Sarajevo

歴史に学ぶ。
平和と叫んでも、平和にならない。なぜ-。

中国と日本は水と油

2005年06月30日 | 宗教
日本人は、仏教を理解していないどころか、
むしろ仏教を怨霊鎮魂に利用している。
そもそも仏教とは、「霊」「魂」という存在を認めないのだ。
霊+魂も、肉体とは別に個性(自我)があるという考えである。
幽霊は、生前の個性を引き続き、生前の恨みをはらすため、
この世に現れる。
個性を受け継いでいないと、恨み辛みがないのだ。
釈迦は、そもそもそのようなものは「無い」と断言した。
それを「無我」と言ったし、空(くう)ともいう。
仏教の本来の考え方は、怨霊はありえない。
人間+生物が死ねば輪廻転生するからである。
怨霊とは、この世に尽きせぬ恨みを持った人間の魂が死後も
肉体を遊離した形で、この世に存在すること。
仏教では、恨みをもった人間は犬とか動物に生まれ変わるか、
地獄や修羅場に転生するのだ。
死後の人間が、生前の個性を維持し、この地上にとどまることはないのだ。
日本では、仏教の教えを普及せず、怨霊鎮魂の道具として利用している。

この根拠は日本人の根底に「和」の精神が存在し、和を大切にしている。
和は、怨霊への恐怖に基づくもの。
(怨霊への恐怖に基づくもの)があるから、怨霊鎮魂として仏教を利用したのだ。
もしも、仏教の影響が強くなっていれば、今では和の精神は消滅している。
ところが、現在、会社・社会は、色濃く「和」が残っていて、サービス残業に
対しても反発する雰囲気すらない。

和の精神は、現在に至るまで、脈々と続き、「どんな形でも争ってはいけない」
常に話し合いで、決めようとしている。
ところが中国人と朝鮮人の精神は儒教である。
それは、「争いになっても、やらねばならない」ことがある。
この精神の違いは水と油の違いである。

従って、日本と中国が、どんなに話し合っても、謝っても
中国は水に流してくれるどころか永久に追求され、
真の友達になれないのだ。