相馬から日立木(にったき)、鹿島を経て、終点の原ノ町にあっさりと到着。もう着いたの、という問いが、これほど重みを持つ終着駅もそうはあるまい。そうそうあっても困るのだが。
改札を出たところには、この街にかつてあったという原町無線塔の写真が掲げられていた。
原町無線塔は1921年(大正10年)、磐城無線電信局原町送信所の主塔として建設された。高さは201メートル、東京タワーができるまでは日本一の高さを誇る建築物であった。
無線送受信技術の急速な発達もあり、活躍した時期自体は短かったものの、この塔が関東大震災の発生を世界に知らせるという役割を担ったことは特記されよう。
無線塔はその後地元住民にとってのシンボルとして長らく親しまれてきた。しかし、老朽化によって倒壊の危険が迫る中、1982年に解体。跡地は現在では公園となっている。
そんなわけで、30年以上も前に解体された塔を、解体直前の1981年に撮った写真である。そこに過ぎ去った時代を感じるのは至極当然のことである。
もっとも、私が時代を感じたのは無線塔よりも、通りを走る車とダイエーのロゴなのだが。
原ノ町駅。相馬駅と同じぐらい真新しい駅舎であるが、こちらは比較的近代的なイメージの建築という気はする。あくまで相馬駅との比較であるが。
しかし、正午をはるかに回り、流石に腹が空いてきた。駅前にそばやがあったので入ってみたのだが、昼時というのに人があまりいない。
テーブル席と立ち食い席があるのだが、立ち食いになるカウンターには1人しか人がおらず、8人は座れそうな2つのテーブルも2,3人ずつで分け合っている程度。
ともあれ、わざわざ相席をすることもないと思い、そばを注文してカウンターで食べようと思ったところ、ちょうどテーブルが1つ空いた。女性店員が、テーブルに移っていいですよ、と、愛想でもなく言う。
大テーブルなのに大丈夫か、と思いつつも断れない気弱さ、そばをもってテーブルに移動し、座って食べ始める。意外にも量のあるそばを食べる間、車は次々と通り過ぎていくが、客が入ってくることはない。
そばを食べ終え、早々に店を出る。いつ急変するやもしれぬ青空の下、整備された道が伸びている。
まだ時間はある。少しだけ歩いてみよう。
※ 原町無線塔についての記述は、上記写真へのキャプションに加え、下記のウェブサイトを参考にしました。
■ 原町無線塔物語(2014年3月8日閲覧)
■ 「原町無線塔」の歴史紹介(2014年3月8日閲覧)
改札を出たところには、この街にかつてあったという原町無線塔の写真が掲げられていた。
原町無線塔は1921年(大正10年)、磐城無線電信局原町送信所の主塔として建設された。高さは201メートル、東京タワーができるまでは日本一の高さを誇る建築物であった。
無線送受信技術の急速な発達もあり、活躍した時期自体は短かったものの、この塔が関東大震災の発生を世界に知らせるという役割を担ったことは特記されよう。
無線塔はその後地元住民にとってのシンボルとして長らく親しまれてきた。しかし、老朽化によって倒壊の危険が迫る中、1982年に解体。跡地は現在では公園となっている。
そんなわけで、30年以上も前に解体された塔を、解体直前の1981年に撮った写真である。そこに過ぎ去った時代を感じるのは至極当然のことである。
もっとも、私が時代を感じたのは無線塔よりも、通りを走る車とダイエーのロゴなのだが。
原ノ町駅。相馬駅と同じぐらい真新しい駅舎であるが、こちらは比較的近代的なイメージの建築という気はする。あくまで相馬駅との比較であるが。
しかし、正午をはるかに回り、流石に腹が空いてきた。駅前にそばやがあったので入ってみたのだが、昼時というのに人があまりいない。
テーブル席と立ち食い席があるのだが、立ち食いになるカウンターには1人しか人がおらず、8人は座れそうな2つのテーブルも2,3人ずつで分け合っている程度。
ともあれ、わざわざ相席をすることもないと思い、そばを注文してカウンターで食べようと思ったところ、ちょうどテーブルが1つ空いた。女性店員が、テーブルに移っていいですよ、と、愛想でもなく言う。
大テーブルなのに大丈夫か、と思いつつも断れない気弱さ、そばをもってテーブルに移動し、座って食べ始める。意外にも量のあるそばを食べる間、車は次々と通り過ぎていくが、客が入ってくることはない。
そばを食べ終え、早々に店を出る。いつ急変するやもしれぬ青空の下、整備された道が伸びている。
まだ時間はある。少しだけ歩いてみよう。
※ 原町無線塔についての記述は、上記写真へのキャプションに加え、下記のウェブサイトを参考にしました。
■ 原町無線塔物語(2014年3月8日閲覧)
■ 「原町無線塔」の歴史紹介(2014年3月8日閲覧)