日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ

近隣諸国との摩擦が表面化し、過去の侵略歴史の認識や反省が国民にないまま、国家存続の岐路に立たされています。

リー・クアンユー氏のみた日本軍の慰安所 他

2013-06-15 23:53:52 | 過去の日本の戦争犯罪、戦争責任
 リー・クアンユー回顧録―ザ・シンガポールストーリーの第三章日本の侵略に、リー・クアンユー氏がシンガポールにおける日本軍の慰安所について触れています。日本軍のシンガポールにおけるレイプの頻度と合わせて氏なりの見方が載っています。肯定こそしていませんが、その見方に私が気になったので取り上げることに致しました。 本書については長い説明はしません。上下巻に分かれて、上巻の27~60頁にわたって日本軍の占領時代が取り上げられています。日本軍の占領時代についてはリー・クアンユー氏本人は当然のことですが、大変厳しい見方、憎悪すら感じられます。本題の日本軍の慰安所や日本軍将兵の軍規についてどうだったのかについて取り上げたいと思います 。

●リー・クアンユー氏がみた最初の日本軍兵士
戦争とともに、氏は家族のもとに避難しました。そのときに日本軍兵士に遭遇します。 その様子を30~31頁より取り上げます。
2月10日には英国軍が撤退したときに、軍隊がカレッジを接取した。その2日後には医療補助隊も解散した。最初、私はノーフォーク・ロードに住んでいたが砲撃が近づくにつれテロック・クラウに住む家族に合流した。その後の数日間、遠くで聞こえていたライフルの音が次第に多くなり近づいてきた。重火器や砲撃、爆撃音は聞こえなかった。好奇心から私は友達、漁師の子供たちとともにいつも一緒に遊んでいる集落につながる裏門から出ていった。20ヤードほど歩いて、私は英国軍の緑と茶色い制服とは違う焦げ茶色の制服姿の人間に会った。ゲートルを巻き、親指とその他の指が分かれたゴム底の靴を履いている。滑りやすい土地ではそのほうが土をつかみやすいと知ったのは後のことだった。しかも首の後ろに布垂れが下がった帽子をかぶっている。風変わりで小柄で長い剣先のついた銃を持っている。彼らは決して忘れることのできない異様なにおいを放っていた。マレー半島の北部のコタ・バルからシンガポールまでジャングルやプランテーションの道を2ヶ月間、体を洗うことなく戦闘してきた兵士たちのにおいだった。 彼らがだれか気がつくまで数秒もかからなかった。日本兵だ。私は真っ青になった。彼らは敵の捜索中だった。私が日本兵の敵兵でないことは間違いない。日本兵は私を無視して行ってしまった。私はすぐに家に飛んで帰ると、家族にいま見てきたことを話して聞かせた。自分たちを守るためにどれほど意味があるか知らなかったが、我々は家の窓や戸を全部閉めきった。中国での37年の残虐行為のあと、レイプと略奪は日本軍があおった恐怖の中で最も恐れられていたことである。しかし、その日の昼間と夜は何も起こらなかった。英軍は市街中心部まで急速に撤退し、戦闘で大きな抵抗を示さなかった。

これがリー・クアンユー氏と日本軍兵士の最初の接点といえます。中国での残虐行為は既にシンガポールでも知られておりましたが、日本軍兵士を氏がみた昼間と夜は何も起こらなかったと言います。南京では市街地に日本軍兵士が侵入したとき、戦闘や敗残兵の掃蕩行為とともに放火や略奪、強姦などの狼藉行為が繰り広げられていました。この記述を見る限りそうした様子は見当たりません。

