西鉄バス トンネル人道口
神功皇后が三韓征伐で門司に来られた時、門司港と下関の間には、真ん中に穴の開いた小山が有って、皇后の船団が通れなかったので、皇后が穴 門
神様 にお祈りしたところ、一夜で小山が取り除かれ今の関門海峡が出
来、その小山はいまの彦島(曳島)になったという、いわれがあります…
鯛釣り岩 西鉄バス トンネル人道口 下車
神功皇后が三韓征伐の戦勝を祈願して、鯛をお釣りになったと云われて
いる大岩、海岸のすぐそばにあります。
和布刈神社 西鉄バス 和布刈神社前下車
皇后が沖ノ島(満珠と干珠)に戦勝を祈願して授かったのが、満珠と干珠
の珠で、新羅から戦勝帰還の折に、その宝珠を、速門の瀬戸に鎮めたのが
和布刈神社の始まりとされています。
江戸時代までは隼人社、または速戸社と呼ばれていました。また旧暦元旦
の未明干潮時に行われる和布刈神事(県指定無形民俗文化財)は大変有名
又境内には、多数の句碑などがあります。
高浜虚子の句碑 「夏潮の今退く平家亡ぶ時も」
小笠原氏が寄進した灯籠
和布刈砲台跡
松本清張碑
飯尾宗祇句碑
その他の伝承地
産湯の井
めかり会館とめかり毎日荘の間(今はありません)に、かつて清水の湧く場
所があり、「平家の一杯水」と称していました。壇ノ浦合戦で傷つき和布刈
の浜へ泳ぎ着いた平家の武将が、この水を両手で飲むと二杯目が塩水に変わ
っていたという伝説です。下関の前田海岸にも同じ名前の井戸があります。
また、産湯井(うぶゆのい)ともいい、神武天皇の父君、鵜葺草葺不合命
(うがやふきあえずのみこと)の御産湯の井戸とも伝えられています。
源平壇ノ浦合戦

平家方が海豚(いるか)占いをしました・・・「海豚が通ったほうが負け」
海豚の大群が平家方の舟の下を通り抜けました。
「天の叢雲の剣」が行方不明になりました
長州と四国連合艦隊戦
長州藩砲台陣地、連合軍占領。大砲100門が戦利品として没収されました。
長倉戦争田ノ浦合戦
坂本龍馬が、高杉晋作の奇兵隊に参加しました。
第2次世界大戦機雷投下
連合軍による機雷5000発が、関門海峡に投下されました。
門司城址
標高175.2mの古城山は、都を追われた平知盛が源氏との一戦に備えて築
城したと伝えられている門司城の跡です。その後、城主が何度か代わりまし
たが約400年間続き、藩主細川忠興の1615年、一国一城の令によって破却さ
れました。関門海峡を望む山頂には、記念碑と歌碑が設置されています。
門司城争奪戦 城門址(めかり公園裏側)
門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後は、毛利氏が争奪する
ところとなり、門司城はその渦中に置かれました。
大友宗麟と毛利元就は、同じ先祖である中原(藤原)広季の子孫です。
大友と大内・毛利は、1554年から1569年までの15年間、門司城の
争奪戦を繰り返しました。
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