Sarajevo

歴史に学ぶ。
平和と叫んでも、平和にならない。なぜ-。

なんと民主主義は、もろいものだろう。

2005年02月28日 | 民主主義
民主主義国家または、その時代に生きているので、共産主義国家を知らない

民主主義は反対意見を認め、野党の存在を認めている。
4年間の与党の政策・政道が国民の指示を受けなければ、
当然選挙に負け、政権の座から降り、政党が変わる。
選挙は血を流さない革命である。

東アジアに目を向ければ、中国にしろ、北朝鮮にしろ、一党支配である。
中国共産党なり、朝鮮労働党に変わって、新党を作ろうとしても、それらの国家は、
新党を認めないし、弾圧する。
弾圧は政治犯を作ることである。

民主主義は、政党を作って、選挙で勝てば政権を取ることが可能なのである。
従って、今の日本では、政治犯は生まれないのである。
中国・北朝鮮では、新党は作れないから、革命で政権を取るしかない。
革命は、毛沢東も言っているように、お茶を飲んで語らっているようなことでない。
食うか食われるかで、流血は伴うもの。

中国共産党が政権を取った時代背景は、
人民が虐(しいた)げられ、外国から侵略もあり、国全体が乾燥した草原の状態。
そこに火を放したら、すべての人民が中国共産党を支持し、政権を
取った。
一旦、政権に付いた共産党は他党を許さないし、流血革命で政権を
取ったくせに、革命の革命は認めない。

民主主義と共産主義の違いは、野党の存在を認めないことである。
認めないから、違う意見を発言、とくに中国共産党・朝鮮労働党の悪口を
言うと逮捕され、意見の自由を奪い弁護士も認めず、即強制労働・死刑になる。

民主主義にも、弊害がある。
民主主義が最高とは思わない。
今の時代、これ以上の思想が生まれていない。
今より、よくするため、国家、職場、個人レベルまで、
進化していく必要がある。

われわれは民主主義というルールで教育された。
天下を取りたければ、新党を作り、大多数の国民に指示されないと
天下は取れない。
流血革命・テロを起こそうした場合、それはルール違反であり、罰則を与える
ことも民主主義である。

なんと民主主義は、もろいものである。




クランケのことを単なる金づると考えているDr

2005年02月21日 | 医学・遺伝
同じ日に激しい頭痛とパソコン故障に見舞われる。
パソコンはハードディスクを交換して回復したものの、
頭痛は数日続き、しかも日に日に激しくなってきた。
いたたまれず、S市のO脳外科医院を受診。画像検査後、先生は「脳腫瘍・脳出血・脳梗塞所見は
ありません。鎮痛剤を服用してみて(痛みが)消失しなかったら、血管造影を撮りましょう」
数日間、その薬を服用してみたが、激しい痛みは依然として続き、以前、蓄膿(ちくのう)を
患(わずら)ったことがあるので、S市のE耳鼻科に行ってみた。
先生は、「外耳炎だ。これは脳外科では発見されない」
患者の立場として、病名が分かって、一安心し、処方薬を毎日欠かさず服用していた。
ところが、3週間たっても、いっこうに変化ないにも関わらず、その件(頭痛)を無視して、
耳鼻科の先生は「鼻も悪い」と言い出し、勝手に、あらたな病名を付け、
鼻と咽頭に吹き付ける噴射機まで買わされた。
このあたりから、どうも変と感じ、N市のK耳鼻科に変えてみた。
そこは最新の設備が整っていて、しかもS大学病院を辞めて開業したばかり。
耳の中の様子がパソコンに写り、右耳と左耳の外耳と鼓膜を比べながら、
両耳とも、正常と診断。
痛みの原因は、三叉神経の炎症と判明した。
治療としては鎮痛剤しかないとのこと。
その治療を2週間続けたら、痛みは消失した。
私としては、E耳鼻科の治療費を返して、と言いたい。
治らない治療して、金を取る今の保険制度は、なにかおかしい。