●シンガポールにおける混乱と日本軍兵士による略奪の様子 31~31頁より
夜になって銃声が聞こえなくなった。まもなく、英国軍が降伏したとのニュースが広まった。翌日、市街地から戻った友人によると、すでに略奪が始まっているらしい。英国人をはじめヨーロッパ人の邸宅で、彼らが雇っていた運転手や庭師が略奪をしているという。我々一家も不安になった。長期間をしのぐために食糧や生活必需品が貯蔵してあるノーフォーク・ロード28番地はどうなっているのだろう。母の了解を得て、私は庭師のテオンクーを連れてテロック・クラウから8マイルほどのノーフォークへと歩いて戻った。ちょうど2時間かかった。途中でマレー人たちが大きな家から家具や道具類を運びだしているのが見えた。華人の略奪者は倉庫にあるかさばらなくて値打ちの高いものを狙っていた。我々の家から二軒向こうの荒れ果てた平屋は20人ほどのジャワ海から来たボヤニーズの家族たちに占拠されていた。男たちの仕事は運転手だった。しかし、彼らはまだ我々のところまではやってこなかった。敵性収容所に集合して空き家となった西ヨーロッパが持つ大きい家のほうが、より上等なものが手に入るからだ。頃合いをみて私は家に戻った。私がノーフォークから2時間ほどかけてテロック・クラウに戻る途中、法と秩序が仮死状態になったシンガポールを目撃した。英国軍は降伏した。中国人やインド人警察幹部やマレー人警官の姿はどこかへ見えなくなった。日本軍から英国軍の組織員と思われることを恐れたのである。市内では依然、日本兵の姿は見えなかった。しかし、いつもとは違い多くの人々は法律に従った。しかしこれまでのボスがいなくなったことで機会に乗じ倉庫や百貨店、英国人所有の商店から略奪するつわものもいた。この略奪行為は日本軍が秩序を回復するまで数日間にわたり続いたが、日本軍は略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点にみせしめにしたので終結した。日本軍は人々の心に恐怖心を植えつけたのである。日本軍も略奪行為を働いた。日本の支配が始まった最初の数日間は、通りで万年筆や腕時計を持っていた人は日本兵にすぐに取り上げられた。兵士たちは公式の捜査で、あるいはそう装って家に押し入り、個人的に着服できるものを奪っていった。日本兵は高級な自転車を取り上げたが、数週間でそれは止まった。日本兵のシンガポール滞在時間は短く、より広大な領地を獲得するためにジャワ島やその他の島々へ向かい、自転車は持っていけなかったのである。

日本軍兵士は現地人の略奪者は射殺し、首をはねてみせしめにしているくせに、自分たちは征服者として略奪を欲しいままにしている二重基準のとんでもない軍隊であることが分かると思います。略奪は記述されているが、南京事件で頻発した放火や強姦についてはリー・クアンユー氏の可視範囲ではないようです。

