日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ

近隣諸国との摩擦が表面化し、過去の侵略歴史の認識や反省が国民にないまま、国家存続の岐路に立たされています。

シンガポールであった日本軍による女性狩り コタバル0215―アジア太平洋戦争のホントにふれる 草の根出版会

2013-05-22 00:08:30 | 過去の日本の戦争犯罪、戦争責任



『コタバル0215―アジア太平洋戦争のホントにふれる』(母と子でみる 39)草の根出版会でみつけました。
この本について少し説明しておきますが、北海道における「民衆史掘りおこし運動」から始まりました。高校教諭・小池喜孝氏が中心となってはじめ、政府や主流のアカデミズムから見落とされる歴史を取り上げました。最初は北海道のタコ部屋労働から始まり、ウィルタ・アイヌなどの先住民族の強制移住や差別、戦時中の中国人や朝鮮人強制労働犠牲者を取り上げ、そして国外の日本軍が侵略した中国大陸や東南アジア占領地域にまで草の根から現地の方より聞き取り、本書で取り上げるまでに広げました。図書館でみつけたのですが、ざっくり読んだだけですが、素晴らしい貴重な本だと思います。

さてと、シンガポールで女性狩りについて書かれているのは、本書の37~41頁に「女性狩り」と項目で取り上げられています。

とあるブログのコピペですが、

(「シンガポール華僑粛清」「日本軍占領下のシンガポール」より一部抜粋)

「中国人接待婦数百人求む。年齢は17歳前後から。採用されれば、毎月150ドルを最低保障する(毎月1回の休日)。このほか、応募のさい、本人に3ドル、紹介者に2ドル支給。応募受付者はビーチ路のラッフルズホテルにて。また、接客婦経験者も可」昭和17年3月5日(日本軍が進駐してわずか20日後)に、このような広告を出したが、応募者が居なかったため、兵士をあちこちに差し向け、数百人の娼婦を駆り集めた。このなかには良家の娘さんも少なくなかった。(略)


本書の37頁からの孫引きですが、引用します。

 しばらくシンガポールに駐留し、その後移動した(ジョホール州ムアルと推定される)独立自動車第四二大隊第一中隊は、一九四三年八月二四日、次のような「軍会報」を受けました。
「近時軍人軍属にして軍用車又は人力車等に地方の婦女子を同情せしむるものあり殊に慰安婦等同乗せしむる者を散見するは頗る遺憾とする処にして自今厳に戒慎せられ度」(軍事極秘『陣中日誌』第拾壱号ー昭和十七年八月一日~三一日ーより、カタカナを平仮名とした)


前者はシンガポールで日本軍は慰安婦の募集広告を出したが、応募者がいなかったため、兵士をあちこち差し向けて、娼婦を集めたとあります。シンガポールで街に繰り出して女性狩りをやったという話を合致します。後者の軍会報はシンガポールで鬼畜のような"女性狩り"の蛮行があって出さざる負えなかったと推測され、女性狩りの存在を裏付けるものでしょう。本書より、その女性狩りの概要を目撃者の証言を中心に引用していきたいと思います。
著者らはジョホーバルからシンガポールへ向かいます。シンガポールにて日本軍の女性狩りの証言を聞くわけです。著者らが話を聞いたのは、1995年でアジアで日本軍の戦争犯罪や残虐行為に対する追及や賠償運動が盛んだった時期です。通訳兼ガイドの蕭翰字(ショウハンウー)さんの友人 林瑞風(リンスイフォン)さんおよび 祖母 陣素珍(タンソンチン)さんに当時の話を聞いています。シンガポールで日本軍の女性狩りがあったとされるシンガポール東部のセラグーンのジャラン地区にて2人の話を著者らは聞きました。その模様を本書より引用したいと思います。

●林瑞風さんの話 (友人は強姦され、木にぶら下げられた)
本書の38~39頁より引用

 二階建てのコンクリートの家は、長屋のようにつながっていました。入口から入ると部屋が細長くなっていて、一番奥に出口がありました。部屋の椅子にメガネをかけた林瑞風さんが座って待っていました。外は三○度を超えていましたが、クーラーですずしい部屋です。
 林さんは笑顔で迎えてくれました。すでに用件は蕭さんから聞いていて、当時のことを中国語でゆっくり語り出しました。
 「私は八〇歳だから、三〇歳くらいの時のことです。日本兵が私たちのところに来たのは四ニ年の二月半ば頃で、トラックの荷台に華僑の人の首を四つ、すみずみに置いて見せしめにしていました。四台でしたから、首は一六個だったと思います。その首の目はカアッと見開いていて、口元の金歯まで見えました。また、こういった首はあちこちで見えました。トラックは人通りをゆっくりと走っていました。日本軍は華僑の多い地区をそのようにして回っていたのだと思います」
 その首は、街で行なわれた「大検証」(華僑に対する大虐殺)による犠牲者だと思われました。林さんは「大検証」については解放後に知ったといいます。
 「私自身は被害を受けなかったですが、私の親戚の子どもはマレーシアであったのと同じように空中に投げられて銃剣で刺し殺されたり、私の友人は日本兵に強姦された後、裸のまま何日も木にぶら下げられて死んでしまいました。前者は見ていないが、後者は目撃したとのことです」


