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日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-5--NO2

2018-03-10 16:39:12 | 鶴の友について
 


2005年に書き始めたこのブログを2018年にも書いていることにある種の感慨が私にはあります。
ここ数年は書く記事の本数が少ないのですが、それでもここまで書き続けることになるとは想像できませんでした。
更新回数も少なく記事も長く読み難いにも関わらず、本人としては申し訳ないのですが、訪れる人が少なくないのがここまで書き続けた理由の大きな一つなのかも知れません。
毎年書いているような気がするのですが、今年はもう少し“勤勉”に記事を書いていきたいと思っています。


昨年の12月に読売新聞に獺祭の広告が大きく掲載されました。
「お願いです。高く買わないでください」と書かれていました。
私がネットで見る限りでは“好意的な評価”が多かったのですが、私個人はやはり“違和感”を感じざるを得ないのです。
なぜなら獺祭には正規販売価格で32400円(720ml)のフラグシップの大吟醸も有りますし、「オール山田錦で大吟醸酒以上しか造っていない」という方針は“企業”として“高単価”を志向してきた証明だからです。
もちろん私自身も正規の価格をはるかに上回る価格で売られているという“事実自体”には強い怒りを感じています。
しかし広告に出ていた“比較的安い下のクラスの獺祭”でも、(正規の価格であっても)庶民の酒飲みが「気楽に晩酌で飲める」価格ではありません。
「大吟醸は晩酌で飲む酒ではない」という反論が飛んでくるのも承知の上ですが「手に入り難い、高酒質高単価の酒」というイメージを獺祭が纏っていたことも私個人には事実だと思われるのです---------それゆえ私自身は“違和感”を感じざるを得ないのです。





なぜ私が獺祭の広告に“違和感”を感じるのか?
たぶんそれは、昭和五十年代前半より現在に至るまで鶴の友・樋木酒造を身近に感じ見続けてきたことが原因だと思われます。

鶴の友・樋木酒造は、獺祭・旭酒造のアンチテーゼと言えるほどあらゆる面で正反対の蔵です。
製造石数も800石以下と30000~50000石の間と言われている獺祭・旭酒造とは比べられないほど小さい蔵で、蔵の建物も住居も文化庁の有形文化財に指定されており(その制約で)造る酒の量が減ることはあっても増えることはない蔵です。
しかも壜詰めもレッテル貼りも1本、1本人間の手で行なっておりある意味できわめて“非効率な蔵”ですが、その分“丁寧に手間をかけて”造られているとも言えます。
上記の写真は、お歳暮として親戚、諸先輩、友人に差し上げたり自分自身で楽しませて頂く鶴の友ですが、市販大吟醸の上々の諸白や非売品の大吟醸のレッテルには“大吟醸とは書いて無く”、特撰には吟醸酒とは書いてありません。
また上記の写真には無い別撰や上白は本醸造ですが本醸造とは書いてありません(さすがに純米は純米と書いてありますが------)。
米の種類も精米歩合も書いてありませんが米は五百万石を中心に越淡麗、山田錦も使用しています、平均精米歩合は一番価格の安い上白でも60%に近い水準まで磨いています。
鶴の友はコストの高い酒造好適米もふんだんに使い手間をかけた丁寧な造りの酒質の高さに定評がありながらも寒梅や久保田の同等品と比べ価格が1割以上安いのです--------特に特撰はコストパフォーマンスがきわめて高い超お買い得な酒です。
その鶴の友を醸し出す樋口宗由杜氏は鶴の友の杜氏として16年目を迎えるベテランですが年齢は46歳と若い“ニュータイプの杜氏”とも言うべき存在です。
樋口宗由杜氏は新潟の出身でもなく酒造業界の関係者でもありません。
若い頃アルバイト先で飲んだ吟醸酒の魅力に惹かれ“酒造りの世界”に飛び込んだ“素人”で、中越の蔵に所属し新潟清酒学校で酒造りを学び平成11年に鶴の友に入り4年間の風間前杜氏の薫陶を受け15年に杜氏に就任したというのが経歴です。

鶴の友・樋木酒造は何回も書いているように蔵・住居が有形文化財で“伝統を大事にする蔵”ですが、同時に“破天荒なほどの革新的な蔵”でもあるのです。
上記の樋口杜氏は平均年齢80歳の数々の実績を誇った“超高齢軍団”に代わり鶴の友の造りを受け継いだのですが、(前杜氏の風間杜氏のサポートを受けていたとしても)樋口杜氏ともう一人以外の三人は樋口杜氏が若いころのアルバイトの仲間という“まったくの素人”だったのです。
今客観的に振り返ると、新潟清酒学校と新潟県醸造試験場があった新潟だから可能性がゼロではなかったと思えるのですが、それでもリスクが極めて大きい決断でした。
鶴の友・樋木尚一郎社長のこの決断が今後三十年以上酒を造り続けられる、“徒弟制度の酒造り”の欠片も無い“平成の時代の酒造り”のチームを造りだしたのです。
現在平成生まれが二人いる鶴の友の酒造りのチームは“酒造りの関係者や新潟県民”以外であっても受け入れてきました。
3年くらいでひととうり酒造りの各パートをこなし2級酒造技能士になりその後さらに各パートをより深く知り、杜氏が引退し後継者が居なくなった蔵の製造責任者として数名を送り出していくつかの小さな蔵の廃業を回避する手伝いをした、“業界の常識”では有り得ない「小さい蔵のための酒造技術者を“拡大再生産”できる希少な蔵」になっているのです。
しかもこのチームはメンバーが入れ替わりながらも全国鑑評会の金賞、越後流選手権の一位、関東信越国税局鑑評会の第一位というトップエンドの酒質でも結果を出し続け、価格の一番安い上白(二千円以下)でも価格をはるかに上回る酒質の高さを維持し庶民の酒飲みを“幸せな気持ち”にさせているのです----------。





上記は暮れに送って頂いている新潟の酒です。
〆張鶴も千代の光も鶴の友も四十年近い(酒販店時代+会社員の現在も含め)お付き合いをさせて頂いております。
〆張鶴を飲むときは宮尾行男会長、千代の光を飲むときは池田哲郎社長、鶴の友を飲むときは樋木尚一郎社長の顔が自然に浮かび色々な“思い出”が脳裏を駆け巡ります。
この三つの蔵の酒は晩酌で毎日飲める一番価格の安い酒でもきわめて美味く、“値段以上の価値”があり買ったことを“後悔”しない貴重な酒蔵の酒です。
もしこの記事を見られた方で〆張鶴・純、千代の光・吟醸造り、鶴の友・特撰を飲む機会に恵まれましたら、できれば獺祭と比べて飲まれることをお願いいたします----------そうして頂ければ、私が獺祭に感じている“違和感の一端”を具体的にご理解頂けるのではないかと思われるからです---------------。











鶴の友について-5--NO1

2017-11-28 17:46:12 | 鶴の友について



前回の投稿からまただいぶ時間が過ぎてしまいました。
にも関わらず見て頂いている人が少なくないことには本当に申し訳なく反省もしております。
元々このブログは、2005年に中学生だった息子の一言で書き始めたもので、どちらかと言うと“備忘録あるいは覚書”の要素のほうが大きかったのです。
それゆえに当初は一部の蔵や一部の個人名は意図的に書いてはいなかったのです。
何度も書いていますが、ある意味で、私は“変わった育てられ方”をされてきたと言うか、酒販店を離れて四半世紀以上経つのに今も鶴の友・樋木尚一郎社長、〆張鶴・宮尾行男会長、千代の光・池田哲郎社長に良くして頂いているという“あまり無い経歴”を歩んできました--------それゆえ酒蔵、酒販業界の一部にもパイプが残っており、2005年には自分自身が過去に経験してきた“事実や実体験”であってもストレートには書き難い面が存在していたのです。

それから12年の月日が流れ中学生だった息子も大学を出て3年目の社会人になった今、私自身も会社員としての“卒業の日”が視野の片隅に入りつつある今“私の体験してきた事実”をもう少し素直に書いても良いのかなぁとの気持ちになりつつあります。
なぜなら“私が体験し目の前で見た事実”が「私自身が耳を疑うような“事実”」に変換され“流布”していることを知る機会が少なくないからです。
かつて私を良く知る人間がある蔵元から私についての話を熱心に聞かされたのですが、「自分の知っているNさんは蔵元の話のNより年齢が若いし話の内容も直接聞いている話と違うからNという別人の話か?」と思った--------そのようなことがけっこうあるからなのです。

私自身はおそまつで能天気な人間にしか過ぎないのですが、昭和五十年代初めより年齢が一回り以上の酒販店の方々と“新潟淡麗辛口の世界”に入り込んでしまったため“キャリアと年齢が一致”していません。
たぶん私の年齢の世代では久保田の展開のおりに“新潟淡麗辛口の世界”に関わりを持った酒販店が大多数だと思われますが、私はその時点で〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱っており比較的多いと思われた販売実績を待っていたため、久保田発売の半年前に“久保田作戦”に参加することが決定していてそれ以後朝日酒造相澤東京主張所所長(当時)を介して嶋悌司先生に大変お世話になることになるのです。
またそれ以前の昭和五十年代前半に、私が取り扱いをしていた〆張鶴、八海山、千代の光、南会津の国権、当時頑なに生酛の単体での発売を拒んでいた大七との長く続いた交渉をしていた関係でごく一部の郡山市の酒販店と関わりを持っていて、久保田の展開そして私が業界を離れてからも“その流れ”が続いていたのですが約10年前にこの郡山の人達と接触を持ったことを“後悔”する出来事に私は遭遇することになるのです------------。





意図せずに“その私の後悔に繋がる景色”を見せてくれたのも郡山市の酒販店のH店主でした。
彼は、「1階の高窓から見える景色と3階のベランダから見える景色は違う」ということを教えてくれたのです」
彼自身も「見ていた景色と“実際の景色”が違う」ことに気が付き愕然としていたのですが、そのことで私も気が付かざるを得なかったのです-------私に見えていた風景は“偽りの無い本物”なのかと-----------。