●リークアンユーと日本兵のファーストコンタクト、住民への凄まじい暴行の実態
36頁より
 私が日本兵と初めて接触したのは、カンポン・ジャワ・ロードに住む母の妹の家に行く途中だった。ブキット・ティマ運河にかかるレッド・ブリッジを渡ろうとすると、たもとに歩哨が行ったり来たりしていた。周りに4,5人の日本兵が座っていた。分遣隊の隊員だったのだろう。私はオーストラリア兵が捨てた広い緑の帽子をかぶっていた。暑い日差しをよけるために拾ったものである。
 私はできるだけ目立たないように日本兵の脇を通り過ぎようとすると、1人の兵士が「これこれ」と言いながら私に手招きをした。近づくと、その兵士はいきなり剣付き銃の先でその帽子をはねのけ、平手打ちをし私に跪くよう仕草をしてみせた。私が起き上がると日本兵は私が来た道を戻るように指図した。それでも私の場合は軽くすんだほうである。新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間も座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。
 ある日の午後、ノーフォーク・ロードの自宅のベランダに座っていると一人の日本人兵士が人力車夫に金を支払っているところが見えた。日本兵は少し多く払ってほしいと抗議する運転手の右腕をねじり、柔道技で空へ投げ上げられてしまったのだ。人力車夫は顔から真っ逆さまに落ちた。しばらくして人力車夫は起き上がったが人力車のそばでよろよろとふらついていた。あまりの仕打ちに私はショックを受けた。
 翌日、私はレッド・ブリッジで別の教訓を学ぶことになる。新たに徴発された車が青い旗をつけて走っていた。この手の旗といえば黄色は大将、赤は少将から大佐クラス、そして青は中佐から大尉クラスで一番下だ。ところが歩哨兵が持ち場で敬礼に立つのが遅かった。車は通りすぎたが、運転手がブレーキをかけ逆進した。将校が車から降りると歩哨兵に近づくなりきつく平手打ちを3回かました。右腕をつかむと、人力車夫にしたのと同じように歩哨兵を投げ飛ばした。私は今度は、それほど驚かなかった。粗暴なやりかたは日本の軍隊組織が持つシステムのひとつであり、ささいな違反行為に対する制裁を通じて日本兵の身に染み込んでいくと理解し始めたのである。
日本軍は暴力体質が骨の髄まで染み付いており、軍隊に入ってまだ間もない初年兵が、下士官や上等兵から訳の分からぬ言掛りをつけられて平手打ち、ビンタなどの暴行を受けることが当たり前でした。軍帽の被り方が悪い、やれ動作が鈍い、返事の仕方が悪い、敬礼をしなかった、敬礼が遅れたなどといって、殴る、蹴る、平手打ちをする、炎天下の中で何時間も座らせるような制裁を階級もしくは年功序列が上の者が下の者に対し行うということが日本軍内部で自国の兵士に対して平然とおこなわれていました。日本軍の場合は、日本軍の規則を外部の人に対しても強制します。この場合、シンガポールの住民です。現地の慣習や習慣などを一切考慮することなく、同じ日本兵や日本人にやったように、礼儀を知らなかったり、歩哨の前で敬礼を怠ったりした場合は容赦なく、現地のアジアの人に対してビンタや平手打ちなどの暴行、炎天下で座らされたりなどの虐待をおこないました。こういう酷い日本軍兵士の粗暴で酷い行為を書いていますが、女性に対する強姦や性暴力の様子はありません。

●シンガポールにおける華人虐殺
シンガポールにおける悪名高い華人の大検証に遭遇します。南京事件の場合と違い、市民に対する略奪や強姦などの付随はなく、秩序立っておこなわれた感じがします。38~39頁より
 日本兵が我が家から立ち去ってまもなく、華人はすべて尋問を受けるためブサール通りの華人登録センターに集合するよう日本軍から命令が来た。近所の人が家族と一緒に出向くのを見て、私も行ったほうが賢明だと思った。家にいて憲兵隊に捕まると必ず罰があるからだ。私はテオンクーと集合場所に向かった。人力車の運転手寮にあるテオンクーの部屋は鉄条網で囲まれた境界線の中にあった。数万人の華人家族が小さな一区画に押し込められていた。すべてのチェック・ポイントでは憲兵隊が見張っていた。憲兵隊の周りには何人かの現地の人々や台湾人がいた。私は記憶していないが、彼らの多くが顔が分からないよう頭巾をかぶっていたとの話を聞いている。
 テオンクーの部屋に一泊した後、私は思いきってチェック・ポイントから出ようとしたが、憲兵隊は外出を許可しなかったばかりか、中に集められていた華人青年グループに加わるよう指示したのである。本能的に危険を感じた私は番兵に荷物を取りに部屋に戻る許可を求めるとそれは許可され、私はテオンクーの部屋で一日半を過ごした。それからもう一度同じチェック・ポイントから出ようとすると、理由ははっきりしないけれども許可が出たのである。私は左の上腕とシャツの前部に消えないインクを使ったゴムのスタンプが押された。漢字で「審査済み」のマークがあれば、私が当局のお墨付きをもらった証明だった。私はテオンクーと家まで歩いて帰った。私は本当に胸をなでおろした。
 人間の命や生死に関わる決定がこんなにきまぐれに安易になされるとは、私にはとても理解できることではない。

これがシンガポールにおける悪名高き華人大検証の様子です。
2月18日。日本軍は18歳から50歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため5ヵ所の検査書に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。
 後にわかったことだが、私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられていた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され22日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、40、50台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛のよだつ話を伝えた。