 悲惨な証言です。友人をこのような残酷な形で日本兵に殺されたときの気持ちは察するに余ります。つづいて、女性狩りについて具体的に書かれており、引用します。

●画集『惨痛的回憶』(司馬春英編絵 一九四六年)による女性狩りの様子 39~40頁

 シンガポールを占領した日本軍は、家宅捜索の名目で若い女性を漁りました。女性狩りのようすとその後について、画集『惨痛的回憶』(司馬春英編絵 一九四六年)はこう説明しています。
 「家を調べることは、女色をあさること。婦女を犯し、罪悪は大きい。容姿の美しい若い娘を見るとすぐにとっつかまえてピストルを抜き出し、まず家の中の老人や子どもを別の部屋に監禁して、その後に自分の思いのままにふるまって、恨みの事件を起こした。かわいそうなのは柔らかくて若い一輪の花。涙をのんで獣兵に犯され、彼らは大手をふって立ち去った」「汚水をまきちらし、若い婦人は玉砕し、母の屍にすがって幼児は悲しむ」「容姿のいい女性は特務に監禁され、ほしいままに犯され、その後日本軍に引き渡された。日本軍の手中で重刑を申しわたされた人は犯され、その後木の柱に吊るされ殺された」「日本軍がいたるところで婦女を強姦することは、人々はことごとく知っていた」


 南京で日本軍が行なった居住地区での「残敵掃蕩」の中で発生した夏淑琴さん一家惨殺の悲劇が想起されます。8歳の夏淑琴さんと3歳と4歳の2人の子どもだけが生き残り、その家にいた家族残り13人全員が殺害されました。
2人の姉は日本兵に強姦された後、殺害されました。そうした事件がシンガポールでも多発したのでしょうか?「日本軍の手中で重刑を申しわたされた人は犯され、その後木の柱に吊るされ殺された」とありますが、大検証でも女や子どもも日本軍によって捕らえられ虐殺されましたが、女性であればそのような強姦された後、惨たらしい殺され方をしたようです。"強姦した女を木の柱に吊るす"というのも流行っていたのでしょうか?後に書きますが、リークアンユー氏のシンガポールで日本兵によるレイプ事件は起きなかったとの見方と、「日本軍がいたるところで婦女を強姦することは、人々はことごとく知っていた」とは矛盾する気がします。リークアンユー氏の見方は男性としてのジェンダーの差は拭えないものはあるのかもしれませんが。
 次にガイドの祖母 陣素珍さんにも話を聞いています。その模様を引用します。

●陣素珍さんの話 40~41頁

 林さんの家の近くに蕭さんの祖母陣素珍さんが住んでいます。私たちはそこに急ぎました。
 私はあまり話すことはないよ、と言いながら一三歳のことを思い出してくれました。
 「当時、ジャランプサール(アラブ街に近いシンガポール中心部)に住んでいました。日本軍が占領した後、少なくとも週に一度よるにやってきて若い女性を探し回っていました。見つかるとどこかに連れて行かれ、行方不明になって帰ってきませんでした。もう少し向こうの地区に住んでいた時、連れて行かれた女性が近所にいました。ですから、若い女性は髪を切って男装していました」
 先の「軍会報」による「戒慎」は、以上のような日本軍の鬼畜のとごき蛮行もあって出さざるをえなかったのではないでしょうか。
 しかし、赤ちゃんのいる家では男装だけでは危険でした。林さんはさらにこう言いました。
 「子どもができたら捨てる人もいました。それは経済的に育てていけないこともありますが、赤ん坊の泣き声がする若い女がその家にいることがわかり、レイプされるからです。私の友だちにも子どもを捨てた人がいたけれど、良心の呵責にかられてまた拾いに行きました。私自身も捨てられた赤ちゃんを見たことがあります」
 子どもを捨てた人は、なにも「満州」(中国東北部)にいた日本人だけのことではない、と思うと複雑な気持ちになりました。


 シンガポールにおける日本軍将兵による女性狩り、強姦事件の悲劇です。子どもすら手放さざる負えないそうした悲劇を深く考えさせられます。シンガポールでは規模はともかく、南京のような悲劇が起きたのです。シンガポール以外のマレーシアやインドネシアではどうでしょうか?フィリピンではこれよりも酷い規模で起きたのでしょう。日本人は自国の戦争被害については言及しますが、こうした日本軍に占領されたアジアの被害・悲劇には無関心なようです。
 続いてリー・クアンユー回顧録―ザ・シンガポールストーリー より、シンガポールの日本軍占領時代でリークアンユー氏の慰安所や日本軍のレイプ事件の認識、シンガポールやマレー半島において日本軍の軍規はどうだったのかについて触れて考察できればと思います。


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