冷静に客観的に見ようと努力した結果、私に見えていた風景とは“180度違う景色”が見え始めたのです。
そしてその“景色”は、人を見る目の無さと“性善説”に疑いを持ってなかった自分の甘さを私自身に思い知らしめたのです。
私は二度と郡山市の酒販店には関わりたくないと強く思ったのですが、私がこの景色を見直すきっかけを造ってくれたH店主には“同病相哀れむ”という訳ではありませんがそれにやや近い感情があり、苦境に陥りつつあったH店主を手助けしようという気持ちの方が上回る結果になってしまい約10年が過ぎた今もH店主とは親しい付き合いがあります。
H店主は、酒のマニア・酒の通ではない郡山市周辺の“ごくふつうの酒のファン”のエンドユーザーの消費者とって、現在は貴重なだけではなく面白い存在にもなっていると私には感じられます。
その面白さの一端を以下に紹介したいと思います。



郡山市・H商店 H店主

「こんな周りに何も無い田舎で、有名銘柄もまるで無いのに何でやっていけるのですか?」--------真顔で来店したお客様にそう言われたことがあると笑いながら私に“教えて”くれたことがありました--------そう言うあなたもどうして来たのと突っ込みを入れたくなりますが-------。
H商店の周りには本当に何も無く、日本酒も焼酎も“超有名銘柄”ももちろんのこと“有名銘柄”も取り扱ってはいません。
にも関わらず真顔で発言されたお客様も、場所を調べ遠方からわざわざ来店しその後も来られているそうです。
また月に1~2回来店し酒を購入してくれるのですが“酒の話”は一切せず、車の話を1時間ほどして帰っていくお客様がいたり、会津で買える酒をわざわざH商店まで定期的に買いに来る(会津の)人がいたり、「旅行に行ったからお土産を買ってきた」と置いてゆくお客さんもいるそうです。
そして手書きで個性的な“酒のポスター”を生み出す意外な才能もH店主にはあります。
私が現役の酒販店だった昭和五十年代初めから平成の初めならいざ知らず、現在ではH店主のような酒販店は、かなり珍しい存在だと思われますが、さらに珍しいのは平日の午前中は(アルバイトに行っているため)“常に留守の店主”だということです----------。

H店主のことは三十年前から知ってはいましたが、必ずしも親しいとは言えない存在でした。
十数年前だったでしょうか、長くお付き合いがあった郡山の酒販店に対する『印象が180度変わる事態』が生じ、その渦中に巻き込まれたH店主と密接な関係になったのです。
その時点ではエンドユーザーの消費者にとって貴重な酒販店とは言えない存在でしたが、その時代しか知らない人が現在のH店主を見たら“別人”としか思えないほど大きく変わり『止めたら庶民の酒飲みが困る酒販店の店主』になっているように私には思えます。
もちろん100点満点ではなく課題も多く抱えているのですが、少なくても、酒販店は酒を造ってくれる酒蔵とその酒を買ってくれるエンドユーザーの消費者がいなければ成立しない存在ということを『理屈ではなく当たり前の肌の感覚』で今のH店主は分かっている------そう私には見えるのです。
アルバイトをしているくらいですので経済的には楽とは言えないのですが、細谷店主は“楽ではない話”も少なくても電話では“明るい笑い声”ともに話してくるし、私の“突っ込み”も笑いながらになってしまうのです。
10年前は話す内容も暗かったし会話の中に“笑いの要素”が入ってくるのは皆無に近かったのですから隔世の感があります。

“印象が180度変わる事態”が生じてからの数年は「まるでジェットコースターに乗ったかのような“激動”」が続き、酒販店を廃業するのが普通のような状況なのに、なぜか不思議(もちろんH店主も努力していますが)なことに支援の手が伸びてきて、もしかして廃業したほうが楽だったかも知れないのに“廃業出来ない流れ”に方向が変わったことが一度や二度ではないのです。
さらにH店主の店の状況を知りつつも“廃業することにならない”と、私自身も“妙な確信”を持ち続けていたのも不思議と言えば不思議といえました。
そのときの“妙な確信”を支えていたものは、「今回の激動や苦闘が、自分が宝物や大事なものと思い強く握り締めていた拳を開く機会になる。開いてみると宝物や大切なものに思えたものが、実際は無駄なものだったりゴミのようなものだったことに気づき捨て去ることが出来る。そして拳を開いたことで本当に自分に必要で大切なものを改めて掴み取ることが出来る」---------私自身が昭和五十年代初めから平成にかけて諸先輩のおかげで経験することが出来た私自身の“実体験”だったのです。
そしてH店主は“自分にとって必要な大事なもの”を激動と苦闘の日々の中で改めて掴み取った---------私にはそう思えてならないのです。





ではH店主が掴み取った“大事なもの”とは一体何なんでしょうか。
たぶんそれは「酒と酒に関わる人達を自分が大好きである」ことにH店主自身が改めて実感したことだと思われます。
“酒と酒に関わる人達”とは、蔵元や早福岩男早福酒食品店会長のような酒販店の大先輩だけではなくエンドユーザー消費者(ふつうの酒のファン)も含まれます。
H店主は廃業も覚悟せざるを得ない日々の中で、「酒販店としての自分は何を一番失いたくないのか」を毎日の仕事や生活の中で肌の感覚で痛感させられたと思われるのです。
“酒を間に置いた人間と人間の気持ちの交流”-------それが一番自分が失いたくないものだと自覚したH店主は、「廃業する日が来るまではその気持ちの交流を大事にし今の自分に出来ることをしよう」そう思い行動に移したと思われます。
不思議なことにそう思い行動すると、思わぬ人から暖かい言葉を掛けられたり思わぬ人からサポートの手が伸びてきたりとH店主の想像していなかった事態になってきたようなのです。
平日の午前中のアルバイトも意外な人からの話だったようですが、H店主の“心の置き所の変化”が引き寄せた話だったのかも知れません。
そんな“経験の数々”がとっくの昔から“理屈”では理解できていた「早福岩男・早福酒食品店会長の”教え”」を、心の底からあるいは肌の感覚で理解し共感できるようにH店主を変えていったように私には思われてならないのです。

ある意味で私もH店主も早福岩男会長の“弟子”と言えると思います。
私が“早福哲学”をおそまつで能天気なりに“少し理解できた”と思えるのは、皮肉なことに、酒販店を離れたの流通業界に身を置いて“複数の視点”を持てたからです。
激動と苦闘の時期にH店主から「Nさんからは早福さんとおなじことを言われる」と苦笑交じりでよく言われたのですが、今はH店主の発言は「早福さんの発言と同じよう」に私の耳には聞こえてきます。
「酒と酒に関わる人達を自分が大好きである」--------昭和五十年代初め新潟の蔵を歩くなかで出会った地方銘酒(地酒)を取り扱う酒販店は程度の差はあっても皆さん“酒に対する愛情”を持っていました。
酒蔵に対してもエンドユーザーの消費者に対しても「酒を間に置いての人間対人間の気持ちの交流」を大事にしていたと思われるのですが、現在の有名銘酒(地酒)専門店の皆さんははたしてどうなのでしょうか?
その意味では私と違和感無く付き合うH店主は“昭和の匂いのする酒販店の一人”と言ったらH店主自身は苦笑いをしそうですが---------------。


少しH店主を良く書き過ぎたとの“自覚”は私にもあります。
この記事で書いたH店主は、車のエンジンに例えて言うと、「最高出力、最大トルクを発揮しているときのH店主」でアイドリングのときや低回転のときは“印象が異なる場合があります”と保険の意味で付け加えておきます---------。























鶴の友について-4--番外編-3

2017-06-15 02:42:03 | 鶴の友について



今年は短い間隔で記事をアップすることと記事そのものを“出来るだけ短く”することを目標にして書いていきたいと思ってきたのですが、この記事が今年最初という体たらくで、自分のことながら、きわめて残念な状況にあります。
遅まきながらですが今年の“方針”を少しでも実現出来るようにしたいと思っております。


昨年秋に吟醸会・五来稔光会長がお亡くなりになりました。
私は新潟の酒関係の方々に大変良くしていただき、その“後姿”を直接見させていただくという本当にありがたい“環境”で学ばせていただきました。
地元においては五来稔光会長が同様な“貴重な存在”で多くの方々に慕われていただけに本当に“残念な思い”を抱える人が少なくありませんでした。
それゆえ(吟醸会は数年前に100回で終了していたのですが)101回目の特別な吟醸会をとの声が高まり、2月13日に開催されることが決定したのです。

私やテルさんを含む吟醸会の古手のメンバー+五来稔光会長が他の場所で開かれ参加していた“○○吟醸会”のメンバーで故五来稔光会長を追悼する趣旨で開催されることになったのですが、そうであれば今回一番相応しい酒は〆張鶴・純の一斗樽であろうということで、久しぶりに〆張鶴・宮尾酒造宮尾行男会長に送っていただくようにお願い申し上げました。
(ちなみにこもはゴミになるだけとの思いから意図的に省いてもらいました)





五来稔光会長と〆張鶴・純の一斗樽との“縁”は昭和五十年代後半まで戻ります。
吟醸会もすでに立ち上がり順調に回を重ねていた時期なのですが、突然、「Nよ、次の吟醸会では〆張鶴・純の樽酒が飲みたい」------五来稔光会長の強い要望と言えば聞こえが良いが、実質的には“拒否出来ない命令”であり私は途方に暮れました。
なぜなら、樽に飲み口を付け『とくとくとく』という気持ち良い音とともに酒を取り出す“樽の文化”が酒販店や料飲店からかなり以前に姿を消し、この時期には酒樽は“鏡割りで飲む選挙の風物詩”と言ったほうが適切な存在になっており、全体として強い逼迫状況にあった〆張鶴・宮尾酒造は特に逼迫感の強かった純の樽詰めには極めて消極的だったからです。
それと同時に宮尾酒造サイドには更に大きな懸念がありました。
“樽の文化”が身近なものでなくなったため“樽の常識”を知る人がきわめて少なくなり、2週間以上もそのまま樽の中に酒が“放置され”木の香りしかしない酒になってしまい、値段が高い割りに(樽の代金が加わるためかなり割高になります)あまり美味くない--------樽酒に対してそんなネガティブな評価が”主流”だったからです。
宮尾行男専務(当時)のご懸念は私自身も十分理解出来ましたが、高校生のころから夜の巷に出没し樽の飲み口から取り酌む酒をその音とともに楽しんでいたであろう五来稔光会長がその雰囲気を若い連中に味わせてやろうとの気持ちも私は理解出来たのです。

