地平に夜が訪れた。
紫に包まれる町並み。少女は一人、屋根裏から地平を見つめる。窓の外には多くの人の【物語】があった。片腕の男が、淫らな娼婦を殴っている。白髪の男は胡散臭そうな雰囲気を醸し出しながら路地裏を歩く。少女はそんな風景を見つめながら、ベッドの上に戻った。
目を瞑れば、眠りに入る。それが人間の性と言うもの。しかし、彼女にはそれができない……。
いつからだろう。眠れなくなったのは。
いつからだろう。彼が私を抱いたのは。
闇へと続く道、虫の音、裸足の冒険者。
ランプの薄灯り、軋む廊下、真夜中の少女。
屋根裏、埃まみれの小部屋、古びた玩具箱。
四色の闇、転がり落ちた玩具、残酷な遊戯……。
眠れない夜、毎日のように【彼】は私に囁くのだ。死を招く紫水晶の瞳を持つ、【彼】……。
「ヤァ、不運ナ姫君ヨ……」
少し曇りが買った彼の声は、何処からともなく聞こえてくる。彼は……タナトスは、私を眠らせない。いつまでも見せ続けるのだ。永遠に終わることのない、【死の幻想】を……。
「やめてよ……見たくない、そんな物……!!」
いくら拒もうが、いくら逃げようが無駄なのだ。タナトスは誰も逃がさない……。
そこに在る風景。
それは――壊れたマリオネット。
それは――銀色の馬車。
それは――輪廻の砂時計。
それは――珊瑚の城。
【死の幻想】。それは彼と彼女が見せる幻想に生まれし第2の物語。
眠れぬ夜の悪夢、意識の深層で彼女はタナトスの囁く声を聴く。それは時に優しく、時に切なく響いた。不完全なる願望、恣意に傾く天秤、現実と幻想に揺れる、少女の境界。
不可逆なる時が昼と夜を繰り返すように、意識の表層と深層は鮮やかに配役を入れ換える。
誰もタナトスから逃げれない。奈落に堕ちるように、冥府に堕ちるのも容易いことなのだ。いかなる賢者であれ、英雄であれ、赤子であれ、タナトスの紫水晶の瞳から逃れない。
そこに在る風景。
それは、タナトスが見せる永遠の【死の幻想】。
嗚呼、今日も彼が私を抱く……この眠れない夜に。
─幾度となく繰り返される風景 唯そこに在るという悲劇─
この世界の摂理。それは朝に生まれ、夜に死んで逝く。私は、今までそれを知らずに生きていた。私が初めて死を知った、忘れられないあの日。
「おはよう、お姉ちゃん。」
妹はとても元気だった。私に負けないくらい。
「さ、朝ご飯を食べて、外でみんなと遊ぼう。」
「うん!」
私たち二人は毎日のように遊んだ。生まれてきたことをとても感謝していた。
草原を吹き抜ける風が頬を優しく撫でた。ふと、私は妹の方を見る。妹の背後には……二人の、壊れたマリオネット。
「あなたの後ろの……それ、何!?」
「え、何かいる?」
妹は自分の背後を見る。しかし、既にその姿は無かった。
「変なお姉ちゃん、疲れてるんだよ、きっと。」
「そう……かな……?」
「そうだよ、きっと! おうちに帰っておやつ食べよ!」
「……うん」
あの壊れたマリオネットは幻だ、幻想だ。きっと遊び疲れていたんだろう。その時まではそう思っていた。しかし――。再び、二人は現れた。額に文字を刻んだ、唯同じ動きを繰り返す壊れたマリオネット。その紫色に包んだ衣装をなびかせて、妹を抱く。
「やめろ……離せ!!」
「お姉ちゃん――」
マリオネットは妹を抱きかかえたまま、崖を堕ちていった。私は叫んだ。二度と戻らぬ、妹の事を想いながら。
雨の日、妹の葬列が行われた。今まで妹と過ごした追憶が懐かしき旋律とともに揺れ踊る。あいつが悪い、あいつのせいだ。あのマリオネットが妹を奪った。黄昏に芽生えた殺意。それはもう一人の私……。
意識の彼岸で、私は目覚める。宵闇に踊るのは、避けられない約束。それは……死。
「さようなら……」
私は物言わぬ亡骸にそう言う。嗚呼、なんて悲しい寝顔なの……。私は妹の首筋に、口づける。赤い唇の跡が残った。
壊れたマリオネット。それはタナトスの衝動に突き動かされるだけの存在。
夜の闇。それは死への恨み。衝動は私を夜の闇に捕える。私は、もう眠れない。
屠る華を捜すように夜空を舞う蝶は、綻びた瑕を抱いたタナトスのマリオネット……。
─衝動という名の忌避すべき悪夢 壊れたマリオネットは誰?─
この世界に生まれれば死は必然。避けることは許されない。その冷たい死の鎖は容易く身体に絡みつく。
「はじめまして、私のかわいい坊や……」
母は優しく、生まれ落ちた愛しい我が子に語りかけた。泣き続ける赤子を母は優しくゆする。
「おめでとうございます、元気な女の子です。」
「ありがとう……ございます……」
母はうれし涙を流した。我が子の誕生を、誰よりも喜んだ。
「あなたの名前は、遠い昔にもう決めてあるわ。あなたは――。」
彼女が部屋で、赤子を抱きながらつぶやいたその時だった。見えない死の鎖を手繰り寄せ、地上へとやってきたタナトスの使者……。彼女は、使者をみて思い出す。愛しい人を奪われたあの時の追憶。黒き衣裳を身に纏い、髑髏仮面をつけたタナトスの使者。
死なせたくない。
彼女の衝動はすぐさま身体を突き動かし、外へと駆け出た。季節は冬。吹雪が荒れ狂う極寒の季節。それでも構わず母子は駆けだした。
「あなたは……絶対に……守りきる……!!」
吹雪から赤子を守るため、彼女は赤子を抱きかかえる。大切に、大切に。
吹雪の夜の情景、白夜に彩られた悲しい物語……吹雪の雪原を駈けて行く女、幼子を抱きかかえて。
彼女は、背後からやってくる何かに気付いた。彼女の背後を追いかけるもの。
それは――銀色の馬車。タナトスは……決して逃がさない。
銀色の馬車は、疾風のように逃げる影を追いかける。
いとも簡単に、馬車は母子に追いついた。泣きながらも赤子を守ろうとする母。しかし、人が死に勝てるわけがない。訪れる死を避けれない。それが生命の性。
「嫌だ、そんな――。」
黒衣の男は凍てついた蒼く燃える手を振りかざす。それは赤子の胸を屠った。眩い光が、一帯を包んだ。その衝撃で、母は気絶してしまった。
目覚めたとき、もう手遅れだった。息をしない我が子。物言わぬ亡骸を抱きかかえて、泣き続けた。
そして母は、雪原に埋めた。愛しい我が子の亡骸を……。
Never cries, Never moves, Baby is under the snow――
Never smiles, Never grows, Sad song of fate――
この世界を生きるからには死は必然。それはいつ訪れるかわからない。二度も愛しい人をタナトスに奪われた女性。彼女のその後の人生を知るものはいない。