北韓は在日を殺すきか

2005年02月12日 | 東アジア
日本と北朝鮮は、スポーツとして戦って終わった。選手団が成田を経って2時間後、核爆弾を製造したことと、6ヶ国協議から無期限離脱したことを表明した。日本にはミサイルを飛ばすことを匂わし、常に言葉の暴力を発している北である。北は日本に在日がいることを知ろうとしない。ミサイルまたは核攻撃するとなると、日本人も死ぬが、在日も死ぬ。ミサイルは在日と日本人を判別できない。北は在日のことを人質(人質の意味は約束を履行する保証として相手に渡す人)と思っていて、日本に対して、核攻撃して、死んでも無視する。
人間の生きる権利を意図も簡単に奪う金王朝は、朝鮮半島の正当性を失っている政党である。今でも、新潟港から北に帰ることは可能だが、現在帰還者は、誰も一人としていない。アン選手すらも、北には住まない。北は共産主義+儒教が変に混じって、いびつな体制を作りあげた。北の住人は、将軍さまを唯一絶対信仰しているため、世界の常識を知らない。在日は両者(世界の常識と北の常識)を見ているので、北に移住しようとはしないし、約13年前、300万人が飢餓で亡くなっていることも知っている。北は自国民が死んでも、金王朝が残ることが最優先国家である。このまま、このような状況が続くと、中国が介入し、傀儡政権を作り、傀儡政権後、中国は食料を配り、傀儡政権を正当性のあるものとする。その兆候は、すでに表面化している。
豆満江に3000人規模の軍隊を集結させ、渡航訓練しているし、さらに歴史問題に触れ、高句麗は、中国の地方として、教科書にも載せようとしている。韓国は反対して、一応おさまったが、いずれ、また中国は、この問題を主張し、北京オリンピック後、大中国は動くし、その際、北は飲み込まれるかも。

死の値打は時代と共に変わる

2005年02月02日 | 宗教
今日放映したテレビのドキュメンタリーは、小児癌患者を取り上げ、その死のプロセスは大変悲しい。平和の時代は一人一人の死は悲しくて切ない気持ちにさせるが、戦争状態は一人一人が生き延びることで、精一杯なため、一人一人の死は無関心になる。
北朝鮮は、路上に死体が転がっていても、声すら掛けようとしない。一応、韓国とは休戦状態にあるものの、それだけ国が逼迫し、死に対して無関心なのである。
死のとらえかたは、その時代、その国の社会状況によって変わっていくものである。