幼いころのことでしたので、微かですが、私自身も実家の酒販店に樽が並び飲み口や飲み口取り付ける穴を開けるための三つ目の錐が置いてあった“風景”と飲み口から酒が出るときの“魅力的な音”を覚えておりどこか懐かしい思いもあったため、簡単では無いと感じつつも宮尾行男専務(当時)に率直にお願いし蔵サイドの“懸念”をひとつひとつ潰して〆張鶴・純の一斗樽を送って頂いたことが、昭和の頃から平成の現在まで酒は〆張鶴・純の樽酒のみの吟醸会を折に触れて開催してきた“始まり”になったのです。
おそらく五来稔光会長の“鶴の一声”がなかったら、北関東の住民の私達が〆張鶴・純の樽酒に親しみ“樽の文化”の楽しさ、面白さを実感させて頂くことは無かったと思われます。





35年以上途絶えずに20~30名が参加し続けた“酒の会”は、考えてみれば、かなり珍しく貴重な存在だったかも知れません。
一番あんこうが揚がる常磐沖の“あんこう鍋の本場”にいながら、昔の網にかかってしまった“余計な魚”から“高級魚”になってしまい捕った人の屋号のタグを付けられその90%以上が築地に送られてしまうあんこうは、残念ながら地元の人間も味わう機会は少ないと言わざるを得ません。
地元ではメジャーなあんこうの食べ方である“とも酢”やあんこう鍋、まぐろや白身魚やイカの刺し身、その他の料理がふんだんに並び酒は〆張鶴・純の樽酒--------誰が考えても、東屋のテルさんが定休日の1日を割いて吟醸会を開いても、5000円の会費でコストが合う訳がありませんしテルさんも儲けなどはなから考えていません。
難しい“能書きや講釈”も無く、来る者拒まず去るもの追わず、美味い料理と美味い酒をただ楽しむ、参加する人の年齢も職業もバラエティに富んでいて交わされる会話が笑い転げるほど面白い---------参加する側には“きわめてお得な酒の会”だったから続いたのかも知れませんが、それも五来稔光会長と義弟であるテルさんの存在なくしては吟醸会など成立しなかったのです。

以前に何回も書いたとうり吟醸会のメンバーのほとんどは“酒の能書きや講釈”には興味がありませんが、酒の面白さと楽しさはよく分かりそれを楽しむことが出来る人達です。
吟醸会がなければ、30年近く毎年のように南会津の蔵に仕込みを見るために通ったり、何十年も一緒に飲み歩いた仲間と(実は)日本酒の好みが正反対であったことに気が付きお互いにお互いを“貶し合って”楽しんだり、酒を酒単体で見るだけでなく“料理を邪魔するか引き立てるか”を自然に基準の一つになり、自分の好みのタイプの酒を理解した上で日本酒の酒質の幅の広さと奥行きの深さを楽しむ---------“酒のマニアや酒の通”ではない酒と料理を自然に楽しむ人達は存在しなかったかも知れません。





私の親しい後輩の酒販店は、まるで相談し合ったかのように、私の酒についての話は「“比喩”がうまくて説明が分かり易い」と言っているようです。
「その“比喩と説明”をそのまま頂いて使わせてもらっています」-------面と向って私自身に言い私を苦笑させる後輩も少なくありません。
確かに現在でも酒について話をしたとき“分かり易いし面白い”と感想を述べてくれる人が多数を占めます。
特に吟醸会以外の方々から(年齢はバラバラですが)その様な感想を頂いています------日本酒に関心や興味が無かった人ほど「酒ってこんなにも面白くて楽しいものだとは思ってもみませんでした」と言ってくれる方が多いように感じています。
このブログの記事で何回も書いていますが、酒蔵が何を考え何をしようとしているかを消費者の分かる言葉に“翻訳”して伝え、消費者の要望や素直な感想を酒蔵の分かる言葉に“翻訳”して伝える-------酒販店は酒蔵と消費者を繋ぐインターフェイスのような存在で、酒を造る酒蔵とその酒を最終的に買ってくれるエンドユーザーが存在しなければ酒販店という業態は“成立”しないのです。
思い上がりかもしれませんが、酒蔵とエンドユーザーの消費者を繋ぐ役割を担う立場なのに「酒蔵の考えや立場、消費者サイドの視点への配慮が少し足りない」酒販店が地方名酒(地酒)を“看板にする酒販店”ほど目立つように私には思えてなりません。

一方酒蔵サイド、特に吟醸や純米吟醸・大吟醸の販売に“傾斜”している酒蔵もエンドユーザーの消費者を見ている“視野が少し狭くなっている”ように私には感じられます。
全国新酒鑑評会の金賞や雑誌などの主催で行われる日本酒コンテストの上位入賞酒を追いかける“マニア・酒の通とい言われる消費者の層”は、日本酒の需要層全体に比べると、極めて“薄い需要層でしかない”と私にはそう思えてなりません。
鶴の友・樋木酒造は、全国新酒鑑評会の金賞や越後流酒造技術選手権で1位(25BY)、関東信越国税局鑑評会最優秀賞(28BY)--------数々の“大吟醸の成績”で地元の新潟市の酒飲みに愛され評価されている訳ではありません。
もちろん市販されている上々の諸白(大吟醸ですがレッテルには大吟醸とは“書いてありません”)は720ml瓶しかありませんし、数量が極めて少ないのですが本当に美味い評価の高い大吟醸です------しかし地元新潟市の庶民の酒飲みを“幸せ”にしているのは鶴の友で一番安く2000円以下で買える上白1.8l(レッテルに本醸造とは書いてありませんが本醸造です)のレベルの高さなのです。





残念ながら、昭和の終わりごろ比べ日本酒のシェアは低下しています。
昭和四十年代後半に日本酒全体が、「大事な需要層であるエンドユーザーの消費者の方に顔を向けず、時代の流れの変化も知ろうともせず、従来どうりの手法やコストや生産性など自らの要因を優先したため博物館入りの危機」に陥り、生き残りを賭けて「エンドユーザーの消費者、特に若い層に飲んでもらえるために製販の常識を破壊して生まれた“新潟淡麗辛口の存在”」が無ければ現在の日本酒はもっとシェアが低くもっと存在感が小さいものになっていた-------私個人にはそう思われてなりません。

昭和五十年代初め、私は意図せぬ偶然の連続で“日本酒ルネサンス”とも言われる新潟淡麗辛口の展開に参加することになり、当初、〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱いさせて頂き(後に久保田も)、取引は無いものの鶴の友・樋木尚一郎社長にもお話を伺い、悪戦苦闘しながらも同世代の消費者に日本酒の魅力を分かってもらうための戦いを継続し続けていたのです。
“酒のさの字も能書ののの字”も知る時間も無く、結果として新潟淡麗辛口の“最前線の蔵”に飛び込んでしまった私は、比較的ですが、元々“専門用語”を多用する酒の説明はしていません--------特に最初のころは試飲を中心にすえNBと新潟淡麗辛口との“違い”を分かってもらうことに力を入れていたからです。
しかしその私でも、「精米歩合、粕歩合、酒造好適米、協会酵母などの“専門用語”」を自らは意識することなく使っていることを、五来稔光会長始め“庶民の遊びの達人”に指摘され手も足も出ずに“撃沈”されるのみだったのです。
この先輩方は“庶民の酒飲み”としては年季の入った人ばかりで、生半可では新潟淡麗辛口の“魅力と価値、面白さと楽しさ”を認めてはもらえません。
どうしたらこの方々に分かってもらえるのか、認めてもらえるのか“吟醸会という舞台”での試行錯誤が始まったのです。

何回も記事に書いていますが、今振り返ると、新潟淡麗辛口との出会いと同様に東屋のテルさんや五来稔光会長始め吟醸会の出会いは私にとって“偶然の姿をまとった幸運”と改めて痛感しています。
その後私は酒蔵に行ったときに酒販店としての視点だけではなく「自分がエンドユーザーの消費者ならどう思うか?」という視点も持つようになったように思えます。
「酒販店の自分がエンドユーザーの消費者の自分にどの様に説明すれば納得してくれるか」----------それを常に頭に入れながら酒蔵や蔵元や杜氏に接し、自分の店に来てくれるエンドユーザーの消費者や吟醸会の方々と話すことが当たり前になっていったのです。






エンドユーザーの消費者や吟醸会の皆さんに納得してもらえる“説明”が出来るためには、自分なりに納得し理解していることが必要になります。
私は出来る限り酒蔵に足を運び「見て分からないことは蔵元や杜氏に質問する」ことを続けました--------自分自身が“肌の感覚で理解”出来なければエンドユーザーの消費者に伝え納得してもらえることなど出来ないと思ったからです。
〆張鶴の故宮尾隆吉前会長、宮尾行男会長、千代の光・池田哲郎社長、鶴の友・樋木尚一郎社長、そして早福酒食品店・早福岩男会長に“レベルが低いが素直な私の質問”を受け止め続けていただき、後に久保田発売前に嶋悌司先生に「ビビリながらも疑問をぶつけるという“暴挙”」に繋がっていくのです。