女性や子供、老人も捕らえられて虐殺されたことが分かります。

●日本軍占領下のシンガポールにおける窮乏と治安
44頁より
私はシモダの会社で事務員として1年間働いた。仕事は部内書類の整理や他の日本企業との通信文書のコピーをとることだった。シモダの会社であるシモダ・カンパニーが事業をたたんだ後、私はラッフルズ・ブレイスの向かい側にある「組合」の事務所に就職した。「組合」の事業内容は主要物資のコメ、砂糖、塩、タバコなどの配給だった。私の給与は日本軍政当局が発行するバナナとココナツの写真が印刷されている通貨で受け取った。この日本人が「バナナ札」と呼んでいるお金は通し番号がなく、月を追うごとに通貨価値が落ちていった。私の仕事の価値は、むしろ支給される15ポンドのコメや砂糖、食用油、それに取引しやすいたばこなどにあった。これら配給物資の価値はバナナ札より高かった。配給物資は次第に欠乏して価値が上がった半面、バナナ札の価値は減る一方だったからである。

45~46頁より
43年暮れから食料が次第に欠乏してきた。日本海軍はミッドウエイやコーラル・シーの海戦で甚大な損害を出して敗北した。日本軍は制海権を失い、日本の船舶は連合軍の潜水艦に沈められていった。昔からのコメの輸出国であるタイさえもシンガポールへ輸出することができなくなった。ひとつの理由は日本がタイへコメ代金の支払いを渋ったことだが、ひとつにはシンガポールへ輸送できなかったためである。
 古くからかび臭い虫がついた備蓄米とマラヤ産のコメを食べるところまで追い込まれ、我々は代替食糧を探さなければならなかった。母は、よその母親と同じようにトウモロコシやキビ、それに普段は食べないサツマイモやココナツミルクで調理したタピオカなどを長くもたせようとしていた。食事が終わって1時間後には私や兄弟がどんなに空腹だったか、それは大変な事態だった。肉は贅沢品で、牛肉やマトンもほとんどなかった。それに比べれば豚肉は手に入りやすかった。鶏は自分で飼うことはできたのだが、餌になる残飯はなかったのである。

シンガポールの人々は日本軍の占領下とはいえ、生きることをやめるわけにはいかないですよね。日本軍の占領によって、シンガポールの社会はむちゃくちゃにされました。日本軍の発行した通貨"バナナ札"で軍票と呼ばれています。日本軍が占領した各地域で発行されました。その通貨価値が月を追うごとに下がっていったというのも、日本軍が必要な物資の買い付けのために、乱発させたからです。そうした一方で、コメ、砂糖、食用油などの配給物資については、戦況の悪化とともに、輸入が寸断し、入ってこないために配給の物資は欠乏しました。インフレが天井知らずに進行していき、シンガポールをはじめ、日本軍に占領された地域の庶民の生活はどん底に突き落とされていきます。

53~54頁より
 日本占領の3年半は私の人生にとり最も大切な時期だった。私は、人間とその社会、行動の動機、衝動などについて生々しくその実態をかいま見ることができた。政府というものへの評価や、革命的変化をもたらす道具としての権力に対する理解などは、この日本占領期の経験がなければおそらく得られなかったと思う。ひとつの社会システムが手荒い占領軍の前に一瞬にして崩壊するのを私は目の当たりにした。日本軍はシンガポールに全面的な服従を求め、大半の市民はそれに従った。人々は日本軍を嫌っていたものの、日本軍が自分たちを押さえ込む力を持っていることを心得ており、迎合していたのである。こうした事態に素早く対応できなかったり不快感を持った人や、新しい支配者を受け入れなかった人はひどい目にあった。彼らは新しい世の中のすみに押しやられ、生活は停滞するか傾いて、社会的地位も失った。新しい情勢に即応し、日本軍に役立つことを通じてこの機会を利用した人は財をなした。シンガポールの大半の人々に降りかかった災いを足場にしてのことだった。
 日本軍政は恐怖心を広めることでシンガポールの人々を統制した。日本軍は、気高く振舞おうとの姿勢はまったく見せなかった。罰則は厳しく犯罪はごくまれにしか起きなかった。生活物資の窮乏が一段と進み人々が半ば飢餓状態に落ち込んだ44年後半でも、シンガポールの犯罪発生率は驚くほど低い水準を保っていたのである。人々は夜でも部屋の正面のドアを開け放しておくことができた。それぞれの家庭には家長、10軒の家庭ごとにその長がいて、日暮れから夜明けまで自分たちの地域を夜警することになっていた。しかし実際には地域の住民は警棒を持っていただけで、報告すべき犯罪行為は起きなかったのである。日本軍が科す刑罰が重すぎたからだった。私は刑罰では犯罪は減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じない。これは戦前のシンガポールではなく、日本の占領下とその後の経験で得た信念である。