パッション

2005年02月01日 | 宗教
連休最後の日、[パッション」という映画を見ました。
ナザレ(現在のバレスチナのガリラヤ)にイエスという男がいて、職業は大工。母の名前はマリア。
2000年前、ユダヤ教(旧約聖書)はユダヤ民族だけを救う宗教だった。ところがイエスという男は「私は神の子であり、まもなくすべての人類が救われる」という教えを説いた。
ここで紀元前のユダヤの歴史を分からないと、なぜイエスがゴルゴダの丘で十字架になった理由が理解できない。
紀元前2000年前、アブラハムがカナン(現在のパレスチナ)に移住。アブラハムは神との約束で、カナンという土地を与えられたのである。孫のヤコブ時代、飢饉を逃れてエジプトに移住し、ユダヤ民族はエジプトの奴隷にされ、苦しい労働をしいられた。このとき、モーゼという男が現れて、神の言葉として「ユダヤ民族に乳と蜜の流れる地を与える。だからモーゼ、おまえは民族を指導してエジプトを脱出せよ」とユダヤ教の神(ヤハウェ)から命令があり、エジプト出る。十戒という映画は、モーゼが奇跡を起こし、海が割れるシーンを思い出せたと思います。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は同じ神であり、一神教である。ユダヤ民族は現在のイスラエルの土地は神から与えられたという強い信仰をもっている。あいまいな日本人は、単にそこに住んでいるという考えとは違うのである。
神との約束の地に定着したユダヤ民族が、紀元前1000年頃、イスラエル王国、その後、ダビデ王、ソロモン王と繁栄した時代を過ごし、やがてソロモン王が亡くなると、ユダとイスラエルに分裂。その後、イスラエルはアッシリア、ユダはバビロニアに滅ぼされて、民族全体の強制連行という苦難(バビロン捕囚)を経験し、その後、アケメニア朝ペルシャのキロスによって帰還を許され、セレウコス朝シリア王国の支配の時代を経て、ようやく独立を回復したのもつかのま、ローマ帝国の植民地にされたのです。イエスはローマ支配時代の人(?)です。驚嘆すべきは、それらの苦難を味わっても、絶対ユダヤ教と自分達の思想を捨てなかった。そして何度も亡国の憂き目に遭っていたので、モーゼとかアレクサンダー大王のようなたくましく、ほかの民族を圧倒してくれる聖王を待ち望んでいたのである。そうした中で、ユダヤ民族にしてみればラビの一人にすぎないナザレのイエスという男が「自分は神の子で、まもなく救いが近づいている」と言い出しので、当初ユダヤ民族は待ち望んでいたメシア(救世主)だと思ったし、イエスに対して、軍事的指導者としての才能を期待した。ところが、イエスが言い出したことは「右の頬を打たれたら左の頬をだしなさい」「悔い改めよ」で、まったくうしろ向きの、軍事的抵抗からは、ほど遠いことばかりで、イエスの言動に期待を裏切られたユダヤ人の中から「イエスは偽メシアだ」「メシアをかたるとんでもない詐欺師だ」という声があがってきていた。
ここからパッション(受難)が始まるである。
弟子の一人であるユダの裏切りで、ユダヤ人がイエスを十字架にかけるシーンで、ローマ帝国のピラト総督はユダヤ民族に対して、「この人はどんな悪いことをしたというのだ」しかし、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。
ピラトは、罪人でもないイエスに対して手のくだしようがなく、かえって、暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ。手を洗って言った。「この人の血に付いて、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」 
すると群衆から返ってきた答えは「その人の血は、私たちや子供の上にかかってもいい」
この答えの意味とするところは、「私は神の子」と言ったイエスに対して、一神教のユダヤ教では人間が神になること、全能の神以外に神が存在することはありえないことである。ユダヤ教でもイスラム教でも、イエスは預言者扱いである。預言者は全能の神から教えを聞いてきた人であり、イスラムではその役目を行ったのがマホメットである。イエスが「神の子」と言ったのは神に対して、冒涜したことになるし、抹殺しなければならないのである。
年に一回、囚人を一人釈放する権限をピラト総督に与えられていた。ピラト総督が「バラバ(殺人犯の名前)かイエスか」と民衆に問うと、民衆みな答えて「バラバ」と合唱し、ラピトは、その群衆の意見に負けてバラバを釈放する。
イエスは鞭で打たれ、重たい十字架を背負い、ゴルゴタの丘で処刑された。処刑前12時間の受難のことを映画にしたのがパッションである。ユダヤ総督であったラピトは、最初は偽メシアとして死刑になりかかっていたイエスを助けようとしたのに、ユダヤ人はそれを拒否し、死刑台へと追いやったと新約聖書に書かれている。つまりキリスト教徒からすると、ユダヤ民族は、神の子イエスを処刑台に追いやった民族ということなり、実はここにユダヤ民族に対する差別の根源がある。
こんなにもイエスが痛めつけられる映画があったろうか。子供の頃、見た映画ではイエスは後姿しか出ていなかったのに。キリスト教徒は、なぜ処刑されたか知っているし、処刑されるまでの受難のシーンを見て、驚くし、涙を流すが、異教徒の日本人には、意味が分からないから、おもしろくない映画と思います。
キリスト教が、マタイ・パウロなどの弟子達の布教により、ヨーロッパに広がっていくうちにイエスを神として崇める根拠を見出す必要があったのである。
そのことは次回にしよう。


日本教とは異質なキリスト教とイスラム教とユダヤ教

2005年02月01日 | 宗教
パッション1では、イエスは自ら「神の子」として布教した。
一神教(いっしんきょう)というのは、絶対的神は、一神(ひとつのかみ)以外ないのである。モーゼしろ、ムハンマドしろ、絶対神(エホバ)から聞いたこと(教義)を人間に伝え教える預言者しかない。それなのにイエスは、「神の子」として説いた。ここがカソリックが、他の一神教と違うところである。
唯一絶対神が世界を創造し、土から人間を作ったと聖書に書いてある。
イエスの死後、(カソリックを)布教者は、この点を解決するた「三位一体(さんみいったい)」という論理を引き出した。この三位一体というのは、神の子と神と聖霊は、実は一つの存在であると信じることである。神(エホバ)子(イエス)聖霊(目に見えない神の働き)は、別々に存在するが、人間から見ると、
一つの存在として見えるとして布教したのである。
これでは三種類の神がいるように見えてしまうし、これが後年、問題となっていくのである。
続く