徐々に私は“自分の言葉”で酒や酒蔵を話すようになっていき、専門用語のかわりに“比喩と例え”を多用した普通の言葉で話すのが“自然”になりました。
すると不思議なことにいつの間にか私の周囲には“酒のファン”が増え、吟醸会の方々も「ぜひ酒蔵に行ってみたい」との要望が強くなり最近まで毎年のように南会津の国権に造りの見学に行くのが恒例行事になり、「こうしたらもっと面白いのではないか、楽しいのではないか」--------段々やることがエスカレートし、結果としてやっていることのレベルも向上してしまったのです。
〆張鶴・純の樽酒もそのひとつですし、昨年お亡くなりになった国権の細井冷一会長に吟醸会に来ていただいたり、久保田発売後に地元のホテルで開催した酒の会に講師として嶋悌司先生に来ていただいたり--------いま振り返っても面白く楽しい思い出にあふれているのです。

私は平成3年に業界を離れ会社員になったのですが、ありがたいことに、新潟淡麗辛口の蔵との人間関係は今も続いています。
そして現在も私の周囲には“薄からぬ酒のファンの層”が存在しています。
しかし日本酒の世界を俯瞰で見たとき、全体としてもですが特に地方銘酒(地酒)の蔵に、私個人は強い危機感を感じざるを得ないのです。
そして日本酒、特に地方の酒蔵が現在置かれている状況は昭和四十年代後半より厳しいだけではなく、新潟淡麗辛口のように“日本酒を再浮上”させる存在が見当たらない----------恐ろしいほどごくふつうの若い需要層に日本酒の足場がほとんど無い危機的状況だと私には思われてならないのです。







昭和四十年代後半とは違い現在の月桂冠に代表されるの大手メーカー(NB)は酒質も向上させ、安いパック酒もあれば本醸造もあれば純米もあるし吟醸や純米吟醸もあり、山廃酛、生酛まで存在します。
多少“ピント外れのような商品開発”もたまに目にしますが、あらゆる世代のエンドユーザーの消費者(言い換えれば庶民の酒飲み)の嗜好にあった商品を開発し送り出そうという“意思”がNBに強く存在していることは誰もが感じられると思われます。
一方、地方の酒蔵(地酒)サイドはどうでしょうか?
全国新酒鑑評会の金賞や雑誌などの主催で行われる日本酒コンテストの上位入賞を糧に吟醸や純米吟醸・大吟醸の販売に“傾斜し、注力し”、一番大事なエンドユーザーの消費者(言い換えれば庶民の酒飲み)への対応が後手に回る酒蔵が、コンテストの常連や雑誌などで有名な酒蔵に多いように私個人には感じられます。

私は昔から酒蔵を見るときは、必ず、その蔵の一番価格が安い酒と吟醸または大吟醸の両方を見るようにしていました。
一番安い酒はその蔵の“下限のレベル”が計れ吟醸・大吟醸は“トップエンドの酒質”が計れるからです。
鶴の友で一番安い上白のレベルは極めて高く、2000円以下はもちろんのこと2000円台でも上白のレベルを上回る酒を探すのは簡単なことではありません---------この上白の美味さとレベルの高さが上白以上の価格の鶴の友(上々の諸白も含む)の美味さとレベルの高さを“担保”しています。
しかし大吟醸が全国鑑評会で金賞を受賞しようがコンテストでトップであろうが、必ずしもその酒蔵の一番価格の安い市販酒の美味さは“担保”されている訳ではありません。
もし市販酒が月桂冠に代表されるNBの方が美味いとエンドユーザーの消費者に思われる状況になったとしたら、いくら吟醸・大吟醸で評価される蔵であっても市販酒が美味いと評価されなければ地方の蔵(地酒)の未来は明るくない--------なぜなら吟醸・大吟醸より市販酒を飲んでいる消費者の人数のほうが圧倒的に多いからです。
そしてかつて『日本酒の博物館入り』を防いだ新潟淡麗辛口が、吟醸・大吟醸もその一翼を担っていたが、NBを寄せ付けない高い酒質とリーズナブルな価格の本醸造や純米が日本酒のファンになってもらえる“最大の武器”になったことを自分自身が体験しているからです----------。


今日本酒を支える一番分厚い層は、昭和五十年代初めから長い年月を掛け少しづつ増えてきた、現在65歳プラスマイナス5歳の層です。
しかしこの年齢層の人達はあと5~10年で“酒を楽しむ層”からの引退は避けられません。
私の周囲でも自他ともに認める“日本酒好き”が大病を患ったため飲めなくなった例が少なくないのです。
まだこの層が存在しているうちに日本酒業界全体、特に地方の蔵(地酒)が『第二の日本酒ルネサンス』を興さなければ日本酒のシェアがさらに低下し地方の蔵が大打撃を受けるのではないかという強い危機感を『日本酒ルネサンス』を実際に体験してきた私は持たざるを得ないのです-------------。
そしてその危機感が、最後のご奉公として(思い上がりかも知れませんが)『何らかの形で業界に復帰』するべきなのだろうか---------という気持ちをも少し造り出しているのです---------------------。







鶴の友について-4--番外編-2

2016-12-22 18:49:46 | 鶴の友について



またもや前回の記事から9ヶ月が過ぎてしまいました。
前回も長い記事で書き始めた時期と終了した時期に3~4ヶ月の差があり、実はアップする数日前に“古い仲間の二人”と一緒に二泊三日で新潟に行っていました。
三十年前から計画しながらいろいろな事情で実現しなかった「三人で千代の光、鶴の友、〆張鶴を仕込みの時期に一気に見学させていただく」ことが3月6~8日でようやく実行できたのです。
同行したS高元原研研究員も(もちろん私もですが)現役を離れた“再雇用組”ですし、鮨店・東屋店主のテルさんも息子のみっちゃん夫婦のサポート役に回ったため時間の余裕が以前より増したため可能になったのです。
本来仕込みの時期の蔵の見学は基本的には関係者以外は不可で本当に難しいのですが、“四十年に近い交流の歴史”に免じていただき許可していただけたのです。
テルさんもS高さんも昭和五十年代後半に〆張鶴や八海山の仕込みを見た経験もあり、毎年のように南会津の国権に仕込みの時期にお邪魔していたのですが、千代の光も鶴の友も見たことがありませんでした。
今回本当にうまい具合に蔵元との日程も合ったため(各蔵元のご好意のおかげで)ようやく実現出来たのです。






上記の写真は池田哲郎社長にご案内いただいた千代の光酒造の蔵の様子の一部です。
千代の光は鶴の友よりは少し醸造量は多いですが(約1.5倍前後)越乃寒梅・八海山・久保田に比べれば比較にならないほど小さな蔵です。
しかし昭和五十年代から出来る範囲での設備の新規導入に池田哲郎社長は熱心に取り組んできました。
蔵の必要な空間での空調や麹室の温度・湿度管理の設備、獺祭 のものとは違う土台までオールステンレスの遠心分離機まで導入していますが、昭和五十年代と同じように協会10号酵母には必須だった高泡用の囲いや泡消しを使う造りも守り続けています。
お邪魔した日には、四合びんで600本しか詰められなかった“数量限定のふなくち”を瓶詰めしていたのですが、試飲させて頂いて驚きました。
絞ったばかりとは思えないやわらかささと丸みがあったからです。
池田哲郎社長のご好意で1本お土産に頂いたのですが、帰宅した後であまりの美味さに「何本でも良いのでお譲り頂けないか」とお願いしたのですがその時点で地元の酒販店だけで“完売”で蔵にも1本も無いとのことでした--------それでも諦め切れず来年はぜひ売って下さい(もちろん新潟の酒販店さん経由ですが)とお願いしました。
越淡麗の開発と普及に熱心に努め、自社で(五百万石も含めて)栽培もされている点も含めて原料から造りにまで“手を抜かない姿勢”が、綺麗なやわらかさと切れの良さを両立させた酒質を支えていることを改めて実感させられました。
また27BYで造られたご子息の池田剣一郎常務のKから名付けられた“Kシリーズ”が数量限定ですが発売される予定と伺いました------数年後の“引退”を見据えての池田哲郎社長の“布石”という面もあると思われますが、昭和五十年代半ばの池田哲郎社長(当時は常務)のように剣一郎常務が若い感性で走られる“Kシリーズ”の千代の光は本当に楽しみです。



昨年大学を卒業し社会人になった私の息子が生まれたとき、私の周囲の方々に頂いたお祝いのお返しに千代の光の吟醸造りをと思い池田哲郎社長にお願いしたところ「名前は?」と聞かれました。
後日送られたきた四合びんと一升びんの吟醸造りには、貴重な古い大福帳の和紙に子供の名前が書かれた手書きのレッテルが貼ってありました。
子供の生まれたときの私は業界を離れ会社員になっていました-------それから四半世紀が経とうとしていますが、そのときの吟醸造りはいまだに数本感謝の気持ちと共に私は保管しています。







鶴の友は千代の光(ほとんど長野県境)から〆張鶴(ほとんど山形県境)の移動の途中の新潟市にあり、残念ながら仕込みの時間帯には到着できません。
しかし鶴の友を飲んでいる人間には蔵の中に入らせて貰うと肌の感覚で納得が出来ます。
有形文化財の蔵の中でふつうの酒蔵ではあり得ない光景が繰りひろげられているからです。
壜詰めも人が1本1本行いレッテルも人が1本1本手貼りしています-------昭和五十年代半ばからお邪魔させていただいておりますが、鶴の友・樋木酒造にはスピードとか効率とか生産性という言葉の片鱗すら私は感じたことはありません。
“外の世界”とは流れる時間がゆるやかな蔵の中は外の世界の人間の忙しく走り回る気持ちをふと立ち止まさせる“何か”が存在し、その蔵で造られた鶴の友が「なぜあの不思議な酒質なのか」が肌の感覚で納得出来るのです--------。