56~57頁より
 私は日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。私は毛沢東の「政権は銃口より生まれる」との言葉を知らなかった。しかし、日本軍の冷酷さ、銃、剣付き鉄砲、それにテロと拷問を目の当たりにして、だれが権限を持ち、何が忠誠心を含め人々の行動を変えることができるかという議論はすでに私は結論を出していた。日本軍はシンガポール人に対し単に従順になるだけでなく、長期的観点から日本の支配に順応するよう求めていらのである。シンガポール人が自分たちの子供を言葉、習慣や価値などの日本の新体制に適応できる人間に教育するように仕向けたのである。

食糧や物資が著しく不足し、人々は飢餓状態に陥る中で、犯罪が少なかったといいます。普通なら、治安が崩壊犯罪が蔓延していてもおかしくはなかったですが、そうはならなかったのは日本軍が科す罰が重すぎるので、犯罪を犯すことのほうがよりリスクが高いというのが理由です。しかし、私はこれには疑問を持たざるを負えません。シンガポールでリー・クアンユー氏の周りではそうだったのかもしれません。しかし、どこだか忘れましたが、日本軍の占領時代に、極度のインフレ、物資の不足と飢えの中で犯罪が蔓延し治安が悪化したケースだってあります。その辺の例は今後提示できればといいますが、単純に刑罰を重くすれば犯罪が減らせるという厳罰主義マンセーみたいな考えには至って疑問です。
さて、シンガポールでは刑罰は極めて厳しく、些細なことで罰金、鞭打ち刑まで課されるほどです。その起源がリー・クアンユー氏が経験した日本軍の占領時代にあったとは皮肉なことです。日本軍の占領時代、飢えが蔓延し、極度の困窮を極めましたが、南京事件のように、女性に対する強姦や性暴力の描写はありません。

●リー・クアンユー氏がみたシンガポールにおける日本軍の慰安所
40頁より
 降伏から2週間後、私は日本軍がケアンズ・ロードにあるタウン・ハウスの周辺に木の堀を立てたと聞いた。西ヨーロッパ人がシンガポールを離れたあと空き家となっていたもので、中産階級よりも上のクラスが保有していた邸宅街だった。私が自転車で通り過ぎると、堀の外側には蛇がくねるように並んだ日本兵の列が見えた。近所の人から、中には戦闘の前後に兵士にサービスするため従軍してきた日本と韓国の女性たちがいると聞いた。100人から200人の男たちが自分の番を待つため並んでいる光景は壮観だった。私はその日女性を見かけなかったが、近所の人によると告知板には中国語で「慰安所」と書いてあった。このような慰安所は中国ではすでに設けられていた。ついにシンガポールまで来たわけである。慰安所は少なくともその他に4ヵ所あった。私は自転車に乗って回り、タンジュン・カントン・ロードには最大の施設があったことを覚えている。20軒から30軒の邸宅が木の堀で取り囲まれていた。
 これを見て私は、日本軍はこのような問題に対して実用的、かつ現実的な処理の仕方をすると思った。英国軍とはまったく違うのである。私はフォート・カニング駐留の英国兵士を狙うウォタールー・ストリート周辺の売春婦たちを記憶している。日本軍の司令部は男性の性的要求を考慮して、手当をしているのだ。この結果レイプはそれほど頻繁には起きなかった。日本軍占領後の2週間、シンガポールの人々は日本軍が手荒なことをすると怯えていた。レイプは起きたけれども大半は郊外のことで、37年に南京で起きたようなことはなかった。これらの慰安所の存在でその説明がつくと思う。私は当時、日本軍が韓国人、中国人、フィリピン人を誘拐して中国や東南アジアの前線での兵士の要求を満たしていたとは知らなかった。彼らは将校用にオランダ人女性にもサービスさせていた。

