのは、かなり”骨が折れる作業”だからです。

S髙研究員のような私の周囲の人間や、「強いこだわりと自前の知識と行動力」を持つ日本酒の通、日本酒マニアの人達には私のブログはあまり”お役に立つ”内容ではありません。
タイトルのように、日本酒エリアNは”庶民の酒飲み”向けに書かれたブログだからです。
余裕があるとは言えない”小遣い経済”を破綻させない範囲で、日本酒に親しみ飲み続けている人や、「興味はあるんだけど、ネットを見たりマニアの人の話を聞いたりすると、なんか難しそうだしとっつき難くて飛び込めないんだよなぁ-----」と思っている人に向けて、
日本酒は間口も広く奥行きも深いが、日常的に身近にある”遊び心の塊”という根幹が現在も存在している”伝統”だし、面白くて楽しい”遊び”だという視点で書かれているからです。

日本酒業界からだけの視点でも無く、日本酒通、マニアの視点でも無い、ちょっと変わった角度からの”感想”のため、その”感想”が出てくる視点の「背景の説明」をしない限り”感想そのもの”が分かって頂けないないのではないか-------との気持から「背景の説明」を試みたため、自分でも呆れるほど”長く”なってしまったのです。
なるべく”業界用語”を使わずに「背景説明」をするのは、思っていた以上に大変で、似たような「私自身の体験」を繰り返さざるを得ない状況になり------上記の”指摘”を否定できないことになっています。

同じような「私自身の体験」を、また繰り返して書くことになるのかも知れませんが、「背景説明」は十分に終了したと強引に仮定し、
この「日本酒雑感シリーズ」は、「背景の説明」を極力省略した、とりとめのない感想、思いつくままの感想-----「雑感」を短めに書いていきたいと考えています。

アルコールに”強くはない”私が、ここまで日本酒の世界に引きつけられているのは、酒質という”ハード”だけではなく、それ以外のものにも強い魅力を感じているからかも知れません。
むしろ酒質という”結果”を生む、ソフトと言うべきその原因である物質的には形が”存在しない”ものに一番強い魅力を感じているのかも知れません。
おそまつで能天気な私は、かつて、日本酒の世界を知れば知るほど”疑問”に思うことがありました。たぶんこの”疑問”は、日本酒の世界、さらに言えば鶴の友の樋木尚一郎蔵元と出会うことがなかったら、絶対に感じることのなかった”疑問”だったと思われます。

その”疑問”とは、学校で学んだ「江戸時代」は封建制度の時代で、民主主義の現代に比べはるかに遅れた社会だと教わってきましたが、本当にそうなのだろうか-----という思いでした。

生酛造りも江戸時代にその技法が確立され広まったと思われますが、化学のかの字もなかった時代に(古代にまで遡る伝統があったにせよ)、あれほど自然をうまく取り込みあれほど複雑な(ほとんど世界で唯一の)平行複発酵で清酒を造ることができたのか-----それは私にとって”新鮮な驚き”でした。
新潟淡麗辛口の造りを〆張鶴、八海山で数年直接見せていただきある程度の”実体験”を積ませてもらったうえで、理論や知識からではなくその造りを見ることから入った私は、今思うと、生酛造りの背後に「江戸時代の名残の雰囲気」のわずかに残された”残像”を、見ていたのかも知れません。
意図的にではなく”自然な流れ”で、しかも対極にある新潟淡麗辛口と生酛に最初の数年で出会ったことは、当時の私が感じていたよりも幸運であり、私の日本酒に対する「間口の幅」を決定付けてくれたような気がするのです。
”博物館入り”しないために、「変えたくないもの変えないために、変えるべきものを徹底して変えようとしていた新潟淡麗辛口」、世の中が変わろうとも世間の評価がなかろうと「変えないことを徹底して守ろうとした伊藤勝次杜氏の生酛」------この二つの酒がその酒質の差だけではなく、”商売上のメリット”だけでは走れない”何か”を私に与えてくれたと、今は思えるからです。
そしてその”間口の幅”が、これも”自然な流れ”としか今は思えないのですが、ありがたいことに鶴の友と樋木尚一郎蔵元と出会えたことで、私自身の日本酒に対する感じ方の「奥行き」を深める機会を与えられ、その”疑問”におそまつな自分なりの”解答”をゆっくり考えられる”時間とフィールド”を与えられたと、感謝しているのです。

現役の酒販店時代の私は、頭の片隅に常にその”疑問”とその”解答”を求める気持はあったのですが、極力小さくするようには努めたのですが、酒を売る人間としての公私ともどもの”政治的立場”が私にもあり、それが”邪魔して”納得できる”解答”が出ないままに終わってしまったのです。
皮肉なことに、日本酒業界を離れ公私ともに”政治的立場”が無くなってから、私は私自身が納得できる”解答”に向かって少しずつ”前進”し始めたような気がします。

ありがたいことに、日本酒業界を離れても〆張鶴の宮尾行男社長、千代の光の池田哲郎社長、早福酒食品店早福岩男会長の皆様とは変わらぬお付き合いをさせて頂いておりますが、鶴の友の樋木尚一郎社長はその”例外”でした。
私にとって、樋木社長とのお付き合いは、日本酒業界を離れてからのほうが”本格化”したからです。
酒販店だったころには見えなかったものが見え始めたこともフォローの風になり、鶴の友、そして樋木尚一郎蔵元という”巨大な参考書”との長い時間をかけた”質疑応答”の中で、その”疑問”に対する納得できる”解答”が見つかり始めたのです。

またもや長くなりそうなので、鶴の友と樋木尚一郎蔵元のおかげで見つかり始めた”解答”がどんなものであったかは、日本酒雑感--NO2に書きたいと思っています。