有形文化財の蔵の天井裏の一部には、今となっては新潟市民の宝と言える新潟漆器や、昭和以前の成島焼、相馬の登り窯で焼かれた大堀相馬焼-------結果として“貴重なもの”(価格が高いという意味ではない)になってしまったものが数多く保管されています。
蔵そのものが文化財であり蔵の中にも貴重な文化財が数多く存在する鶴の友・樋木酒造ですが、造りの面では、伝統を受け継ぎながらも伝統そのものを“コレクションしている”訳ではありません。
天井の下の蔵では、杜氏歴13年のベテランだが年齢が43歳と若い(それでも蔵の中では最年長)樋口宗由杜氏を中心に若手の蔵人が、伝統を受け継ぎ現在も未来にも鶴の友を造り続けるための従来の徒弟制度的組織ではあり得ない“創造的破壊”を実践し続けているのです-------いかに古いものを大事に保存する有形文化財の蔵であっても、酒造りまで先人のデットコピーでは酒蔵として存在し続けることは出来ないからです。
鶴の友・樋木酒造は古いが失ってはいけない大切なものに包まれた蔵ですが、その古くて大切なものを失わないための“変革を恐れない新しさへの挑戦”も内在している蔵なのです---------テルさんもS高元研究員も、仕込み自体を見なくても、蔵の中を樋口杜氏や樋木尚一郎社長に案内して頂いたときにそのことを十分に感じ取れたと私には思えるのです。

蔵の中をご案内していただいた後に、ご近所の雪月花という割烹のお店で昼食を(貴重な鶴の友の大吟醸の)上々の諸白ともにご馳走して頂きました。
樋木尚一郎社長のお話を伺いながら、醸造数量が少ない鶴の友の中でも一番本数がない上々の諸白を味わいながらいただく昼食は本当に貴重な体験でテルさんもS高元研究員も後々まで喜んでいました----------。




上記の画像は三面川の支流の門前川の反対側から〆張鶴・宮尾酒造を写したものです。
40年近く前から村上を時折訪れてきましたが、基本的には、村上の佇まいも〆張鶴・宮尾酒造の外観もあまり変わってはいません。
伝統や昔からの建造物や慣わしを大切にし続けてきた“意思”は宮尾酒造の外観にも反映していますが蔵の中は、やや大袈裟に言うと、私が行かせていた度に“いつも変化”していました。
〆張鶴・純は昭和五十年代前半には発売されていましたが、精米歩合ひとつとっても60%から50%に進歩しています。
現在は純米吟醸と表示されていますが60%でも表示の規格は満たしていますが、40年をかけて純の数量を大きく拡大しながら精米歩合のみならず他の面でも大きく向上し続けていることに、〆張鶴・宮尾酒造の価値と凄みがあると私自身は改めて実感しています。



鶴の友・樋木酒造から午後遅く村上に移動し瀬波温泉の宿に夕方到着しました。
私は業界を離れて四半世紀が経過しているのですが、久しぶりに村上に泊まるため昔からのご縁に甘えて、宿の紹介も宮尾行男会長にお願いいたしました。
余計なこともお願いしたのにも関わらず懇切丁寧に対応して頂きました。
翌日8時半に蔵にお邪魔し11時頃まで宮尾行男会長に蔵の内部をご案内頂きました。

宮尾酒造は足掛け3年をかけて麹室の拡大・新設を軸にした改装が昨年終了したばかりで特に麹室はまったく“別物”になっていました。
醸造量の拡大を狙った改装ではなく、作業性と製麹環境の向上と将来の変化にも耐え得る“意図的な余裕”がポイントの改装と私には見えました。
あまり大型の仕込みタンクを使用してない〆張鶴・宮尾酒造は麹造りの回数が多くならざるを得ないため、ある意味で、製麹環境の向上と製麹の作業性の向上は必然だったのかも知れません。
越乃寒梅や八海山、久保田のように30年前の10倍近くに醸造量が拡大した蔵に比べ、〆張鶴・宮尾酒造は40年近くかかって約3倍弱にしかなっていません。
そして川を挟んだ斜め向かいに瓶詰めの施設と大型冷蔵貯蔵倉庫を設置した以外には、前記三つの蔵のように“大型の工場”を新設しておらず創業の地である上片町5-15を動かずに〆張鶴を造り続けている以上、スペースの拡大が不可能であればたゆまぬ醸造設備の改善と作業性の向上が〆張鶴の酒質の維持向上にどうしても必要になるからです---------。 

何回も書いていますが昭和五十年代前半にすでに醪(もろみ)のあるスペースは空調設備が完備されていました。
「ジャケット式タンクや冷却ジャケットで1本1本状態を見ながら0.5度単位で醪の温度を管理してしているのに、醪タンクのある空間が1日で5度6度も温度が変化したら“正確に管理”出来ないためため空調をかけて一定の温度環境にしています---------それが、なぜ北関東の私の県より冬の温度が低い新潟県で空調をしなければいけないのかという能天気でお粗末な私の“質問”に対する宮尾行男専務(当時)の説明でした。
協会10号酵母、五百万石(酒造好適米)、低温長期の醪--------私自身はこの三つの要素が新潟淡麗辛口のDNAと強く感じているのですが、〆張鶴・宮尾酒造は現在もこのDNAを色濃く受け継いでいるように思われます。
ある意味で〆張鶴・純は、その酒質に“新潟淡麗辛口の歴史を体現”させた過去も現在も“新潟淡麗辛口の本流”なのではないか-------私個人は改めてそれを痛感させられた旅になりました。 

 


今回の旅は東屋のテルさんやS高さんだけではなく私自身にとっても貴重な機会でした。
私はこの三つの蔵には若い頃から足を運んでおりますが、仕込みの時期に一気にこの三つの蔵を訪れるのは本当に久しぶりだったこともそのひとつです。
しかし私以外の二人にとっては今まで無かった体験だというだけではなく、お忙しい時期にも関わらず、池田哲郎社長、樋木尚一郎社長、宮尾行男会長ご夫妻に懇切丁寧な対応をして頂けたことが“予想出来なかった驚き”だったようです--------今回の旅は蔵の皆様のご好意のおかげで本当に贅沢な旅になりました、感謝の言葉しかございません。


(なお私達がお土産に頂いてきた“数量限定のふなぐち”は千代の光・真 生原酒として、12月と来年の2月のみの限定販売とのお知らせがあり当然ながら送って頂きました。今回もきわめて美味いというのが私の周囲の人達の大多数の共通した感想です--------)


本来なら大七・生酛のことや残念ながらお亡くなりになった吟醸会・五来会長のこと(思い出)もこの記事で書く予定だったのですが、このままでは年内には終わらないため次回に書かせていただきます。
この記事も本来ならもっと早くアップしなければならなかったのですが、諸般の事情のためここまで遅れてしまいました。
9ヶ月も更新しないとんでもないブログなのに、見てくれている人も少なくはなく申し訳ない気持ちも感じておりますので、来年はもう少し“勤勉にアップに取り組み”たいと思っております-----------。        








鶴の友について-4--番外編-1

2016-03-13 23:17:08 | 鶴の友について



今回は“ブログが更新出来なかった私の近況”を書かせていただきと同時に、現在の“日本酒の世界”に対する私が“酒販店の現役”だった昭和五十年代~平成の初めと対比した私なりの“個人的感想”を書いてみたいと思っています。
まずは短く近況を-------。


昨年は私にとって変化のあった年でした。
3月、10月の二度新潟に行かせて頂いたのですが二度とも(昨年大学を卒業し就職した)息子と一緒だったからです。
10月の新潟行きは3月に行けなかった〆張鶴・宮尾酒造を訪れることを息子が希望したからです。
この村上行きについては(いつになるかわかりませんが)鶴の友について-NO4--4で書きたいと思っていますが、私にとって感慨の深い出来事でした。

私が最初に村上を訪れたのは昭和五十年代初めで、その時点で宮尾行男会長は三十歳代初めの”若手専務”としてご活躍中でしたが現在は平成24年にご子息の宮尾佳明氏が社長になられ会長となられています。
70歳を超えられた今でも宮尾行男会長の印象は変わらず酒造りへの情熱が衰えていないことを改めて実感いたしました。
同行した息子に、麹室の大改装を中心にした二年以上に亘った工事が終了した蔵の中をご案内いただき懇切丁寧な説明をしていただいたのは本当にありがたいことでした。
(念のため書き添えますが原則として酒蔵見学は受け付けていないそうです。息子は初めてで私自身も改装後の蔵の中を見る機会がなかったので今回は特別に見学を許可していただきました)
最初に〆張鶴・宮尾酒造を訪問したときに、約四十年後に息子と一緒に〆張鶴・宮尾酒造を訪れる日が来るなどとはまったく想像が出来ず深い感慨に耐えかねたのです。

かなり以前からお邪魔させていただいた折には、おそまつで能天気な私なりに思うことを申し上げまた疑問に思うことを質問させていただきますがいつも丁寧なご返答を頂いています。
酒造業界の一部で言われているような“話ししにくい”という印象を宮尾行男会長に感じたことは私は一度もなく、初めてお話を伺った息子も“すごく親切な方”という印象が強かったそうです。
この三十年鶴の友・樋木酒造は蔵の外観も蔵の内部もあまり変わっていませんが〆張鶴・宮尾酒造は外観も一部変わり(瓶詰め施設および大型冷蔵倉庫のすぐ近所への新設)蔵の内部も変わり続けていますが、『変えてはいけないことを変えない“頑固さ”』は共通していることを今回の村上行きは改めて強く実感し、息子も鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造の両方を訪れることで『違いと同じ部分』を実感できる貴重な機会になりました。
そして子供とこんなに同じ酒蔵での時間を過ごし同じ景色を見て同じことに感想を述べ合うのは今までなかった大きな変化でありその意味でも貴重な機会になったのです----------。