 この部分がシンガポールにおける日本軍の慰安所に触れた部分です。英軍を降伏させてすぐに慰安所が設置されたことが分かります。記述では慰安所の存在は肯定こそしてないものの、慰安所があったためにレイプは郊外でこそ起きたものの、37年に南京で起きた事態にはならなかったと言っています。慰安所内部の実態や慰安所で働いていた女性が、現在は広く知られているが、韓国などの植民地やインドネシア、フィリピンなどの占領地から強制的に連れて来られたことは知らなかったようで、だからこそ、「実用的、かつ現実的な処理の仕方をすると思った」という感想がでてくるのでしょう。橋下らの「慰安所は将兵の性欲抑止には必須であり、戦争には付き物だ」というのは論外にせよ、二次的な論点として「本当に強姦などの抑止に有効だったか」を学術的に考えることはできます。仮にシンガポールの場合、慰安所があったことで、将兵の住民への強姦が抑止され、シンガポール女性の貞操が守られたとしても、慰安所の存在や従軍慰安婦制度を私は到底擁護できません。
 まず、ひとつに南京事件や他国の軍隊ではありえないような強姦やレイプ事件、性暴力を生み出すような日本軍自身の体質を改めることなく、慰安所をつくるというだけの対策でほとんど済ませたことです。欧米の軍隊の場合、数週間ごとに家族の元への「帰郷」が許されていました。当時の日本軍の場合、基本的にそれはなく、徴集され一旦戦地に行かされると、戦地を転々とさせられ、その間、妻にも恋人にも家族にも友人にも会えません。そうして長期の戦争や戦地での気の休まることのない荒んだ日々の元、心を病んで、現地人への略奪や、そして強姦に走る将兵が多発し、問題となりました。そこで、日本軍が解決のため、見出したのは戦意高揚のために、戦場に女性を連れて回る「従軍慰安婦制度」でした。本当に必要だったのは、将兵たちの「帰郷」と「休息」でした。終わりの目途の無い死の恐怖からの解放されて、家族の元へ帰り、故郷での休暇・休息を楽しむことでした。食糧や弾薬の補給とともに、そういう「帰郷」と「休息」が可能な範囲で軍事行動を行うことが必要であり、慰安婦を兵士にあてがうことで戦争を進めようとしたことがそもそもの誤りでした。
 もう第二に、これは倫理性の問題だと思います。慰安婦にされた女性は日本軍占領前の欧米統治時代に水商売などを経験していて自ら志願したような前歴者を除けば、強制ないし、詐欺や甘言、などによって意に反して慰安婦にされた女性たちです。未成年者を多数含み、成人女性も素人が大部分でした。居住の自由、外出の自由、廃業の自由(自由廃業)、拒否する自由がなく、戦場で精神を病んで荒ませた将兵たちを相手にしなければならず、過酷で悲惨な性奴隷として働かされていたのです。こういう実態をみれば、強姦を抑止したかの以前として、慰安所や従軍慰安婦制度は倫理的・道徳的な問題ともいえます。
 さて、シンガポールで日本軍将兵のの強姦がなかったかといえば、シンガポールであった日本軍による女性狩り コタバル0215―アジア太平洋戦争のホントにふれる 草の根出版会
で取り上げたように、実際には日本軍の将兵による強姦は多発したという情報もあります。そして慰安所の存在が強姦の対策に寄与したかといえば、全く役に立たなかった、あるいは慰安所を設置したことで性的な論理感が退廃したとも言われています。私のもっている"吉見義明著 従軍慰安婦 岩波新書"などにも書かれています。このテーマについては後ほど触れて書いていきたいと思っています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。