昭和五十年代初めからの視点-1


ある街の全体像を大雑把に把握する方法としては、メインの道路を車で走り回るのが効率の良い選択です。
私自身も(良く行く場所は除いて)自分自身が三十年近く住む地方都市をその方法を駆使することでよく知っている--------そう誤解していました。
あるとき健康上の理由から自宅の近辺を散歩をすることになったのですが、ふだん車で走ることの無い“裏通り”にはすぐ近くであっても見たことの無い景色や「えーここにこんなもの(建物・施設他)があったのか!」-------驚きの連続で自分の住む街をいかに知らないかを思い知らされました。
しかし私は“日本酒の世界”では車で走り回るのではなく長い時間をかけ自分の足で狭い範囲を何回も何回も歩くことで“街の風景”を肌の感覚で実感しようとしてきたようです-------。
そんな“日本酒の世界の歩き方”を昭和五十年代初めから積み重ねてきた私には、近年の地方銘酒(地酒)の酒造・酒販の方向には“違和感”を感じ続けてきました。
(私の“違和感”については(この記事の中の)後で具体的に記述します)

酒販店時代の私が取り扱いをさせていただいた酒蔵は、〆張鶴、八海山、千代の光、久保田(以上新潟)、国権、大七(以上福島)で取り扱いはありませんでしたが鶴の友・樋木酒造にもよくお邪魔していました。
私の店はけして地方銘酒(地酒)の専門店ではなく月桂冠や剣菱に代表される灘伏見のNB(ナショナルブランド)やその他のアルコール商品も販売している“ふつうの酒販店”でしたが、上記の日本酒をお一人お一人のエンドユーザーの消費者に熱心にお薦めしていることが変わっている点、あるいは特徴だったかも知れません。
池袋の甲州屋さん始め有力な“地酒屋さんの会”に参加していながら私自身には“地酒屋”という意識も自覚もなく、年齢が一回り以上上の諸先輩のレベルには無く「N君は〆張鶴や八海山をその数量売っていてもまだ月桂冠を売っているのか?」と言われ続けていました-------私はその言葉には逆らいませんでしたが心の中ではエンドユーザーの消費者が欲しいと思うものを提供するのも小売店として自然ではないか--------たとえその当時の月桂冠の酒質が私自身も評価できないものであっても“その考え方”に理解を求めることは出来ても押し付けることは出来ないと思っていたからです----------。

地酒屋でないため取り扱い銘柄は上記のように少なく逆にそれゆえ各蔵元とは接触する機会も時間も多くとれたのですが、販売面では(特に最初のころは)苦戦の連続でしたが少しずつ“私自身の気持ち”を買ってくれるエンドユーザーの消費者が増えていきました。
私は日本酒という存在について自分が面白い、楽しいと思える部分をエンドユーザーの消費者に伝えることがだんだん好きになっていきました-------好きになればなるほど何故か不思議なことに来店されるエンドユーザーの消費者が増えてゆき気がつくと販売数量も売り始めたころには想像できなかった“数字”になっていたのです。

現役の酒販店を離れて四半世紀以上になるのですが、今でも樋木酒造、宮尾酒造、千代の光酒造、国権酒造の皆様には大変お世話になっておりますし昔のお客さんの一部の方とはお付き合いが現在もあります。
私がよく書くお粗末で能天気という“表現”は謙遜でも卑下でもなく少なくても現役の酒販店時代には“厳然たる事実”だったのですが、同時に存在した私なりの“日本酒に対する愛情と情熱”をかろうじて皆様に認めて頂けたことが二十六年前に酒販店を離れて会社員になっても変わらぬお付き合いをさせて頂いてる“理由”だと思われるのです。
現在の酒販店の多くは現役のときの私とは比べ物にならない優秀な方が多いのですが、残念ながら“日本酒に対する愛情と情熱”と言う点では首を傾げるざるを得ない場合も少なくないのです-------そしてそれが私が感じる“違和感”の大きなひとつなのです----------。




昭和五十年代初めからの視点-2


振り返って見ると昭和五十年代初めから平成の初めにかけて“新潟淡麗辛口の最先端の蔵”に接点を得られたことは、私にとって、幸運以外の何物でもありませんでした。
さらに恵まれていたのは、「〆張鶴と八海山という二つの蔵」と「早福酒食品店と甲州屋酒店という二つの酒販店」の“生き方”を同時並行で見させて頂ける幸運を最初の段階で得れたことです。
何も分からない私にとって同時並行で比べて見れることと、何も知らないからどんなに初歩的なことでも質問できることはむしろ“武器”と言えました。
酒販店の3代目という自分の立場をあまり好ましく思えずに育ってきた私は(限りなく下戸に近いこともあり)アルコール飲料には無関心で、「日本酒なんてものは21世紀には無くなる」と“公言”して憚りませんでした。
そんな私でしたが〆張鶴の酒質と故宮尾隆吉前会長(当時は社長)、宮尾行男会長(当時は専務)との出会いのおかげで日本酒に対する感じ方は180度方向を転換したのです。
この時代は今から振り返ると、人間対人間の信頼関係をゆっくりと造っていけるゆるやかな時間の流れに恵まれていた時代だったかも知れません。

その後早福酒食品店早福岩男会長、千代の光・池田哲郎社長、鶴の友・樋木尚一郎社長そして嶋悌司先生へとありがたいご縁がつながり、日本酒あるいはそれ以上に日本酒に関わる方々が私は大好きになっていき酒や酒蔵に接することは楽しくてしかたがないことになり、お粗末で能天気な私であっても、蔵に行けば行くほど“自分の中で消化できる知識”が増えていき、エンドユーザーの消費者に「自分の言葉で自分自身が感じる日本酒の面白さと楽しさ」を話すことが本当に楽しいこととなっていったのです。
今でも「Nさんと話していると日本酒を飲みたくなりますね----」と言われるのですが、昭和五十年代に〆張鶴や八海山、千代の光、大七生もとの私の店の主力銘柄を応援していただいたエンドユーザーの消費者の皆さんは「日本酒とその世界が好きで好きでたまらない私自身の気持ち」を“買って”いただいていたような気がします---------。
しかし現在の現役の酒販店には私が直接知る後輩も含めて、上記の気持ちをエンドユーザーの消費者の皆さんが感じることが出来る店主がきわめて少ないように私には感じられてならないのです。

昭和五十年代初めに大学を卒業した私達の世代も若いころは日本酒に親しみを持っていない方が大多数を占めていましたが、昭和五十年代後半から現在に至るまでこの世代が一番厚い日本酒のファン層として存在しています。
もちろん日本酒ルネサンスと称された新潟淡麗辛口の隆盛とともに育ってきた世代という“有利さ”が大きく作用していますが理由はそれだけではありません。
私と同じように同世代の周囲の人間も「日本酒は父親の世代の飲み物で自分達にとっては博物館入り一歩手前の存在」と感じていて興味を持つことなど無かったのです。
しかし自分達が出会った新潟淡麗辛口はそんなイメージを覆すものだったのです。

何度も書いていますが新潟淡麗辛口は“意図的に”造り出されたものです、そしてその中心には嶋悌司先生という大きな存在がありました。
今の時点で振り返ると、嶋先生や新潟のごく一部の蔵を動かした原動力は(私が想像できる範囲ではですが)たぶん“恐怖”ではなかったのかと私自身には思えてならないのです。
その“恐怖”はふたつあったと思われます。
ひとつは灘・伏見の大手NB(ナショナルブランド)のシェアが新潟県内も拡大し、何も手を打たなければ県産酒が淘汰されかねないという“恐怖”。
もうひとつは、若い世代の食生活の変化(洋風化、ライト&ドライ化)によって大手NBに追従した酒質では若い層に見放されかねないという”恐怖”。
このふたつの“恐怖”が昭和四十年代後半から、「協会10号酵母、県産五百万石、低温長期もろみ」の三つのキーワードで語られる新潟淡麗辛口へと突き進む原動力となったと思われるのです。

事実、“軽くて切れの良い新潟淡麗辛口”は日本酒に否定的であった私達の世代の意識を変え、大手NBの日本酒との酒質の差を誰でもが判るざるを得ない“強いインパクトとパワー”を伴って“登場”してきたのです。
その中心に嶋悌司先生と早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)の存在があったことは誰もが否定出来ない“歴史的事実”ですがそのお二人ですら昭和五十年代前半は四十歳代後半~五十歳前後であり、実際に蔵の中で淡麗辛口化を担った〆張鶴・宮尾行男専務(現会長)は三十歳代前半、千代の光・池田哲郎常務(現社長)にいたっては二十歳代後半という若さ--------新潟淡麗辛口は伝統を受け継ぎながらも「博物館に入ってしまう」ことを阻止すべく指導する側も指導される側も“若い世代の新たな感覚”によって意図され実現されたものだったのです。
(ちなみにこの時期初めて新潟に行った私は二十歳代前半で、新潟に通っていた酒販店としては最若手でもあり一番“未熟”でもありました-------)

今では当たり前でその“仕事の凄さ”がたぶん実感できないと思われますが、早福岩男会長の登場以前には絶対にあり得ないことがありました。
蔵と酒販店という立場の違う人間が「共通のひとつの目標に向って力を合わせそれぞれの立場で努力を継続する」--------人間対人間の信頼関係を軸に異なる立場を越え一体となって目的の実現のために突き進むことなど早福岩男会長以前には想像すら出来ないことだったのです。
新潟淡麗辛口を造り出したチームは、人間対人間の信頼関係をベースにした“博物館入りを阻止する革新的な考え方”を醸造した酒やその売り方に反映させたのです。
私は、ありがたいことに、このような方々に学ばさせていただき育てていただいたのです--------。

昭和五十年代前半は新潟淡麗辛口にとって、“将来の展望”が開けた時期ですがまだ「その考え方も含め“少数派”」から脱してはいない初期段階にありました。
それゆえエンドユーザーの消費者とも「同好の士に近いある種の“連帯感”」があり、私個人も商売上は苦戦し続けたのですが私にとっては“黄金の日々”だったように思えます--------。



昭和五十年代初めからの視点-3


昭和四十年代後半~五十年代初めに、日本酒の世界全体が“博物館入りしかねない状況”を造り出してしまった“責任”は灘・伏見のNBのエンドユーザーの消費者の意識の変化を知ろうとせずプロダクトアウトの発想のみで“酒質を軽視”した点にあると私には思えるのですが、地方銘酒(地酒)側にも責任が無い訳ではないとも思えます。
“造る側が思う良い日本酒”を出来るだけ“低コスト”で造る-------戦中・戦後の酒が貴重だった時代の意識が抜け切っておらず(ブレンド用でそれ単体では販売してないにせよ)三増酒をNBも地方銘酒(地酒)側も熱心と言えるほど造っていたのは否定できない“歴史的事実”です。
日本酒の世界での“常識や通常業務”が昭和四十年代後半にはエンドユーザーの消費者の“常識や志向しているもの”から大きくずれ、日本酒自体や日本酒の業界が若い層のエンドユーザーの消費者にとって身近なものではなくなり---------たとえ日本の伝統的なアルコール飲料であっても自分達若い世代には興味も無ければ関心も無い、親が飲んでいるが自分達には日本酒には良いイメージは無いので自らの意志で選んで飲むことは無い---------何も起こらなければ自分達の親の世代が飲まなくなる二十年後日本酒は間違いなく“博物館入り”してしまう危機にあったのですが危機感を持つ人が日本酒業界にはきわめて少数しか存在しなかったのです。
昭和四十年年代後半に日本酒業界が迎えた“博物館入りの危機”は日本酒業界が若い世代(二十~三十歳代)の“常識や志向しているものがもたらす嗜好の変化”についていけないことが原因だったと思われます。
新潟淡麗辛口に批判的な人であっても、「博物館に入ってしまう」ことを阻止すべく指導する側も指導される側も“若い世代の新たな感覚”によって伝統を受け継ぎながらも意図的に造り出された新潟淡麗辛口が若い需要層を獲得しこの時点での“博物館入りの危機”を防ぎ日本酒に新たな魅力を獲得させた“功績”を否定することは出来ないはずです--------遠い昔に日本酒に否定的な若者だった私自身が昭和五十年代初めからの“新潟淡麗辛口とともに過ごした日々”のおかげで、今でも日本酒に強く魅かれ続けていることがその“功績”を一番雄弁に語っていると思われるのです----------。
サイレントマジョリティたるエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)の変化を見落とし能動的に変わることが出来なかったことがこの時期の“博物館入りの危機”の原因になったのですが、現在の地方銘酒(地酒)は違う理由・意味で“博物館入りの危機”を迎えているように私には思えてならないのです----------。

現在のNBは昭和四十年代後半~平成の初めに、エンドユーザーの消費者(庶民酒飲み)の意識の変化を知ろうしなかった“姿勢の反映”の酒質を徹底的に批判され新潟淡麗辛口に代表される地方銘酒(地酒)の台頭を許してしまった反省から、飲む人のニーズ・要望には敏感に対応し紙パックやパウチパックのように価格と利便性に対応した商品からワンカップにまで純米・吟醸・大吟醸を提供しかつて造ったことのない生もとまで発売(松竹梅)している状況は、低価格帯から高価格帯に至るまでNBの酒が物心両面で昭和四十年代後半~五十年代後半とはまるで違う酒う酒になっていることを証明していると思われます。
地方銘酒(地酒)側には残念なことなのですが、全体として見れば、NBのほうがサイレントマジョリティたるエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)を大事に大切に対応しているような気がしてならないのです。
鶴の友や〆張鶴、千代の光のように昭和五十年代初めから現在に至るまで酒質を向上させながらエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)にきちんと対応してきた蔵もあることは自分自身の体験と経験で十分に承知していますが、それでもNBが地方銘酒(地酒)を全体的に比べた平均の酒質では上回っていることは否定できませんし昔とは違い現在の地方銘酒(地酒)側は有名で売れている蔵ほどごく一部の需要層に意図的に傾斜しエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)から離れる方向に動いていることも否定できません--------私自身がそう感じていることを獺祭と大七というふたつの蔵を例に“昭和五十年代初めからの視点”で次に書いていきたいとと思います。



昭和五十年代初めからの視点-4

かつて吟醸酒は鑑評会で他の蔵の吟醸酒と戦うためだけに造り続けられた市販することもコストも一切考慮しない“特殊な酒”でした。
昭和五十年代前半においても市販される吟醸酒はきわめて少ない希少な存在でしたが同時に魔力ににも似た強い魅力を持っていました。
本当に凄い吟醸酒は、正直に言うと、売るの惜しく取っておきたい-------そんな気持ちがどこかに存在してしまうのです。
一昨年に100回を迎え終了した吟醸会(三十数年続き毎回二十~三十人の参加がありました)も私自身が勉強のため集めた非売品を含めた吟醸酒を一人だけで飲むのがもったいなくて数人で飲んだことがきっかけとなり始まることになったのです。
最初の時期は吟醸酒そのものを揃えるのが簡単ではなく“吟醸酒抜きの吟醸会”も珍しくありませんでしたが少なくても年間2~3回は〆張鶴大吟醸、千代の光大吟醸、非売品時代の八海山大吟醸、(今も昔も非売品の)鶴の友大吟醸を参加された皆さんに飲んで楽しんでもらっていましたし、最初の講談社の日本の名酒辞典の全国の酒の会のページにも取り上げていただきました。
時が流れほとんどの蔵が大吟醸を発売している時代になると、会長や会員の皆さんが旅先で購入されたりどなたから頂いた大吟醸を持ってきてくれるようになり“吟醸酒抜きの吟醸会”は無くなったのですが、この時期は吟醸酒・大吟醸という“言葉”がスポーツカーという“言葉”と同様に“その言葉の意味する範囲”が拡大したように思えるのです。

吟醸会はある時期から会員の皆さんから頂いた大吟醸を開けることが多くなったのですが7~8本の酒を飲み干してしまうため、もともと吟醸会の会場の鮨店・東屋さんが扱っていた〆張鶴・純や千代の光・吟醸造りも“補助的に”置いておいたことが多かったのですが、おそらくは8000円から10000円以上はすると思われる頂いた大吟醸が残っていて〆張鶴や千代の光が空になっていることが珍しくなかったのです-------“好みの差”を考慮したとしても、大吟醸と言う“名称”や値段の“高さ”が必ずしも美味さをいつも“担保している”とは限らないのです。

前置きが長くなりましたが、獺祭について私個人の視点(昭和五十年代初めからの視点)で少し書いてみたいと思います-------まずはマスコミなどで公表されていることを書きその後で私個人の感想を書いていきます。

 
1.獺祭は吟醸酒以上しか造らない蔵として知られており一番高い大吟醸酒は720MLで32400円します。
2014年(26BY)の生産量は15000石(一升瓶換算150万本)で売上金額は約50億円と公表されており新たに完成した本蔵は12階建ての建物で“生産能力自体は50000石まで拡大された”そうです。(27BYは20000~25000石あるいはそれ以上の生産量ではないかと日本酒業界では言われているそうですが--------)

2.使用する酒造好適米は山田錦(精米歩合23%の大吟醸もあるそうです)のみで杜氏を置いておらず社員が温度管理された蔵でICTで管理したデータを活用して一年中酒を造る四季醸造を行っているそうです。


1.についての感想

32400円は特殊だとしても吟醸酒・大吟醸がほとんどのため、残念ながら、獺祭はエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)が普通に晩酌で気楽に飲める価格帯の酒ではありません。
15000石という数量は、“新潟ナショナルブランド(新潟NB)”と一部の口の悪い人に言われる、越乃寒梅・久保田(朝日酒造)・八海山よりは少ない販売量ですがこの三つの蔵は吟醸酒や大吟醸を大量に造ってはいません-------特定名称酒の基準上での吟醸酒・純米吟醸酒はこの三つの蔵は他の蔵よりは多いですが100%にはさすがに届きません。
さらにもし生産能力一杯の50000石の製造をしたとすれば新潟NBどころの話っではなく月桂冠に代表されるNBの10位前後の規模になります。

私個人は昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の大吟醸(特に関東信越国税局の春秋の鑑評会のために造られた大吟醸)に強く魅かれてきました。
私の記憶ではこの関信局の鑑評会で春秋連続で首席第一位に輝いたのは〆張鶴と千代の光しかなかったはずですがこの二つ大吟醸は『淡麗辛口の極致』と言える素晴らしいものでした。
また一昨年5度以下の温度で管理されていた平成元年BYの〆張鶴大吟醸を飲んだのですが、24年間も冷蔵庫の中にあったとは思えない(わずかに香りに影響はありましたが)素晴らしい美味さに本当に驚きました--------きわめて強い気持ちを込められながらも臆病と言えるほど慎重・丁寧に造られた大吟醸の、きれいでバランスの取れた美味さの根底にはそれを支える“強固な部分”が存在していることを改めて本当に強く実感出来たからです。
そして「酒を自分達が造っていると思うのは少し違うような気がする。私達は酒自身が酒になることを手伝っているというのが本当のところのような気がします。特に大吟醸は瀕死の重病人を必死になって看護するようなものでその気持ちが強ければ強いほど大吟醸が応えてくれるように感じられます------」-------故宮尾隆吉前会長に伺ったお話ですがお粗末で能天気な私も平成三年に酒販店を離れるまでそう感じて大吟醸に接してきましたし今もその気持ちは変わっていません。
 
上のような体験や経験から昭和五十年代の関東信越国税局の春秋の鑑評会のために造られた大吟醸が私個人にとっては今でも一番飲みたい大吟醸であり、そのような大吟醸は量産とは相性が悪いあるいは大吟醸の酒質を落とさずに量産するのは“至難の業”と感じてきましたので、15000石(吟醸及び大吟醸の合計であっても)という大量生産には私個人はある種の“違和感”を排除することが出来ないのです-----------。
そして約50億円という売上にも、鶴の友や〆張鶴や千代の光のような新潟淡麗辛口の酒蔵と接し続けてきた私個人は、やはりある種の“違和感”を感じざるを得ないのです--------。

2.についての感想

2.の“前半部分と後半部分”は、私個人が受ける印象では、ある意味で“正反対の方向”のよう思えます。
誤解して欲しくはないのですが私自身は、現在のNBトップの白鶴に代表される『近代的で設備の整ったファクトリーでの日本酒造り』に否定的な見解は持っていません。
昭和五十年代とはまるで違う、全体として酒質の向上したあらゆる種類の日本酒をリーズナブルな価格で安定的に安定した酒質で、サイレントマジョリティたるエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)に供給し続けていることは否定出来ない“事実”です。
数量・設備とも現在の白鶴はNBトップの蔵で、もちろんICTを駆使して収集したデータも活用していますが、きわめて優れた“日本酒の製造工場”の白鶴といえどもそれだけでは酒を造ることはできません。
蔵全体や個々の温度管理や麹室の温度・湿度管理、もろみの温度管理などICTで収集したデータを活用し最新の設備に任せたほうが良いものはどんどん任せるべきだと私自身も思っていますが醸造や発酵の知識を学び続け実際の酒造の体験を積み重ねてきた“万能センサー”とも言うべき杜氏や蔵人の存在が、酒自身が美味い酒になるために最大の貢献をしているという事実はNBトップの白鶴といえども変わらないのです。

現在の〆張鶴・宮尾酒造も“従来の意味での杜氏制度”は採ってはいませんが、醸造に関わる社員の多くは昭和の終わりから新潟清酒学校に学び藤井正継前杜氏と一緒に〆張鶴の造りを積み重ねてきた1級、2級の酒造技能士で占められています---------〆張鶴の場合は従来の制度による将来の杜氏・蔵人の不足を見越し、早い時期からその対策として自社の杜氏・蔵人を意図的に“養成”していたというのが正しい受け止め方だと私個人には思われます。
事実、藤井正継前杜氏が引退されたことを私自身は〆張鶴の酒質から感じることは出来なかったのです----------。
私自身はどんなに各種の設備が向上しICTがさらに進歩しより多くのデータを集めるようになったとしても(旧来の伝統的な杜氏制度ではないにせよ)杜氏や蔵人の存在は現在も将来も必要不可欠と確信しています-------。

昭和五十年代初めから日本酒業界に接点を持たせて頂いた私は“痛感”していることがあります。
それは、『日本酒の酒質と量産は“相性が悪い”』ということです。
昭和五十年代にはさほど有名では無かったため、丁寧に細心の注意を払って素晴らしく美味い酒を造っていたのに人気が出て需要が拡大し増産すればするほど、残念ながら酒質の向上と“反比例”するケースを見てきました----------レッテルに書いてある銘柄の名前は同じでも三十年前に比べると“まったく違う酒”になっている例が残念ながら珍しくないのです。
500~600石ぐらいの規模の地方銘柄(地酒)の蔵が蔵を存続出来る高単価の売上を志向し(また売れ残りのリスクを避けるため)吟醸・純米吟醸、大吟醸・純米大吟醸を少量多品種で造り販売してゆくことは私も十分理解できます--------そのような蔵がすべての酒に山田錦を使用と謳うのならまだ分かるのですが約15000石以上(製造能力は約50000石)を販売する獺祭がオール山田錦を標榜していることに“私個人の狭い体験・経験”ではある種の“違和感”を感じざるを得ないのです---------。

かなり昔にYK35という“言葉”が日本酒業界で流行ったことがあります。
Y→山田錦・K→協会9号酵母(別名の香露酵母のK)→精米歩合35%---------この“セット”でないと全国新酒鑑評会で金賞が取れないという事を意味している言葉なのです。
この言葉の影響では無いと思われますが、鑑評会用の大吟醸やその蔵のフラグシップの大吟醸は山田錦の35%がスタンダードになっていると伺ってきました。
いくら大粒で心白の大きい特A地区の山田錦でも35%よりも削ると、大吟醸を造るという一点では得ることが出来る利点はあまり多くなくリスクのほうが増えるのではないか------私個人はそのような“感想”を少なくない業界の方々に伺ってきました---------それゆえなぜ23%の精米歩合が必要なのか私自身は獺祭の皆様に教えを請いたい心境なのです。

お粗末で能天気な私でも山田錦は、山田穂と短稈渡船を人工交配して造られた酒造好適米だというこは若いころから一応は承知していました。
「要するに山田穂と短稈渡船の“ハーフ”ですね----」と単純な理解の仕方をしていましたが、新潟淡麗辛口全盛時の新潟でも高精白の大吟醸には山田錦を使用していた事実は承知していました。
兵庫県産の山田錦は、兵庫県立農林水産技術総合センター 酒米試験地の存在のおかげで毎年“狙いどうりのハーフの特性を持った山田錦”になっており、種籾を手に入れ翌年生産→一部を種籾→翌々年生産→一部を種籾というよなだんだん“ハーフの特性がなくなりつつある他県の山田錦”とは違うと特A地区の栽培農家さんは思われているようです。
獺祭は拡大し続ける生産量(27BYは20000~25000石あるいはそれ以上と言われているそうですが)を賄う山田錦を確保するために富士通が開発した農家用支援システムをも投入して兵庫県以外の農家に山田錦の栽培をお願いしているそうですが成果が上がりつつあるとマスコミの記事には書いてありました。
平成26BYには兵庫県産の山田錦はけっこうタイトで新潟の蔵でも確保に苦労する面があったそうですが今回の仕込みでは(27BY)は兵庫県産の山田錦は希望どうりスムーズに入荷しているそうです-------この“事実”が指し示すことに、個人的には、大変に興味深いものがあります---------。



私は“酒質の差”にはふたつの種類があると思っています。
ひとつは“好みの差”です。
好みの差を客観的に計る“ツール”はありません--------「自分は細くて背が高いほうが良いと思う」、「私は体ががっちりしてるほうが良い」------これは“同じ基準”で良し悪しを判断することはとうていできません。
もうひとつは“レベルの差”です------これははっきりと“比べる”ことが出来ます。
淡麗辛口で育ってきた私は濃厚芳醇タイプは好みではありませんがレベルの高い酒には敬意を払います。
一本の酒のレベルをその酒だけで判断するのは難しいことですが、他の酒と比べることで誰でも簡単に“レベルの差”を計ることが出来ます。

AとBという酒があるとします。
車のスピードに例えると、Aが180km、Bが300km出ていると仮定します。
まずAを飲み続いてBを飲みます。
180km→300kmの場合は、Aも速いしBも速いとなりどちらも速いということは分かっても“その具体的な差”は分かりません。
しかし続いてさらにAを飲むと、今度は300km→180kmとなりAという酒自体が変わっていないのにBという酒の300kmのスピードに合った感覚で180kmのAを見るため「何だこの遅さは----」ということになり“レベルの差”が実感出来ます-------それは高速のICから降りるとき60kmが物凄く遅く思える感覚に似ています。
B→Aの場合は一発でAの遅さを感じます。
ある酒のレベルを判断するときには、できれば自分が美味いと思っている酒と比べることをお勧めします。
A→B→A--------このパターンで比較すると“レベルの差と本当の自分の好み”を捉えることが出来ると私個人は感じてきましたので興味のある方はこの方法をお試し下さい。

昭和五十年代初めからの視点-4の前置きで書いた吟醸会での私の役目は、その回の酒の中で乾杯の酒=最初に飲む酒を選ぶことです。
私は常に乾杯の酒は大吟醸や純米大吟醸、全国新酒鑑評会金賞受賞など“レッテルに書いてある字”に関係なくその回の酒の中で一番レベルの高いと思えるものを選んできました。
まだ舌の感覚が新鮮な最初に一番良いものを投入すれば、その後飲む酒の“自動的にレベルの差を計る”結果になるからです------ましてや吟醸会の会員は鮨店・東屋の常連が多く、〆張鶴・純や千代の光・吟醸造り、鶴の友・別撰をごくふつうに飲んでいるため“能書きや知識”に関係なく“レベルの差”を判断し易いのです。
その結果、大吟醸だろうと15000円しようが余る酒は余ってしまうのです。

“レベルの差”は上記の方法で分かりやすく判断することができます。
出来れば自分が一番美味いと思える定番の酒がありその酒と比べるのがベストだと思われますが、それ以外の場合でもA→B→Aのパターンで“レベルの差”は判断出来ますがそれ以上に日本酒は1本づつ個性も違いレベルの差もきわめて大きい楽しくて面白いアルコール飲料であることを実感出来ると思われます。




今回もかなりの時間がかかってしまいまたもや長い記事になり大七・生もとにはたどり着きませんでしたので次の記事で大七・生酛について詳しく書きたいと思います。
長々書いてきましたが、大吟醸・純米大吟醸である、山田錦100%である、正規の販売価格が15000円である、人気があり手に入り難い--------以上はある水準であることは担保していますが、飲む人にとっての美味さを必ずしも担保していないということを申し上げたいのです。
それゆえレッテルに書いてあることではなく自分の舌で比べて飲む人の方が複雑で緻密な手法で造られた日本酒を一番楽しめるということを申し上げたいのです-------現在の日本酒の業界の趨勢と違っていてもそれが日本酒の本来の楽しみ方だと私自身は確信しているからです。
そして、地方銘酒(地酒)側は獺祭に代表される有名で売れている蔵ほど(ごく一部の酒販店と手を携え)、ごく一部の需要・ごく一部の需要層に傾斜しエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)から離れる方向に動いている“傾向”に拍車がかかり、エンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)から地方銘酒(地酒)がいっそう遠い存在になり昭和四十年代後半とは違う理由であっても“博物館入り”に近づきつつあるのではないか--------“杞憂”だと笑われるかも知れませんが、博物館入りの危機をバネにした“反攻”を昭和五十年代初めから体験してきた私個人は“違和感と危機感”を感じざるを得ないのです-------------。


*なおこの記事もまだ“未完成”の部分もあるのでアップ後も修正・加筆していきたいと思っています---------。